11:Ghost Girl

その夜、一人の男が月明かりの下で手紙を読んでいた。
もう日付も変わろうとしている。昼間は人が集い憩うミアレシティのローズ広場も、今では静寂に包まれていた。
ポケモンセンターの明かりの届かない位置にあるベンチに、フラダリは腰掛けていた。その傍らには、読み終えた手紙が大量に重ねられていた。
満月より僅かに欠けた月が、彼の手元を僅かに明るく照らす。僅かに吹き付ける風が、手紙の束をそっと揺らす。

「また間違えている……」

ぽつりと呟いたその言葉は、夜に溶けていく。
闇に慣れた目で、荒っぽく書かれたその文字を捉え、そっと指でなぞり、微笑む。

「彼女」の手紙の誤字は度を越していた。3行に一度は何らかのミスがある。
いくらカロスの言葉で手紙を書くのに慣れていないからといっても、この誤字の量は些か多すぎるように感じられた。
しかし30通目の手紙を読み終えたフラダリにはもう慣れたものだった。その大量の誤字を、微笑みをもって看過する余裕すら生まれていたのだ。
しかし「彼女」は、この手紙を書いた少女はそうではなかったらしい。
必死でこの手紙を書き続けていたことが容易に見て取れた。この手紙には彼女の焦りが克明に刻まれていたのだ。

濃すぎる筆圧、荒っぽい文字、有り余る誤字、それらを読み解くのは根気の要る作業だった。
けれどフラダリは休む間もなく31通目の手紙を手に取る。
まだだ、まだ眠れない。きっと「彼女」もこうやって、月明かりの中で手紙を書いていてくれたに違いないから。

「……」

しかしフラダリは徐に顔を上げる。小さな足音が耳に届いたからだ。
ゆっくりと、しかし確実にこちらへと歩み寄って来る。丁度、フラダリの背後からだ。
振り向くべきかどうか悩み、しかし手元の手紙が持つ引力の方が勝っていたようで、彼は振り返ることなく再び手紙へと視線を落とした。

しかし、次の瞬間には顔を上げざるを得なくなってしまった。
この手紙を読むのに頼りにしていた月の光を、その人物が見事に遮ってくれたからだ。
そしてあろうことか、彼あるいは彼女はその位置に立ったまま、動かなくなってしまったのだ。

こんな夜更けに出歩く人間など殆どいないと思っていただけに、この人物の行動はフラダリを驚かせ、当惑させた。
このローズ広場で待ち合わせをしているのだろうか?こんな、日付が変わろうとしている夜に?
そしてそうだとしても、何故、この人物は自分の背後に立ったのだろう。
何もかもが解らなかったが、その奇怪な人物よりも手紙の続きの方が遥かに重要だった。
故にフラダリはその人物に背を向けたまま、少し場所を変えてくれませんかと申し出ようとしたのだ。
しかし彼がそう言うより先に、その人物は弾むような声音で言葉を投げたのだ。

「意地悪してごめんなさい。月明かりが必要ですか?」

その声音は穏やかなメゾソプラノだった。クスクスと笑うその女性に、フラダリは思わず記憶の中の少女を重ねる。
彼女の声は透き通るソプラノで、この人物のそれよりもやや高かったが、クスクスと笑うその音はあまりにも似過ぎていた。
フラダリは息を飲み、振り返る。そして絶句した。

「こんばんは、綺麗な満月ですね」

いや、今宵の月は少し欠けていますよ。そう答えるだけの余裕は既にフラダリから失われていた。
その女性の身に纏っているものが、あまりにも「彼女」のそれと似ていたからだ。月明かりに照らし出されたその形と色にフラダリは息を飲む。
白いトップスに青いスカートのハイウェストアンサンブル、黒いラインが一筋だけ入った白いニーソックス、白いカノチェにバッグ。
肩より少し長い髪が、ミアレの夜風にふわふわと揺れていた。
既視感を漂わせて現れた、青と白を纏ったこの女性は、「彼女」とは真逆の配色をしていた。

あの少女は黒いトップスに赤いスカートを好んで身に纏い、黒いニーソックスを履き、赤いカノチェと黒いバッグを身に付けていた。
ミアレシティのポケモン研究所で初めて出会ったあの頃から、そのハイウェストアンサンブルは変わらずに少女のお気に入りだった。
フラダリと共に暮らすようになってからも、その赤と黒を基調とした服の趣味は変わることがなかった。いや、寧ろ程度を増した。
赤と黒以外のものを持っていないのではないかという程に、彼女はその二つの色を身に纏っていた。
そのストロベリーブロンドの髪すらも、鮮やかなオレンジに染めてしまっていた。
目立たない色の服ばかりを選ぶようになったフラダリの色を引き取るかのように、彼女は赤と黒を纏い続けていたのだ。

月の光が、この女性の影をアスファルトに薄く落とした。
背格好も、華奢な肩も、帽子や服の影も、全て、全て「彼女」に似ている。
その配色と、透き通るメゾソプラノを除けば、此処にいるのは間違いなく、フラダリが5年の歳月を共にしたあの少女だった。
しかしそんな筈がない。「彼女」は此処にはいない。

そこまで考えてフラダリはようやく我に返った。
不思議そうにこちらを見上げる女性への弁明を脳内で組み立てながら、苦笑して口を開く。

「……すみません、じっと見てしまって。貴方が知り合いに似ていたものですから」

「ふふ、月明かりだけで私の顔が解るんですか?」

その言葉に僅かな違和感があった。正確にはその言葉の発音にぎこちなさを見たのだ。丁度、フラダリが「彼女」の言葉に持った違和感と同じようなものだった。
流暢に喋る女性だが、この人はカロスの人間ではないのかもしれない。
かといって旅をしているようにも、ビジネスでこの地を訪れているようにも見えなかった。

「いいえ、貴方の……身に纏っているものがあまりにも似ていたのですよ」

そう告げれば、女性は少しだけ驚いたように沈黙した。彼女の顔は、月の柔らかな逆光で確認できない。
どうしました、と告げれば、彼女は肩を竦めてクスクスと静かに、けれどとても嬉しそうに笑い「それは光栄ですね」と紡いだ。
見知らぬ人の知り合いに似ていると称されて、こんなにも歓喜の情を露わにされるとは思っていなかっただけに、その夜に隠れた笑顔は印象的だった。

「こんな夜更けに女性が外を出歩いていては危ないですよ」

手紙を読んでいるところに邪魔を入れられた不快感をなんとか隠しながら、フラダリはいつものように振舞う。
カフェに訪れる子供と接するのと同じように、飄々と、少しだけ悪戯っぽく、けれどしなやかに、穏やかに。
女性はフラダリの反論を聞いてから、やはり肩を少しだけ揺らしてクスクスと笑った。

「そうですね、皆も心配しているかもしれません。何も言わずに抜け出してきてしまったので」

少女は大きく伸びをした。華奢な体が月を求めるように高く天に伸びる。フラダリは思わずその様子をじっと見てしまった。
ああ、きっとその身に纏った服のせいだ。彼女と同じ服を着て、帽子を被って、鞄を提げているせいだ。
フラダリの目の前に立っているのは、紛うことなき初対面の女性だった。にもかかわらず、強烈な既視感を抱いてしまうのは、そういうことなのだろう。
なにせ「彼女」がいなくなってから、まだ2週間しか経っていないのだから。

「私、これからは毎月、この町に来ることになっているんです」

歌うようにそう紡いだ女性に、フラダリは小さく「そうですか」と相槌を打った。
彼女はフラダリの傍らに置かれた大量の手紙に言及しない。こんな夜更けに、どうしてこんな場所で手紙を読んでいるのかと問うたりしない。
だからこそ、フラダリは適当に会話を繋げることを選んだのだ。
この女性はただ話し相手が欲しいだけで、自分に興味があって近寄った訳ではないと推測していたからだ。
そして何より、フラダリにはそうした不思議な女性よりも、手元の手紙の方が遥かに重要だったのだ。だからこそ、彼はこの女性を空気のように扱うことを選んだのだ。

普段のフラダリならもう少し丁寧な態度を取れたのかもしれない。しかし今日という日だけは無理な話だった。
何せ、まだ29通もの手紙を読み終えていないのだから。「彼女」が自分に宛てた手紙の中に含まれる想いの真実を、フラダリは拾い上げなければならないのだから。
故にフラダリは、その女性に対する興味を無意識に殺していたのだ。

「だから、また会えるかもしれませんね。フラダリさん」

初対面である筈のこの女性が、震える声で自分の名前を言い当てるまでは。

「!」

フラダリが驚きに顔を上げるのと、強い風が吹くのとが同時だった。
ばさりと何かを翻すような音が聞こえた次の瞬間、目の前の女性は消えてしまっていた。
背筋を冷たい汗が伝ったような気がした。フラダリは目眩のする頭を軽く抑える。

何故、あの女性は自分の名前を知っていたのだろう。
あのような声を持つ人物は記憶になかった。それ以前に、フラダリはここ数年、「彼女」と同様に偽名を使って生活していたのだ。
故に「彼女」以外の人物の口から、自分の本当の名前が呼ばれることなどないと思っていたのだ。

普段のフラダリなら警戒しただろう。
けれど残念ながら、今の彼にはそうするだけの心の余裕はなかった。自分の名前を呼ばれた驚きと焦りは、次の瞬間には泡のように弾けて消え失せていたからだ。
広場の時計はもう直ぐ1時を指そうとしていた。月が雲に隠れることはなく、フラダリはその僅かな光の下で31通目の手紙を再び広げる。


2015.3.29

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