竹林の中を分け入るミヅキの両脚には、擦り傷がいくつも付いていました。
生い茂る草の中には、葉先が鋭いものや茎が硬いものもあったのでしょう。そうしたものに傷付けられて、彼女の白い脚からは赤い血が僅かに滲んでいました。
あなたは驚いてミヅキを引き留めようとしましたが、彼女は笑いながら「大丈夫!」と告げるばかりで、歩みを止めようとはしませんでした。
けれどもそのすぐ後ろを付いて歩いているあなたは、特に大きな切り傷を作ることなく歩き続けることができていました。
長い草が頬を掠めたり、肘を擦ったりすることはあったのですが、ミヅキのように血を見るような怪我をすることはありませんでした。
最初は、ミヅキがわざと、近くの枝や草に脚や頬をぶつけるようにして歩いているのかと思っていました。
事実、前を歩くミヅキの身体は不自然にゆらゆらと揺れているようだったからです。
「セラは大丈夫?怪我、していない?」
「私は大丈夫だけど……でも、ミヅキが、」
けれど、彼女は傷付くことが好きである訳ではなかったのだと、あなたはその竹林を抜けきったところで、ようやく気が付きました。
赤や黄色の花畑を背景に、満面の笑みを浮かべる傷だらけの少女は、あなたの前を歩いて道を切り拓くことで、あなたが枝や草に傷付かないようにしていたのです。
人の心に傷を付けることを全く躊躇っていない様子であった彼女は、けれどもあなたの身体に傷を付けまいとして、自らの腕や脚をもって、その枝や草を倒していたのです。
だから、あなたには傷一つ付いていないのです。
あなたはさっと青ざめて、焦って、「ごめんなさい」と早口で謝りました。
ミヅキは一瞬だけ驚いたように目を見開きましたが、すぐにケラケラと笑いつつ「いいんだよ、気にしないで!」と、先程までと寸分変わらない明るい声音でそう告げました。
「それよりほら、見てよ!ここが秘密の花畑なんだよ。此処には上の崖から飛び降りるか、さっきの竹林を抜けてくるかしないと来られないの。
私は普段、崖からカミツルギに下ろしてもらうんだけど、セラはさっきの道を使うといいよ」
「……あ、ありがとう。でもどうして此処が「秘密の花畑」って呼ばれているの?」
「ずっと、此処は私だけの秘密の場所だったから。町の外から戻ってきたクリスさんに、ついこの間、見つかっちゃったんだけどね」
「ふふ、ミヅキちゃんは狡いなあ。こんな素敵な場所を誰にも話さずに隠しておくなんて」
あなたが先程抜けてきた竹林の奥から、クリスが姿を現しつつそう告げました。
ミヅキは悪戯を見抜かれた子供のように、舌を出しつつ肩を竦めて笑い、「でも貴方にとっては「隠れて」いなかったでしょう?」と、
クリスの勘の良さをからかうように、その慧眼を責めるように、歌ったのでした。
あなたは改めて、この「秘密の花畑」を見渡しました。
広さは、あなたの通っていた小学校の教室くらいでしょうか。そこに、赤や黄色の鮮やかな花たちが、その色を競い合うように咲いていました。
花の形も色も大きさもバラバラだったので、おそらく誰かが意図的に植えたものではなく、自然と咲くに至ったものなのでしょう。
周りには長く伸びすぎた竹があり、それらが互いに枝を凭れかかるようにして重なり、垂れ下がっていました。
その隙間から差し込む木漏れ日と、垂れ下がる竹の葉がさわさわと揺れる様は、まるでシャンデリアのようでした。
そのシャンデリアの真下に当たる場所は、花が映えておらず、青く短い芝生のような草ばかりが生い茂っていました。
もしかしたらミヅキはいつもこの位置に座って、ポケモン達と遊んでいるのかもしれません。
北側にはミヅキの言うように高い崖がありました。もしかしたらこの上は、サターンの言っていた「シロガネ山」に続いているのかもしれません。
かなり険しく高い崖であったため、あなたはこのような崖から、カミツルギのようなポケモンにどうやって「下ろしてもらう」のか、とても気になって、尋ねてみました。
「カミツルギに下ろしてもらうって、どういうこと?」
「この子はとても力持ちなの。私を抱えて飛ぶことだってできるんだよ!」
彼女がそう告げるや否や、その背中にぴったりと貼り付いていたカミツルギが、ふわりと蝶のように飛び立ちました。
ミヅキはクスクスと笑いながら、その細く薄い手を片方ずつ、両手でしっかりと握り締めます。
カミツルギはそのまま、まるでヘリコプターのようにミヅキを抱えて飛び上がりました。
呆気に取られたように口をぽかんと開くあなたを見て、ミヅキは面白がるように声を上げて笑いました。
30cm程のとても小さなポケモンが、自らの身体よりもずっと大きな人間を持ち上げて、花畑の上を滑らかに飛び回る様は、衝撃的な光景としてあなたの目に焼き付きました。
「ザオボーさんの家の窓からも、そうやって出て行ったんでしょう?」
けれどもクリスはその衝撃的な姿を見慣れているようで、彼女があの、用水路に阻まれた窓から出て行ったからくりを、まるで息をするような自然さで口にしました。
成る程、確かにこのポケモンに掴まれば、あの用水路を飛び越えて向こうの道に下ろしてもらうことなど、簡単にできます。
こんなに小さな命が持つ、あまりにも大きな力はあなたにはまだ信じ難いものでしたが、その力を目の当たりにしてしまった今、やはり信じない訳にはいかなかったのでした。
「あーあ、クリスさんに隠し事はできないなあ。私がどうしようもない人間だってことまで、きっと貴方は知っているんでしょう?」
「そんなことないわ。私はミヅキちゃんのこと、好きだよ」
「あはは、ありがとう!私もクリスさんのこと、大好きだよ!」
歌うようにそう告げて、ミヅキは花畑の中央にある、花のない場所に豪快に寝転がりました。
セラもおいでよ、と仰向けになった状態でミヅキはあなたを呼びます。
あなたもその隣にそっと腰を下ろしたのですが、途端にぐいと腕を引かれて、ミヅキと同じように草の上へと転がされてしまったのでした。
けれどもあなたは、そんな強引な行動を取るミヅキに対して不快な感情を覚えることを忘れていました。
何故なら仰向けになった状態で見上げるこの花畑の天井は、息を飲む程に美しかったからです。
垂れ下がる竹の隙間から、太陽の光が気紛れにぽつぽつと降り注いでいました。まるで揺らめくシャンデリアのように、それはあなたの目を優しい眩しさで穿ちました。
この場所を「秘密」にしておきたかったミヅキの気持ちが、胸が締め付けられる程によく解ってしまいました。
そんな秘密の場所に、私が簡単に入ってもよかったのかしら、とあなたは少しばかり不安を覚えましたが、知ってしまったものは、もう忘れようもなかったのでした。
「……」
あなたは言葉を発することを忘れて沈黙していました。お喋りが好きなミヅキも、そこからは一言も声を発することなく、穏やかに微笑みながら目を閉じていました。
暫くして、その隣から小さな寝息が聞こえてきたので、あなたは少しばかり驚きましたが、
クリスはあなたとミヅキを覗き込むようにして、それを許すようにクスクスと笑ったのでした。
「セラちゃんもお昼寝する?折角の夏休みなんだもの。贅沢に時間を過ごすのも、きっと楽しいわ」
「いいの?」
「ええ、勿論。夕立が来る前にはちゃんと起こしてあげるから、ゆっくりおやすみ」
あなたは今朝、天気予報を見ることを忘れていたのですが、きっとクリスは見ていたのでしょう。
夕立が来る、という夏の予報はよく外れるものですが、念のため、早めに帰宅しておくのはいい考えであるように思いました。
けれども「ありがとう」とあなたが小声でお礼を告げると、何故だかクリスはとても驚いたような表情になりました。
けれどもすぐにその驚愕を隠すような笑い方で、「どういたしまして」と、少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら、告げました。
あなたはお腹の上にしっかりとタマゴを抱えた状態で、目を閉じました。
さわさわと揺れる竹のシャンデリアは、まるで子守歌のようにあなたの鼓膜を、気紛れなリズムでくすぐり続けていました。
あなたの腕の中で、タマゴも不規則な揺れを見せていました。その揺れは、朝の頃に比べて段々と大きくなっているようにも思われました。
鼻歌が聞こえてきました。少し離れたところから聞こえてくるそれは、おそらくクリスのものだったのでしょう。
ゆっくりとしたテンポの、4拍子の優しい鼻歌でした。何という名前なのだろう、と思いながら、あなたはそのまま夢の中に沈んでいきました。
2017.8.10