9.8(C)

「もう直ぐフラダリさんがやって来るから」

彼女はそう言って、暗に「時間」が来ていることを私に告げた。
私はこの5年間、彼女と数か月単位で顔を合わせていたが、その間、フラダリさんと会うことはただの一度もなかった。
彼女はフラダリさん以外の「全て」と関係を絶っている、という認識をフラダリさんは持っていた。そのように彼女が伝えていた。
だからこそ、私は彼の目を掻い潜るように彼女とささやかな時間を重ねてきたのだ。
そして今、その秘密の時間が終わろうとしている。

「ねえ、シア。これはお願いじゃないんだけど、聞いてくれる?」

パイプ椅子から立ち上がろうとした私に、シェリーは縋るような目を向けた。
ああ、彼女がそんな目をするのはいつ以来かしら。ここ5年間は確実に見ていなかったであろう、彼女の目の輝きを覗き込むようにして頷いた。

「セキタイタウンに、金木犀の木があるの」

「金木犀……?」

「私がこの5年間、小さな苗木から少しずつ、育てていたの」

金木犀。その単語は私に、あのライラックの素敵な香りを連想させた。
大きな木に、とても小さなオレンジの花が無数に咲かせるのだ。それは丁度、この300通の封筒の色のような。
そこまで考えて私は気付いた。この封筒の色は、彼女が育てていたという金木犀の色なのだ。

「もし、シアが金木犀を好きなら、枝を一本、持って帰ってもいいよ」

なんて素敵な申し出だろう。私はぱっと顔を輝かせてお礼を言った。
接ぎ木の勉強をして、イッシュの自宅に植えてみよう。大きな木だから綺麗な花を付けるには数年単位で時間がかかるかもしれないけれど、じっくり育てていこう。
金木犀はシェリーの木で、私はシェリーからそれを受け継ぐことができるのだ。

そこまで考えて私はふと、いいことを思い付いた。
両手に提げていた紙袋を地面に置き、一番上に置かれていた手紙を取り出して微笑む。

「それじゃあこの手紙には私が、ライラックの香水の香りを付けて送ってあげるね。
折角、シェリーの手紙を読む許可を貰えたんだもの。その許可と金木犀のお礼としてしたいんだけど、どうかな?」

「わあ、素敵……!」

シェリーはその枯れ木のような両手を合わせてそっと微笑んだ。その姿が5年前の元気だった頃のシェリーを思い出させて、私は思わず手紙を取り落とした。
その細い体をそっと抱き締める。少しでも力を加えれば、彼女は壊れてしまいそうだった。
それ故に私が躊躇っていると、シェリーがクスクスと笑いながら私に話し掛ける。

「いいよ、シア。もっと強く抱き締めて」

私はその言葉に応えるように、腕に込めた力をゆっくりと増した。少し時間を置いて、彼女の両腕が私の背中に添えられた。
触れた肌に感じたシェリーの手は驚く程に冷たい。けれどそれは紛れもない彼女の温度だった。生きている人の温度だった。私の親友の、命の温もりがそこにあった。


彼女は生きていた。


やがてどちらからともなく、すっと手が離される。
私はシェリーの顔を覗き込んだ。気丈で誇り高い彼女は最期まで泣かなかった。私も泣くまいと誓っていた。
私は300通の手紙が入った二つの紙袋を両手に持って、病室のドアへと向かった。

「それじゃあ、またね、シェリー

「またね、シア

いつもの挨拶、いつもの別れ。
彼女も同じように返してくれた。この再会の約束は果たされないと知っていた。
私の声は震えてはいなかっただろうか。よく、解らなかった。

長く伸ばされた彼女の髪は、もう染色のオレンジ色を失っていた。
つやを失ったストロベリーブロンドに、私は5年前の彼女を重ねる。シア、と私を呼ぶ、そのソプラノもすっかり掠れていた。
何もかもが変わってしまった。当たり前だ、変わらない筈がない。何もかもが同じところには留まれない。彼女の場合、それが少し早すぎただけ。
私もきっと、いつか彼女に会えるのだ。

私は今日一番の笑顔を浮かべた。シェリーも同じように微笑んでくれた。
ドアを閉めるパタンという音が全てだった。私はとうとう堪えていたものを零し始めた。
まだだ、まだいけない。私は涙に溺れたような顔で病院の廊下を駆けた。階段を1段飛ばしで駆け下りて、看護士の制止も聞かずに全速力で走った。

外に飛び出した。やわらかな風が私の濡れた頬を撫でていった。空はどこまでも青くて、雲一つなかった。
限界だった。でも、大丈夫。此処まで来れば私の慟哭はきっと届かない。

シェリー……!」

私は何度も何度も彼女の名前を叫んだ。声が枯れてしまえばいいと思った。
けれど声が枯れたところで、きっと私の慟哭は止まないのだろうと解っていた。

最後だ。本当に最後だったのだ。もう私は彼女に会うことができない。
フラダリさんが私の存在を知らない以上、彼女の死の際に駆けつけることだって許されない。
彼女を看取ることができるのはあの人だけなのだ。それが彼女の作った世界であり、彼女が守った時間だった。
私は彼女を看取れない。彼女のお葬式にも参加できない。フラダリさんに見つかってはいけないからと、手紙の一枚も渡すことができなかった。

「!」

着ていた服のポケットに違和感を拾い上げた私は、差し入れた手にありえないものを掴む。
それは紛うことなき手紙の形をしていた。
どうして、と考えるまでもなかった。私のポケットに手紙を入れられたとして、それができたのはあの時しかなかった。
私がシェリーを躊躇いがちにそっと抱き締めたあの時、シェリーが私の背中に手を回したあの一瞬で、彼女は私のポケットにこれを差し入れたのだ。

私は慌ててそれを引っ張り出そうとして、しかし掴んだ手紙とは別に何かの紙をアスファルトの上に落とした。
小さく折り畳まれたそれを拾い上げる。特徴的なその紙質には覚えがあった。私の心臓は大きく跳ねた。
……まさか。私は慌ててそれを広げる。

「あ……」

シェリーが、描かれていた。
それは私が5年前、彼女にプレゼントしたものだった。
カロスの4番道路で彼女と再会した私は、そこにあった大きな噴水に腰掛けたシェリーと、彼女のポケモン達を一緒に描き残していた。

『ねえ、またシェリーの絵を描いてもいいかな?ラルトスやケロマツも一緒に。』
『フラベベも絵の中に入れてくれるなら。』

『だってこれはシェリーの旅だから。この旅はシェリーだけのものだから。』
『いつでも直ぐに会えるよ。シェリーが呼んでくれたら直ぐにでも飛んでいくから。』
『世界一速いクロバットで?』
『そう、この子で。』

『それじゃあ、またね!』

その全てを覚えていた。忘れていない。忘れてしまえる筈がなかった。
私はその絵を抱き締めた。慟哭すら震えていた。
こんな5年前の拙い絵を、彼女はずっと、持っていてくれたのだ。そのたった一つの事実が、しかし何もかもを語っていた。
彼女はずっと、私を親友でいさせてくれたのだ。私はずっと、彼女に親友でいられたのだ。
そのことに安堵して、とてつもなく嬉しくて、けれどどうしようもなく悲しくて、私は泣いていた。

ずっと、ずっと堪えてきたのだ。彼女の前で私は一滴も涙を見せなかった。5年前に彼女が為したあの残酷な告白の日を置いて、私は一度も泣いたことがなかったのだ。
もう、私には泣くことが許されていた。けれどそれと同時に、これ以降の涙が許されないことも解っていた。
私はシェリーの最期に傍で泣くこともできない。彼女が灰になる瞬間に慟哭することもできない。
だからせめて今、思い切り泣いておきたかった。一生分の涙を使い果たす勢いで、泣き枯らしておきたかったのだ。
涙を拭う暇すらなかった。私は泣き続けていた。それは失ったものを受け入れる過程だった。


シェリー、貴方のことが大好きでした。貴方のことを尊敬していました。貴方を誇りに思っていました。私の、かけがえのない親友でした。

だから私は貴方のために、貴方の願いを最後まで叶えます。


私は泣き腫らした目を強く擦り、クロバットの入ったボールを投げた。行き先は勿論、セキタイタウンだ。
彼女の育てた愛しい木は、きっと長い時間をかけてとても美しい花を咲かせる筈だ。


2015.4.1

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