24:花の歌

『私に、貴方の本を書かせて。』
「彼女」にそう懇願したというシアの言葉が、2年の時を経てようやく実現へと動き出そうとしていた。

「まさか10日で書き上げるとは思ってもみなかったよ」

フラダリはあまりの驚きに苦笑しながら、シアが差し出した分厚い紙の束を受け取った。
「フラダリさんが作ってくれた骨組みに、文章を付け足しただけですよ」という謙遜と共に彼女は微笑む。
フラダリはカフェの椅子に深く腰掛け、大きく息を吸い込んだ。子供達にタイプ相性を教えているシアの声を聞きながら、その原稿の束に手を掛けた。
印刷されたその活字の並びは、時に冷酷に、またある時は激情に駆られたように、あるいは悲しそうに、苦しそうに、それでいて淡々と、丁寧に「彼女」のことを綴っていた。
フラダリは誤字が無いかどうかを探しながら、一言一句読み飛ばすことなく全てに目を通した。

カロスを震撼させた、8年前のあの事件。セキタイタウンに咲いた、美しい毒の花。
その兵器の発動を食い止め、フレア団を解散に追い込んだ、一人の少女。
ポケモンリーグのチャンピオンに勝利してから、行方を眩ませたカロスの英雄の、その後。

カロスで知り合った4人の友達、旅を支えたポケモン研究所の博士、家族。それら全てと連絡を絶ち、髪を染め、名前を捨て、別人を装っていたこと。
イベルタルに自らの命の半分を与え、自ら命を縮めるような行動に出たこと。
フレア団のボスであった男を救出するため、警察ですら捜索を断念していたセキタイタウンの地下に単身で潜ったこと。
ようやく見つけたその男と約束を交わし、共に生活を始めたこと。
5年と経たないうちに彼女が病魔に侵され、19歳という若さでこの世を去ったこと。

その後で、執筆者であるシアの視点から、彼女についての言及が為されていた。
彼女が選んだ緩慢な自殺の動機。最後まで誇らしく在ろうとした親友の覚悟。
また、シアはその本の中に、フラダリは勿論のこと、彼女を知る子供達や、彼女の旅路を支えたプラターヌのことも、全て許可を得た上で、実名で登場させていた。
そうして、彼女を知る者たちが経験した「喪の作業」を、シアは一つずつ、丁寧に書き記していた。

最後のページには、この本を手に取ってくれた人間への感謝と、シアからのたった一つの懇願が、彼女らしい言葉で綴られていた。

『自分の命をもって過ぎる一瞬を永遠にした私の親友のことを、私は私なりの形でこの世界に残しておきたかったのです。
この本を手に取ってくれてありがとう。最後まで読んでくれてありがとう。
彼女の、命を懸けたメッセージは貴方に届いたでしょうか?彼女の苦しみは意味のあるものだったでしょうか?』

彼女と共に喪の作業を繰り返してきたフラダリには、この文章からシアの「彼女」に対する想いを汲み取ることはとても容易なことだった。
これは「彼女」の、命を懸けたメッセージであると同時に、シアの全てを捧げたメッセージでもあったのだ。

シェリーを、忘れないで。』

そのたった一言の重みを、フラダリは誰よりも理解していたのだ。

その紙の束を閉じるや否や、シアが少しだけ照れたような表情で向かいの椅子に座った。
誤字は一つもありませんでしたよ、と告げれば、ほっとしたようにその華奢な肩を下ろして安堵の溜め息を吐いた。
カロスの言葉で書かれているにもかかわらず、誤字はただの一つもなかった。これでシアがイッシュの人間だというのだから恐れ入る。
フラダリは彼女がカロスの人間でないことを、時折、忘れそうになった。それ程に彼女の綴る文章は整っていたのだ。

「……何か、書き足しておきたいことはありますか?」

「いいえ、ありません。とても読みやすい文章でした。本の形になるのが今から楽しみですね」

実はこの本は、全て彼女の自費で出版される予定だった。
「私のような素人に、出版社が目を付けてくれる筈がないから」と、全て彼女が自分の財布からお金を出そうとしていたのだ。
最低でも50万程はかかるであろうその行為を、息をするように決断してしまった彼女にフラダリは驚きを隠せなかった。
解っている。この少女は、この本の利益で稼ごうという気など更々ないのだ。無料で配ることすら躊躇わずにやってのけてしまいそうな程であった。

「……ただ、子供達は驚くでしょうね、君と彼女の名前が入れ替わっていることに」

「そのことについても、私からちゃんと説明します。シェリーが愛した子供達を、混乱させたままにしておくようなことは絶対にしませんから、安心してください」

当たり前のようにそう告げた彼女は、あまりにもこの一件に関して献身的だった。
週に一度、このカフェに手伝いをしに来てはくれているものの、それは完全なボランティアだった。
それどころか、フラダリがこの仕事と研究所の手伝いで生計を立てていけるだけの給与を、彼女の率いる会社から定期的に出してくれているのだ。
ビジネスとしては、圧倒的に儲けの出ないこの活動に、しかし彼女は熱心に取り組んでいた。取り組み過ぎていた、と言ってもいい。
故に、そのような質問がフラダリの口から出たのは必然だったのだろう。

「……君は何故、彼女のためにそこまでするのですか?」

すると彼女はその海のような目を見開き、そして声を上げて笑い始めたのだ。
「確か、同じことをシェリーにも聞かれたことがありますよ」と、目を細めて懐かしそうに告げたその少女は、だって、と再び彼女らしい言葉を紡ぐ。

「彼女の為じゃないんです、私の為です。私がシェリーの親友でいたいからです。今までも、これからも。……いけない?」

歌うように紡いでシアは微笑んだ。あまりにも眩しすぎる海の目がそこにあって、フラダリは僅かな眩暈すら覚えた。

果たして「彼女」が、フラダリと共に過ごした5年間で幸せを享受できたのか、それは彼女にしか解らない。
しかし彼女の幸福の中の一つに、この女性の親友で在れたことが含まれているのだろうということだけは確信できた。
「彼女」がこの女性に寄せていた全幅の信頼と、死の間際に記したあの手紙が全てを物語っていたのだ。
臆病を貫き、世界を閉ざし続けた彼女の、それでも世界に愛されたいと望んだ彼女の、唯一の窓がシアだったのだ。彼女はその役目を最後まで果たした。
そして、「彼女」との約束を、今も尚、忠実に守り続けている。
フラダリはこの女性から、36通目の手紙を受け取っていたのだ。「彼女」を喪ったあの日から、もう3年が経過していた。

「あの花、綺麗ですね」

シアが指差したカフェのカウンター、その一角には、大きな立方体のガラスケースが置かれていた。
中には赤い薔薇の花束が眠っている。プリザーブドフラワーといって、特殊な加工で水分を取り除いた、枯れない花だ。
落ち着いた色の壁や床、主張しないデザインのテーブルや椅子ばかりが並ぶこの空間で、その赤は異彩を放っていると言ってもいい程に目立っていた。

『いいえ、大切にしなくてもいいんですよ。だって枯れないんだもの。』
お礼を紡いだフラダリに、穏やかな笑みでそう答えた「彼女」の透き通るようなソプラノを、彼はまだ忘れてはいなかった。
その言葉を忘れさせないために、彼女はその大きすぎるプレゼントを残していったのではないかとさえ思えたのだ。

「あの花より先に死んでしまうのだと、誇らしげに言っていました。色褪せないあの赤を見ていると、そんなことを思い出します」

その言葉に彼女は息を飲み、やがて泣きそうに肩を竦めて笑った。そこには「彼女」らしい発言を許す、あまりにも穏やかな微笑みが含まれていたのだ。

『私はきっと、私が貴方に贈った、あのガラスの中の花束より先に死んでしまいますから。』
『私は色褪せていく。誰もそれを止められない。』
枯れないプリザーブドフラワーを贈られたフラダリと、赤いカサブランカの生花を贈られた「彼女」との差異はあまりにも大きすぎた。
……その差が意味するところに、当時のフラダリは気付いていなかったのだけれど。
「彼女」は赤いカサブランカがその鮮やかさを失い、腐敗の色を見せるまで、その花を愛で続けていた。死を看取るかのように、その花に寄り添い続けていた。
彼女が腐敗したカサブランカに聴かせていた、あの上擦った調子外れの歌は、まだフラダリの脳裏で響いていた。

そのメロディを小さく口ずさんだフラダリに、数拍遅れて彼女が同じメロディを重ねた。
彼女がこの歌を知っていることに驚いたフラダリだが、そのメゾソプラノで紡がれる声音があまりにも美しかったので、思わず自分の声を止めてしまった。
あの時「彼女」が歌おうとしていた上擦った調子外れのメロディは、本当はこのような形をしていたのだと、数年の時を経て、フラダリはようやく理解するに至ったのだ。

「その歌、海底遺跡に描かれていた古代の楽譜を、現代の譜面に落としたものなんです。
私がよく口ずさんでいたので、シェリーも覚えてしまったんでしょうね。……彼女は「花の歌」と読んでいました」

「……花の歌」

「ロ短調の、子守唄みたいな歌ですよね。私も、大好きです」

シアはその歌を口ずさみながら、カウンターに置かれていたガラスケースに歩み寄った。
埃は勿論のこと、指紋の一つも見当たらない美しいガラスケースに、フラダリの几帳面な性格が表れているようで、彼女は思わずクスクスと微笑む。

きっと彼はこの花を、「彼女」のように大切にしてきたのだろう。自らの命をもってその存在を永遠とすることを選んだ彼女の、象徴であるように思っていたのだろう。
確かにこのガラスケースの中の花はとても美しかった。それこそ「彼女」を彷彿とさせるに相応しい美を備えていた。そしてこの花は皮肉なことに、決して枯れない。
今も変わらない鮮やかさで、この花は、「彼女」は、フラダリの中に留まり続けている。色褪せた彼女の色を引き取るかのように。彼女の永遠を象徴するように。

シェリー、私の前では恥ずかしがって、歌わなかったんです。私も聞きたかったなあ、あの子の歌声」

「……あまり、上手ではありませんでしたよ」

彼のその言葉に、シアはとうとう声を上げて笑った。
外から吹き込んできた風が、「彼女」を綴った紙の束を勢いよく捲った。彼女の死から3年、ようやく世界が、その真実を紐解こうとしていた。


2015.6.28

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