1-23

朝、フラダリが目を覚ましても、隣のベッドで少女が寝息を立てていた。彼はそのことにひどく驚いた。
彼の記憶している限りでは、少女が彼よりも遅れて目を覚ましていたことなど、ただの一度だってなかったからだ。

少し、早く起きすぎてしまったのだろうか。まだベッドから身体を起こすべき時間ではなかったのだろうか。
そう思い枕元の時計を確認したが、カーテンの隙間から差し込む眩しい日差しと、壁の時計の7を示す短針が、今が決して早すぎる時刻ではないことをはっきりと示していた。
コンコン、と扉が2回ノックされ、開ければ寝癖を付けたままのクリスが、陽だまりに溶けた自由な水に似た笑みを湛えていた。

「おはようございます。もしかして、シェリーはまだ眠っていますか?」

「ええ、そのようです」

「珍しいですね、いつもはもっと早くから起きていたのに」

「珍しい」ということはフラダリにも認識し得たことだ。このようなことは今まで一度もなかった。
しかし少女がどの程度の時間帯から「早く起きていた」のかということは、朝の6時程度までぐっすりと眠っていた彼には推し量ることの叶わないところであった。
「彼女はいつも何時頃に起きていたのですか?」と尋ねれば、彼女は困ったように笑いながら「私も全て把握している訳ではないけれど、それでもいいなら」と話してくれた。

「夜中の3時頃に目を覚まして、そのまま眠らないことが多いですね。12時くらいにキッチンへ降りてきて、ホットミルクを飲むこともありましたよ。
私も、あの子とよく夜更かしをしたんです。一緒に買い物に行くこともあったんですよ。夜中に食べるプリンの味、フラダリさん、知らないでしょう?」

得意気にそう紡いでクスクスと鈴を鳴らすように笑う。確か彼女は本物の鈴を持ち歩いていた筈だ。あの美しい金と銀の鈴は、果たしてどのような音色を奏でるのだろう。
そんなことを思いながら、「貴方とシェリーがそのような時間を過ごしていたなんて、知りませんでした」と静かに吐き出す。彼女は申し訳なさそうに眉を下げて謝る。

この不思議な力を持つ女性は、どのような魔法であの少女を救ったのだろう。どのような言葉で彼女の歪んだ認知を肯定したのだろう。
そんなことに思いを馳せれば、途端に、悲しくなってしまった。
自分の為したことなど、彼女の強大な力で為したことに比べれば悉く矮小なものであるように思われたのだ。
自分だけがシェリーにずっと拒まれていなかったにもかかわらず、おそらくこの2か月間で最も彼女に近い位置に在ったにもかかわらず、
自分の為せたことはあまりにも少ないのではないかと、わたしはもっと何かできたのではないかと思えてしまった。そして、どうにも遣る瀬無くなった。
「……わたしはどうやら、人の心の機微に疎いようです」と呟けば、彼女は不思議そうに首を傾げた。
彼は自分よりもずっと年下の女性に、みっともなく感情を吐露することを選んでしまった。

「貴方はきっと毎夜のように、あの子に繊細で思いやりのある言葉をかけていたのでしょう。わたしは、そうしたことがどうにも上手くできない。貴方のようにはいかない」

「あらあら、シアちゃんと同じことを言うんですね。貴方もシアちゃんもとっても欲張りだわ」

この不思議な女性は、あろうことかあの小さな少女とフラダリにそのような共通項を見出しているらしい。フラダリは少しばかり慌てた。
あの勇敢な少女とわたしを同列に置くべきではないと窘めるように、そんな愚行を働いた彼女をからかうように、
それでいて少しばかり呆れたように、「……彼女が、世界を滅ぼそうなどという愚かなことを考えないか心配だ」と笑いながら紡げば、彼女は得意気に微笑みながら首を横に振った。

「大丈夫ですよ、あの子は一人じゃありません。あの子が道を違えたとして、きっと私や、他の誰かが止めてみせますから。
貴方にとっての「シェリー」が、あの子にもちゃんといますから」

フラダリが道を違えたあの時、彼の愚行を止めたのはあの少女だった。彼女があの穴で死のうとしていた時、それを食い止めたのは他でもないフラダリだった。
逃げるようにカロスを後にした二人の時間を守ったのはあの小さな少女、シアであり、そんな彼女に力添えをしたのはおそらくこの女性、クリスだ。
そしておそらくクリスにも、迷ったり悩んだりしていた頃が確かにあったのだろう。その時に彼女を支えたのは、おそらく同じ色を持ったあの男であったのだろう。
フラダリに確認できるのはそれだけだ。けれどクリスの目にはもっと多くの存在が見えているのだろう。
シアを支える人間は、自分の他にも数多くいることを彼女は解っている。謙虚な彼女はおそらく、自分を支えてくれる存在があの男だけではないことだって心得ている。
そして彼女の把握している数よりもずっと多くの見えない糸が、我々を何処かで細く長く繋いでいることを、彼女は見えないながらも解っている。
彼女はそうした「推し量る力」に長けている。

「誰も一人になんかなれないんです。私達はそうやって生きていくんですよ」

そうした彼女だからこそ紡ぎ得た言葉が此処に在り、つまるところ、それは彼女の信条と呼べるものであったのかもしれなかった。
誰も一人にはなれず、誰もが誰もを完全に切り捨てることなど叶わない。彼女の教えを反芻してフラダリは笑った。
どうやらあの少女のための時間も、いよいよ終わりに近付いているようだと察してしまったからだ。
これは少女のための言葉ではなく、フラダリのための、近いうちにあの少女を置いていかなければならない彼に手向けた言葉であると、解ってしまったからだ。
その言葉は、自身を「気味の悪い女性」であることを心得すぎている彼女の、さり気無く、それでいてささやかな「力」の行使であったのかもしれなかった。

「さあ、朝ご飯の準備はもう出来ていますから、シェリーを起こしてあげてくださいね」

にっこりとそう告げて女性は階段を駆け下りていく。ほんの少しだけ大きくなったお腹で階段を下りる姿をフラダリは少しばかり案じたが、彼女は無事に階下へと足を付けた。
それを見届けてから部屋に戻り、彼女のベッドへと歩みを進めた。
シェリー」と名前を呼び、布団の上から肩らしきところを掴めば、深く被っていたその布団がもぞり、と動いて、顔が長い時間をかけてゆっくりと這い出てきた。
糸のように細い目をしたままに上体を起こし、茫然と虚空を見つめる彼女の名をもう一度繰り返せば、ようやく我に返ったようにぱちりと目を見開いた。

「おはよう。そろそろ起きるといい、もう朝食が出来ているそうだ」

開け放たれたカーテンから差し込む眩しい光が、少女の目をキラキラと瞬かせた。驚きと困惑とを宿したその目はふわふわと辺りを彷徨った。
フラダリさん、と男の名前を呼ぶ、その声はもう弱々しくはない。ぱちぱちと瞬きを繰り返すその目に、怯えの色は微塵も見当たらない。
少女はフラダリを見上げる。背の低い彼女が彼と目を合わせるには、フラダリが膝を折るか少女が彼を見上げる他にない。
彼女は前者を待たず後者を選んだ。彼女は、見上げることができるようになっていた。

「おはようございます」

彼女の方からその言葉を発したのは初めてのことだった。
ぐっすりと「眠ることができた」からこその目覚めの挨拶だったのであり、ただそれだけのことがようやく叶ったのだと、彼にも容易に察することができたのだ。
「君が寝過ごすなんて珍しい」とありのままを告げれば、彼女は驚いたようにその目を見開いて、そして、クスクスと屈託なく笑い始めた。

「私はいつも寝坊するんです。朝7時に目が覚めるなんて、旅をしていた頃でも滅多にありませんでした。私はそうした、とても怠惰な人間なんですよ」

旅をしていた頃の話を、まさか彼女の方から口にするという異常な事態にフラダリは驚き、少しばかり狼狽さえした。
彼女も、自分の口にした言葉が異常であることをよくよく解っているのだろう。困ったように微笑んで「ごめんなさい」と紡いだ。
フラダリは勿論、その意味のない謝罪を咎めなかった。

クローゼットから服を取り出し、隣の洗面所に早足で向かった。
寝癖を直すこともそこそこに「お待たせしました」と告げた彼女に頷いて、階段をゆっくりと下りた。
新聞を読んでいたアポロが顔を上げ、それを素早く畳みながら「おはようございます」と挨拶を告げた。
いつもはぺこりと小さく頭を下げるだけであった少女は、両手を強く握り締めつつ「おはようございます」と同じ言葉を返した。
彼ははっと顔を上げ、しかし直ぐにその驚愕をなかったことにして笑った。

クリスさん」

「あら、おはようシェリー。どうしたの?」

クリスはノンカフェインのコーヒーをテーブルの上に置き、少女の方へと歩み寄った。彼女の正面に立ち、首を傾げて次の言葉を待った。
それが彼女の演技であることにフラダリは気付いていた。

この変化を彼女が読んでいない筈がない。
フラダリでさえぼんやりと推し量ることのできてしまう、彼女の次の言葉に、この、常軌を逸した力を持ち過ぎているこの女性が思い至らないなどということが、ある筈がない。
けれど彼女は「思い至らない」振りをしている。貴方が何を言っても受け止めるから、聞かせてくれる?と、少女の音を待つ姿勢を崩さない。
そうして自らの「異常」を隠そうとする彼女もまた、一人では生きていけないのだろう。
『誰も一人になんかなれないんです。』という先程の言葉は、彼女自身に言い聞かせた言葉でもあったのだろう。

「カロスに、戻ります」

少女の、臆することなく大きく見開かれたライトグレーの瞳は、クリスの空を美しく映していた。
彼女はその言葉を聞いて大きく頷き、「眠れるようになったんだね、よかったね」と、まるで母のようにそう囁く。彼女はあと数か月もすれば、本当の母になる。

「大好きな人と一緒にいられることが幸せだって、とても素敵なことだって、そう思えるようになってよかったね、シェリー

「ごめんなさい……」

「ふふ、ねえシェリー、貴方を抱き締めてもいいかしら?」

少女は驚いたようにぱちぱちと瞬きをして、戸惑いがちに小さく頷いた。彼女は満面の笑みで膝を折り、少女を強く抱き締めた。
「ああ、なんだか泣きたくなっちゃうなあ」と笑いながら零すその声は、少し、ほんの少しばかり震えているように思われた。

その日、少女はトーストにオレンジマーマレードを塗って食べた。


2016.11.16

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