お姉ちゃんが作る冷やし中華は、とても美味しいものでした。
冷やし中華など、誰が茹ででも同じであるように思われましたが、麺ではなく、上に乗せられたトッピングが絶品だったのです。
錦糸卵をこんなにも綺麗に薄く作れる人に、あなたは初めて出会いました。
あなたの母親も冷やし中華をたまに作ろうとしてくれるのですが、冷たい麺の上に乗っているのは、いつだって錦糸卵ではなくゆで卵でした。
一度だけ、錦糸卵を乗せてとねだったことがあったのですが、そうすると母親は勇んでキッチンに立ったものの、
30分後、彼女は目にいっぱいの涙を溜めて、ごめんね、ごめんねと言いながら、あなたにスクランブルエッグの乗った冷やし中華を出してくれたのでした。
「あはは、おかしい!でもそれはお母さんのせいじゃないわ。きっとフライパンが悪いのよ」
そんな話をするあなたに、お姉ちゃんは豪快に笑いながら、あなたの母親の技術の低さではなく、道具の質の低さを指摘しました。
「私のフライパンは商売道具だから、とても質が良いの。あれを使えば、セラのお母さんだって簡単に錦糸卵を作れるようになるわ。
それでも難しいようだったら……そうね、溶き卵に水溶き片栗粉を少しだけ混ぜると、生地が薄く伸びて、焼きやすくなるんじゃないかしら」
「そうなんだ!ねえ、私も錦糸卵の作り方を覚えるよ!向こうに帰ったらお母さんに教えてあげるの。そうすればお母さん、もう、泣かなくてもよくなるよね」
「いいね、素敵!私は昼や夜はずっとこのカフェにいるから、声を掛けてくれればいつだって教えるよ。
折角、お父さんやお母さんと離れて暮らすんだもの。いろんなことを覚えて帰って、二人をびっくりさせてあげるといいよ!」
そんな風に、二人きりの食卓には話し声が絶えませんでした。
テレビはありましたが、彼女は一度もそれを点けようとはしませんでした。代わりにカフェのBGMとして穏やかなピアノ曲が小さめにずっと流れていました。
その旋律は、あなたを楽しい気持ちにさせてくれました。
夕食を食べ終えたあなたは、お皿洗いの手伝いを申し出ました。
彼女は驚いていましたが、すぐに「そうね、それじゃあお願いしようかしら」と、空になったお皿を重ねて、あなたに渡してくれました。
大きなシンクは、まだ小学6年生であったあなたには少しだけ高いように思われました。
彼女はあらあらと笑いながら、小さな台を持って来てくれましたが、それに足をかけると、今度はシンクよりもかなり高い位置にあなたの手が来てしまう、という有様でした。
大人のように大きくはないけれど、子供のように小さくもない存在。小学6年生というのは、そうした年頃でした。
大人と呼ぶにはあなたはまだとても幼く、けれど子供と呼んでしまうには少し成長しすぎていました。
ポケモンの存在を信じているという点において、あなたは確実に子供ではあったのですが、
その理屈でいうと、お姉ちゃんも、そして一緒に電車に乗っていたあの女性も、等しく「子供」であるということになってしまいます。
あなたは、あなたがどちら側の人間であるのか、そもそもそうした区別など本当にできるものなのか、仮にできたとして、そんな区分は果たしてこの町で本当に必要だったのか、
……そうしたことが、いよいよ解らなくなり始めていて、それでも手を濡らす水は冷たくて心地よくて、食器のぶつかるカチャカチャという音までも、楽しかったのでした。
楽しい。
そう思うとき、そう「思われる」とき、あなたはあなたが小学6年生であること、大人とも子供ともつかない存在であることを、忘れていました。
きっとこれから先、あなたはこの町で「あなた」以外の何者にもなれないのでしょう。きっとそれはこの上なく幸いなことだったのです。
その尊さに、その「楽しさ」の真っ只中にいるあなたはまだ、気が付いていなかったのですけれど。
少し小さなお風呂に入って、古いドライヤーで髪を乾かしたあなたは、まだ夜の8時だというのにとても眠くなってしまいました。
慣れない土地で、やはり気疲れしていたのでしょう。
お姉ちゃんはあなたに「ちゃんと歯は磨くのよ、虫歯になるととても痛いから」と優しく忠告してから、
「おやすみなさい、セラ」
と、まるでお姉ちゃんではなく「お母さん」であるかのようにあなたの頭をぽんと撫でて、歌うようにそう告げて眠そうに微笑みました。
眠い目を擦りつつ、あなたはパジャマに着替えてベッドへと潜り込みましたが、途中で大事なことを思い出して、布団をがばっと撥ね退けました。
『今日は流星群が見られる日なの。』というお姉ちゃんの言葉が正しいなら、今日の夜空には星が流れている筈でした。
あなたは電気のスタンドを2回引っ張って、豆電球にしてから、あなたは窓に歩み寄りました。部屋の中を暗くしていれば、灯りに虫が集まってくる心配もしなくて済むからです。
あなたは窓に手を掛けて、そっと開いて、昼間とはまた違う匂いのする風を思い切り吸い込んで、そしてひどく驚くことになるでしょう。
「わあ……!」
何故なら田舎の夜空はあまりにも明るく、あまりにも美しいからです。
ダイヤモンドを流し込んだような星空が、更紗町を仄明るく照らしているからです。
夜において「明るい」のは、ビルの明かりと飲食店のネオンと、あと車や電車のライトくらいだとあなたはずっと思っていました。
都会では、明るいものは空ではなく、地面にありました。空にある明るいものを見つけたとして、それは大抵の場合、近くの飛行場へと向かう飛行機のライトでした。
月は見えましたが、都会のそれはあまりにも頼りないものでした。星だって、1つか2つあればいい方でした。
夜空というものには小さな月と数個の星しかないのだと、空とはそうした侘しいものなのだと、あなたは今日というこの日まで本当にそう信じて生きてきたのでした。
けれど、違ったのです。
田舎の地面は明るくありませんが、代わりに空がとても眩しく煌めいているのです。手を伸ばして、その煌めきの一つを掴みたくなってしまうような明るさだったのです。
そう思っていると、その星が流れ始めました。流星群、と言っていた彼女の言葉は本当だったようです。
あなたは思わず、夜空に走る煌めきに手を伸ばしました。そうすれば、星があなたのところへ走ってきてくれるような気がしたのでした。
「こんばんは!」
「!」
そんなことをしていたあなたに、声が掛けられました。
慌てて手を引っ込めて、あなたは声のする方を見下ろしました。男の子と女の子が、真っ直ぐにあなたを見上げていました。
あなたよりも年下のように見えたその二人の腕には、小さなポケモンが一匹ずつ抱かれていて、
ああ、ポケモンと一緒に暮らしているというのは本当だったのだと、あなたはその光景にすっかり目が覚めてしまいました。
「お姉ちゃん、名前は?」
「私はセラ。明日から1か月、この町で暮らすことになっているの!」
「わあ、そうなんだ!それじゃあこれから一緒にいっぱい遊べるね!」
彼等はポケモンを抱いていない方の手で、あなたに大きく手を振ってくれました。あなたも嬉しくなって振り返しました。
たったそれだけの会話でしたが、あなたを高揚させるには十分でした。
競うように小道を駆けていく二人、その名前を聞き忘れてしまったことにあなたが気付いた頃には、その姿はもう、暗がりに消えてしまっていました。
また会えたらいいな、会いに来てくれたらいいな、と思いました。そう思いながら、あなたはポケモンのことを思い、益々、目が冴えてしまいました。
流星群はまるで雨のように、この町へと降り注いでいました。
天体についてあまり詳しくなかったあなたは、この流星群が全国的なものなのか、それともこの町に来たからこそ見ることの叶ったものなのか、よく解りませんでした。
けれどももしこの流星群が全国的に観測されるものであったとしても、きっとあなたの住んでいた都会では、こんなにも美しい雨を見ることはできなかったことでしょう。
雨が美しく在るためには、地面は光を消して沈黙しなければいけないのでした。
何もないように見えるこの田舎町には、しかしそのための、雨が美しく降るための全てが揃っていたのでした。
そういった具合でしたので、あなたは窓に身体を預けて、いつまでもいつまでも、その煌めく雨を眺めていられたのでした。
何時まで起きていたのでしょう。何時に眠ってしまったのでしょう。星の雨はいつまで降り続けていたのでしょう。願いを叶えるポケモンは誰に微笑んだのでしょう。
優しい夢を見ていたあなたには、そうしたことの全てが解りませんでした。
けれども目覚めたあなたは、ただ一つの真実を、まだ夢が続いているかのような驚くべき真実を、目の当たりにすることになりました。
眩しい朝日で目を覚ましたあなたの腕の中、大きなタマゴが小さく震えていました。
2017.8.1