9.8(S)

私は何かに憑りつかれたかのように、毎晩、大量の手紙を書き綴っていた。
1か月、2か月と時が経つにつれて、紙袋の中の便箋は減っていった。フラダリさん宛ての手紙も順調に増えていった。
けれどそれは同時に、私がそれだけの手紙の数が示す時間だけ、彼を一人にしてしまうことを意味していた。

死ぬことは、もう怖くなかった。
カサブランカが枯れていく様を目の当たりにした、あの時の恐怖はもう私の中になかった。
あれからの数年間は、私にあの時の恐怖を薄めるだけの猶予を与えてくれていたからだ。
けれど、彼やシアと生きられないことを思うと、とても恐ろしかった。彼等を置いていかなければならないことがどうしても怖かった。
時折、手紙を書いている最中にそうした恐怖に襲われた。眠っているフラダリさんを揺すり起こし、彼の腕の中で泣いたことも一度や二度では決してなかった。
けれどそんなことを繰り返すうちに、私はそうした恐怖さえも受け入れられるようになっていた。
そんな時間を重ね、私はようやく笑えることができるようになった。そうして私は死への恐怖を克服するに至ったのだ。

それは失ったものを受け入れる過程だった。

けれど私の死を、私が受け入れることができたとしても、彼はまだ受け入れることができないようだった。
彼はあらゆる手段で私を救おうとしたけれど、できなかった。私の中の病はあまりにも進み過ぎていたし、何より私がそれを拒んだ。
身体を蝕む激痛を緩和するための、鎮痛剤というものも最低限の量しか受け付けなかった。
この痛みは私の罪に対する罰なのだと、私は言い聞かせるようにその痛みを被り続けた。

彼はそんな私に涙を流した。彼の目が潰れてしまうのではないかと思う程に、彼は私の前で泣き続けた。
そんな彼に「あと25年」を約束させ、その美しい顔に微笑みを湛えさせるためにかなりの時間と言葉を必要とした。
けれど、彼は優しい人だ。死の淵にある私の言葉を拒まない。最後まで私の意思を尊重し、私の懇願に頷いてくれた。

『30年でいいです。』
全てが始まったあの日に私が紡いだ30年は、私のための時間ではなく、フラダリさんのための時間だった。彼が天寿を全うできるようにするための30年だった。
彼に、一人で永遠を生き続けてくださいとはどうしても言えなかった。だからこそ、せめて貴方に与えられていた元の命の分だけは生きていてほしかった。

そしてそのことを、私の親友である彼女は即座に見抜いた。

私に迷いない幸福が残っているとすれば、それは間違いなく、この少女と出会えたことだ。

「私に、貴方の本を書かせて」

300通の手紙を詰め込んだ、大きすぎる二つの紙袋を私は彼女に託した。
1か月に一度、その手紙をフラダリさんに届けてほしい。そんな私の懇願を、彼女は一つの条件を出すことで受け入れた。

「自分の命をもって過ぎる一瞬を永遠にした、私の大切な親友のことを、私は私の手段でこの世界に残しておきたいの。
だからこの手紙も全て読ませて。貴方が焦がれた貴方の永遠を、私にも手に入れさせて」

私の人生が、本になる。
それはあまりにも夢のような話で、そんなことが可能なのだろうかと私は少しだけ、疑った。
けれど、疑う必要などきっとなかったのだ。だって彼女はシアだから。
かつての私が「あのカフェで、ポケモントレーナーを支援する活動をしたい」と言った時だって、彼女はそんな絵空事をあっという間に真実へと変えてくれたから。
彼女の力をもってすれば、一冊の本を世界に送り出すことなんて造作もないのだ。そして、そんな彼女の書く本の主人公に私がなれる。こんな幸福は他にないと思った。
彼女は最期まで、私にあまりにも沢山のものを贈ってくれた。

「皆に愛されたいと願うあまり命を投げ出すような愚かな過ちを、もう誰も繰り返すことの無いように、貴方が語り継いでくれるのね、シア

彼女は私のことを全て知っていたのかもしれない。
私があの日の愚かな行為を悔いていたことも、死に恐怖を抱いていたことも、それでも残りの時間を誇らしく生き抜こうとしていたことも、全て。
だって、彼女は私を一度も責めなかったのだ。シアは私を糾弾しなかった。「これが本当に貴方の望んだことだったの?」と、彼女は一度も問わなかった。

それとも、それは私の勘違いで、彼女は私の拙い嘘に騙されていてくれていたのかもしれない。
『……楽しいよ。あの日があったから、私はこうして笑っていられる。』
あの言葉を、私が振り絞った虚勢の笑みを、彼女は真実だと受け取ったのかもしれない。
けれど、そんなこと、きっとどちらでもよかったのだ。
……だって、彼女が気付いていようといまいと、私の言葉が嘘であろうとなかろうと、彼女は私の意思を尊重してくれたのだから。私の願いに寄り添ってくれたのだから。

「私は、貴方を誇りに思っているよ」

シアのその言葉が私の心臓を大きく揺らした。
最期まで誇らしく在ろうと思っていた。それは私が私であるために必要なことだった。
シアはそんな私の覚悟を認めてくれた。シアは私の全てを許してくれた。

「……最期まで強く優しく生きたシェリーのことを、私は忘れない。貴方は誰にも忘れられない。世界は、絶対に貴方を忘れたりしない」

シア、私は貴方に相応しい人で在れたのかしら。

実のところ、彼女は私の親友であり続けたことを悔いているのではないかと思っていたのだ。
だって私は彼女に何もしてあげられていないから。彼女のしてくれた沢山のことに、その恩を仇で返すようなことしか、私はできていなかったから。
きっと私は、彼女の親友である資格などないのだ。それでも彼女は私と一緒にいてくれた。
『だって、私がシェリーの親友でいたいんだもの。』
4年前のあの言葉に嘘はなかった。私は最期のこの時まで、彼女の親友でいることができた。
私が私に誇れることは、こんなところにもあったのだ。

最後に、彼女は私を抱き締めてくれた。確かな人の温もりがどうしようもないくらいに愛しくて、私はもっと、と欲張った。
彼女はその手にそっと力を込めた。その瞬間に、私はシアのポケットへと手紙を滑り込ませた。
シアの心臓の音が聞こえた気がして、私は思わず目を閉じた。
この心音はきっと、何十年も先まで続くのだろう。それは私が選ぶことのできなかった、とても苦しくて愛しい現象だった。


彼女は生きていた。


そっと離された手に、私は微笑んだ。彼女は300通の手紙が入った紙袋を二つ、両腕に下げてドアへと歩いた。
またね、と交わした再会の約束は、果たされないと私もシアも解っていた。けれどシアの声は震えてはいなかった。だから私は、笑った。
ドアの閉まる音で、この無機質な部屋の時が止まる。再びその時を動かしたのは、遠くで聞こえてきたシアの慟哭だった。

シア、私は貴方のことが大好きよ。私、貴方から沢山のものを貰ったの。とても幸せだったの。私の、かけがえのない親友だったの。

ありがとう。

零した嗚咽すら身体を軋ませた。私は涙を止めてベッドに横たわった。
白いシーツが私を沈めるように深く包んでいた。私は自分の心臓の上に手を置いた。
服の裏に小さく畳んで貼り付けた絵の中には、シアが描いてくれた私が、白いカーネーションを抱いた私が笑っていた。

「フラダリさん、私を忘れないで」

それは最後の懇願だった。彼が頷いたのかどうか、もう確認することすらできなかった。
4年前、カサブランカの枯れた姿に恐怖した、あの時のような激情はもう残っていなかった。ああ、こんなに穏やかなのだ。これが私の望んだ世界なのだ。
私はようやくそのことを理解するに至ったけれど、理解した時には、もう、それを喜ぶ必要などなくなっていたのだ。
だって私は最低な人間だから。卑怯な一手で緩慢な自殺を選んだ、臆病で卑怯な人間だから。

私の選択は誰も幸せにすることができなかった。それが全てだったのだ。

ポケモンの入ったボールは、フラダリさんに預けた。
シアから貰ったポケモンであるサーナイトを、私はシアに返そうとしたけれど、彼女は首を振ってもう一つのボールだけを受け取った。
あのカフェに集まっていた子供達には、フラダリさんの口から、私が旅に出たと伝えてある。それは優しい嘘だったけれど、強ち間違いでもなかったのかもしれない。
それはまさに旅立ちと呼ぶべき、人が一生に一度しか経験できない神聖で不可侵なものだったのだから。

あの金木犀の木は、今年も綺麗な花を咲かせるのかしら。
AZさんとフラエッテの永遠は、あとどれくらい続くのかしら。
カフェにやって来てくれていた子供達は、元気にしているかしら。
シアはあの後、どれくらい泣いていたのかしら。
私がいなくなってからも届く手紙に、フラダリさんはどんな顔をするかしら。
私は、笑えているかしら。

彼は何も言わずに私の手を握る。その温もりが遠くなる。
目を閉じて、私は焦がれた永遠を手にするために闇を蹴る。
少しだけ寂しいから、この手の温もりだけは一緒に持っていこう。


頑張ったね。彼女のメゾソプラノが私を見送る。


2015.6.28
(Le dèpart……旅立ち)
苦しみはその意味を見出した瞬間に苦しみであることをやめる(V・E・フランクル著「それでも人生にイエスと云う」より)

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