紫煙を飲む飴

※ロケット団解散後

毒を飲んでいるような人だと思った。

今日も肩の辺りにドガースをふわふわと漂わせながら、細い右手をひらひらと振り、何処か不自然さを感じさせる足取りで路地裏の向こうから歩いてくる。
左手の人差し指と中指は当然のようにタバコを挟んでいて、ああ、今日もやはりこの人の周りの空気は淀んでいるのだと、この人を纏う霧は晴れることがないのだと、思い知る。

「うん、ちゃんと生きてるな」

「……生きていますよ?当然です」

「いや、当然じゃねえよ。お前は偉いなあ。そうだよなあ、お前がオレたちをやっつけちまったんだもんなあ」

彼の伸びてきた手が私の頭を乱暴に、しかし恐ろしい程に弱い力で撫でていった。
わしゃわしゃとある程度掻き乱したところで、彼の冷たい指は私のお気に入りである短いツインテールへと伸びる。
その一房を人差し指にくるりと絡め、何が楽しいのか、柔らかく笑ってみせる。その拍子に小さくできたえくぼを見上げれば、「綺麗な髪だな」とまた笑った。

何をするでもない、毎日のたった数分。けれどここ数週間、一度も欠かしたことのないこの時間。
彼の周りには、いつだって紫色の煙が漂っている。朝の霧が、その煙を遠くへと運んでいく。だから彼がこの町の何処にいるか、私は直ぐに解ってしまう。

コガネシティでこの人を見つけたのは全くの偶然だった。まだ陽の出ないうちから目が覚めてしまった私は、まだ賑やかになっていないこの町の大通りを散策していた。
早朝、薄い霧が漂っているこの時間帯に、外を出歩く人は本当に少ない。
そんな中で、覚束ない足取りで裏路地へと足を運ぶこの男性に目が留まってしまったのは、きっと必然だったのだろう。
更にはその、やや俯きがちに曲げられた背中や、紫色の髪に、かつて戦ったあの男性を思い出したとして、それだって、きっと当然のことだったのだろう。

私は弾かれたようにアスファルトを大きく蹴った。彼を見失うものかと必死だった。
路地裏に滑り込んで、私のスニーカーの音がビルの隙間に木霊するのを聞きながら、ようやく追いついたその肩を、掴んだ。
振り向いた際にふわりと紫煙が私の鼻を掠め、思わずむせ返ってしまった。咳が止まるのを待ってくれた彼は、私を見下ろして、眉をくたりと下げて笑ったのだ。

『なんだよ、コトネじゃねえか。』

そのあまりにも覇気のない笑みに、かつてラジオ塔やチョウジタウンのアジトで見たような、底知れなさと恐ろしさを見ることは最早不可能だった。
疲れ果てている。それくらいは、子供である私にも一目で解った。

貴方はあれからどうしていたんですか?ランスさんやアテナさん、アポロさんは一緒じゃないんですか?団員の皆は、何処へ行ってしまったんですか?
彼に尋ねたいことは、山程あった。けれど私の口は、そのどれもを尋ねることをせずに、たった一つの確認だけを紡いで押し黙ったのだ。

『死にませんよね。』

『……。』

『死にたいなんて、思っていませんよね、ラムダさん。』

ドガースの煙がなければ生きることができないのではないか。そう錯覚させる程にその紫煙を纏いすぎていた彼は、どうにも生きることに消極的であるように見えたのだ。
死にたいなどとはきっと、思っていないのだろう。けれど彼を明日に突き動かすものは、もう、彼の周りにはただの一つも残っていないように感じられたのだ。
だから、怖くなってしまった。

私が貴方の生きる意味を奪ったの?
だから、そんなにも死にそうな顔をしているの?

けれど私のそうした不安に反して、彼は私の予測とは全く逆の言葉を紡いだ。

『それじゃあ、明日もこの町に来いよ。それで、オレに会いに来い。』

『え、どうしてですか?』

『オレに死んでほしくないんだろう?それなら毎日、オレに会いに来ればいい。そうすりゃ死なねえよ、きっとな。』

彼が何故そんなことを言ったのか、子供である私にはまだ理解することができなかった。
けれど、かつて、彼等の居場所であったあの組織と対峙した私という存在があれば、この人は死なないのだと、そうした趣旨を察することくらいはできたのだ。
その理由はやはり、解らなかったけれど。

私は彼の言う通りに、毎日、この町へと足を運んだ。そして、それは今でも続いている。
彼のいる場所は日によって、サイコロを振るように変わったけれど、それでも私は彼を見つけられた。だって彼の紫煙はあまりにも濃いのだ。
早朝の白い霧の中に見える確かな色を、私はいつだって見逃さなかった。だから私はこうして彼に会える。だから彼はこうして生きていてくれる。

彼が徐に放り投げた複数のボールから、次々とドガースが出てくる。
マタドガスが1匹だけ彼の近くで大人しく漂っていたけれど、残りの5匹はもうすっかり顔馴染みとなってしまった私を見つけると、楽しそうに笑って宙を泳いできた。
おはよう。今日も皆、元気だね。そんな挨拶を交わしていると、彼から制止の言葉が飛んできた。

「オレじゃねえんだから、そんなにひっつくな。うっかり倒れちまっても知らねえぞ」

ああ、私の体を案じてくれていたのだと気付くや否や、脳をあまりにも冷たいものが駆け巡った。
かつてはその煙を、ロケット団の幹部として、様々なことに使ってきたのだろう。無知な私でもそれくらいの予想はついた。
それはたとえば団員への懲罰であったり、裏切り者やスパイへの拷問であったり、もっとあるのかもしれないけれど、おそらく私の想像は強ち、間違いではないのだろう。
そうした時に彼のパートナーであるこのポケモンたちは、その紫煙でロケット団の確固たる統率を支えてきたのだろう。

ロケット団がロケット団であるために必要であった筈のその紫煙を、彼は決して私に向けようとしない。
ドガースたちが私を慕っているからこうして会わせてはくれるけれど、彼はいつだって私と挨拶を交わすドガースから視線を逸らさない。
その左手の指に挟んでいたタバコだって、先程、アスファルトに落として踏みつけてしまったことを私は知っているのだ。
いつだって、会うときには必ずタバコを吸っているのにもかかわらず、私と話をするときにはその存在をなかったことにしてしまうのだ。

彼は私に煙を向けない。それはその煙が害のあるものだと知っているからだ。
それじゃあ、その煙のことをそこまでよく知っているにもかかわらず、その煙を常に纏わせている彼は、紫煙を肺いっぱいに吸い込んで満足そうにくたりと笑う彼は、

一体、何処へ行こうとしているのだろう?

けれど彼は「死なない」と言った。私がこの人に会いに来ているうちは、みすみすその紫煙で命を絶ったりはしないのだと、そういった趣旨のことを口にして笑ったのだ。
だから私はそれに甘んじている。彼が常に纏わせているその紫煙はただの嗜好品のようなものであり、特に深い意味などないのだと言い聞かせている。

けれど、それでも恐ろしくて堪らなくなるのだ。見ていられなくなるのだ。そして本当に彼が死んでしまったら、私はあの疑問を確信にしなければならなくなってしまう。
すなわち、「私がロケット団に刃向ったからこの人は生きる意味を無くしたのだ」と、「私が彼等の生きる意味を奪ったのだ」と、そう、確信せざるを得なくなってしまう。
私はそれが酷く恐ろしい。そして、そんなことを恐ろしいと思ってしまう自分に、ほとほと、嫌気が差している。
私はこの人が死んでしまうことよりも、それによって私の罪を突き付けられてしまうことの方が恐ろしいのだと、そう認識すればぐらりと眩暈がした。
自分の矮小さと卑怯さが信じられなかった。私は自分の振りかざした正義を悔い始めていた。

でも、それじゃあどうすればよかったというの?

「飴、持ってねえか?」

そんな私の鬱屈とした思考を止めたのは、彼のそんな言葉だった。
今は持っていません、と告げた私に、彼はそうかい、と緩い相槌を打ってから、紡いだ。

「じゃあ、明日から一日一粒ずつでいいから、飴を持ってきてくれよ」

それは、きっと今まで彼が紡いだどんな言葉とも違った響きを持っていたのだ。
今まで彼は、私が彼に会いに来ることを拒まなかった。
彼の提案により始まったこの時間は、しかしただの「提案」であり、私の意思によって続けることも止めることもできるものである筈だった。
けれどそんな彼が、私に明日を約束しろと言っている。明日も私が彼の元にやってくることを前提に話を進めている。
彼の毎日に、私の数分間が組み込まれている。彼は明日、私がやってくることを確信している。彼は私を、待っている。

私は、安心した。
いつからだったのだろう、とか、それならそうと言ってくれればいいのに、とか、そうした思いの全てを弾き飛ばすように、笑ってみせた。
大丈夫だ、きっと今の彼は大丈夫。彼は死なない。私を待ってくれている彼が、私を置いていなくなってしまう筈がない。
だって貴方が死んでしまったら、誰が貴方のために用意した飴を食べてくれるというの?

「どんな味がいいですか?」

「甘いのがいいなあ。とびきり甘ったるいのだ」

その甘さが、紫煙の苦さを飲み込んでくれればいいのにと思った。
私は「分かりました!」と即答し、自分が食べたことのある中で一番甘い飴は何だったかな、と考えを巡らせ始めていた。
朝の霧を大きく吸い込んで背伸びをした私の頭を、彼は驚く程の力強さで撫でた。


2015.11.17
貴方の神になる

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