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「あらあら、今日はお友達が多いのね。どうしたの?」
クリスの事務所兼自宅には庭がある。リザードンがその翼を広げるのがやっとであるように思われるその狭い空間に、しかし彼女は様々なものを植えていた。
踏み潰してしまいそうな程に小さい青色の花、すっかり枯れてしまい、種を土の上に落とすのみとなった朝顔、少しずつ大きくなり始めている葉物野菜、そうしたもので溢れている。
数日前からその庭の一角は、ヒガンバナに似た白い花で埋め尽くされていた。
毎朝、決まった時間に彼女は庭へと飛び出して、鼻歌を歌いながら花に水を遣る。肌寒い朝の風が花を震わせ、まるで宝石のように煌めいている。
「ふふ、君にも、あの子が元気になっていることが解るのね?」
そんな彼女の周りを、小さな黄色い虫ポケモンがふわふわと飛び交っていた。
10cm程の小さな体に、透き通った丸い羽を持った彼等は、1匹、また1匹と彼女の元へとやって来る。彼女が笑う度に、黄金色のその羽が宝石のように瞬く。
「嬉しい?……あはは、そうね、私もとっても嬉しい!」
お揃いだね、と肩を竦めてクスクスと笑う彼女に声を掛けようか否かと迷っていると、その中の1匹が彼女の傍を離れ、フラダリの方へと飛んできた。
くりくりとした黒い目にじっと見つめられてたじろぐ彼に気付くと、クリスは更に笑顔になってこちらへと駆け寄ってくる。当然のように小さなポケモン達も付いてくる。
「可愛いでしょう?近所のお花屋さんで出会ったお友達なんです。たまにこうして遊びに来てくれるんですよ」
「花が好きなポケモンなのですか?」
「いいえ、花を見る人間の笑顔を気に入っているみたいです。この子達は、人の「嬉しい」「楽しい」って気持ちに集まるポケモンなんですよ。
名前は……あれ?そういえば君達の名前を聞いていなかったね。ふふ、また後で私にだけ、教えてね、約束よ?」
笑顔で宙に立てた小指に、1匹がふわりと降りてくる。羽を下ろしたその姿は繭のようにも、檸檬のようにも見える。
彼女は指先のポケモンからそっと視線をこちらに移して、困ったように、責めるように、祈るように目を細める。
「貴方には教えてあげませんよ」と、その雄弁な目が語っているような気がして、フラダリは彼女のささやかな意地悪に驚きながらも、穏やかに笑ってそれを許した。
「最近は私じゃなくて、シェリーのことが気になっているみたいで、沢山のお友達を連れてこの庭にやって来るんです。
彼女の気持ちが少しずつ明るくなっていることを、この子達はとてもよく解っているんですよ。……勿論、貴方が彼女の変化を喜んでいることだって、お見通しなんです」
ね、と確認を乞うように指先のポケモンに顔を近付ける。ポケモンは頭に生える細い触覚で、彼女の小さな鼻をそっとつつき、笑うように小さく震える。
このポケモンは人の気持ちを読む。喜べば近付き、悲しめば遠ざかっていく。
その知識を踏まえてフラダリは数週間前のことを思い出していた。……あれは確か、よく晴れた日曜日のことであったように思う。
あの少女が「甘いものを食べたい」と口にした時、確かにフラダリの心は弾んでいた。
彼女の願望を聞き届けられることに喜びを覚えていたのだ。そんな彼の傍にこのポケモンがふわふわと寄って来たのは、そういうことだったのだ。
あのようなささやかな喜びさえも、このポケモンは見逃さないのだ。
「……ああ、そういうことでしたか。だから貴方はそうなのですね」
そうして腑に落ちたフラダリが零した言葉は、しかしその小さなポケモンに向けられたものでは決してなかった。
「どうしたんですか?」とクリスは再び彼を見上げる。指先の羽が大きく動いて、冷たい風に乗るように浮かび上がり、彼の方へと向かう。
「貴方が常軌を逸しているのではなく、ポケモンが人とは違う存在であるだけのことだったのですね。貴方は、その力を知り過ぎているだけであったのですね」
「……」
「わたしもポケモンと長く知り合ってきたのに、彼等の不思議な力と共に生きていた筈なのに、忘れていた。けれど貴方はいつだって覚えている。それだけのことだったのですね」
フラダリの方へと向かっていたポケモンは、しかしくるりとUターンしてクリスの方へと戻っていく。ふわふわと2匹、3匹と彼女の周りの空気をくすぐるように舞い始める。
彼女は暫く呆然と立ち尽くしていたが、やがてはっと我に返って、彼等を追い払うように大きく両手を振る。困ったように咎めるように、それでいてどこまでも彼等を許すように笑う。
「こら、来ちゃ駄目でしょ、私が嬉しがっていることが解ってしまうじゃない!」と、空色を極めた彼女の、その頬にふわりと赤が差す。
名前すら知らない、手の平よりも小さなそのポケモンは、人の喜びや幸福といった感情に集まる。彼女が喜んでいるから、いよいよ幸福であるから、その周りを彼等は飛ぶ。
では彼女は「何」に幸福を見出したのだろう。この女性は「何」が嬉しかったというのだろう。考えたが、やはり解らなかった。
その喜びを証明する存在はすぐ傍にあれども、その喜びの理由を示すものは何処にもない。フラダリは彼女を推し量れない。
そうこうしていると、クリスはフラダリの背後に逃げ場を見つけたらしく、その二つの空をぱっと見開いて駆け出した。
黄色い虫ポケモン達は彼女を追いかけてふわふわと宙を泳ぎかけたが、やがて彼女がするりと庭を抜け出すと、名残惜しそうにその姿を見送って虚しく羽を震わせた。
「ほらシェリー、あのおじさんが私を苛めるのよ、懲らしめてあげて?」
「……おや、面白いことを言いますね。よろしい、返り討ちにして差し上げよう」
らしくない冗談を口にした彼は、来なさい、と促すように、建物の影からそっと現れた少女へと手を伸べて微笑んだ。
おずおずとこちらを見上げた彼女は、足元に咲き乱れる小さな青い花の存在に気付かないまま、ゆっくりと歩みを進めた。花は、運の良いことに踏み潰されなかった。
「私、返り討ちにされてしまうんですか?」と、彼女もらしくない冗談を口にして困ったように笑い、首を傾げた。
そんな風に笑える少女であったのだと、この地に来なければきっとフラダリは知ることもできなかった。
クリスはひらひらとフラダリに向かって手を振り、そして、先程の虫ポケモンを1匹だけ連れて去っていった。
「では君を返り討ちにするような、少し真面目な話をしようか」
おそらく今から、この虫ポケモン達は散り散りに飛び去ってしまうのだろう。構わなかった。
クリスを支配するのは極まり過ぎた幸福であったのかもしれないが、フラダリと少女の間にあるのはそうした美しいものではなかった。構わなかった。
彼は美しくないものを認められるようになっていた。そうした、時間だったのだ。
「君は未だに、カロスから逃げてきたことを後ろめたく思っているのかもしれない。
だが、わたしも君も逃げるべきだったのだと、逃げなければいけなかったのだと、我々は正しかったのだと、そう思ってみることにするのはどうだろう?」
どういうことですか、と尋ねるように少女は首を捻る。秋の涼しい風がビルの隙間からこの庭へと流れ込み、彼女のストロベリーブロンドを勢いよく揺らす。
その髪に緩く結ばれた白いリボンは、果たして誰に贈られたものだったのだろう。
「わたしと君にはこうして話をする時間が必要だった。それはしかし、あの時、あの場所では不可能だった。
逃げてきたからこそ、我々はこうしてゆっくりと言葉を交わすことが叶った」
「……」
「君が許せないのなら代わりにわたしが許そう。君は此処にいていい。此処で生きなければならない。此処に、……いてほしい。
わたしが逃げたことにも意味はあったのだ。君を、死なせずに済んだのだから」
するりと解けて風に舞い上がりかけたリボンを、透き通る小さい羽が絡め取った。
幸福を象徴するあの女性が居なくなったこの庭に、まだこの虫ポケモンが留まっているという事実は、フラダリを少なからず驚愕させた。
彼等はフラダリの方には向かわず、目の前で顔を真っ赤にする少女のところへと、1匹、また1匹と集まってきていた。
「……私、きっとおかしくなってしまったんですね」
「何故?」
「だって、嬉しいんです」
知っている。そんなこと、彼女が口に出さずとも、その周りに次々と集まるポケモンが、あまりにも雄弁に示している。
けれど彼女自身のその感情を、他でもない彼女が口にすることにこそかけがえのない意味があるのだと、解っていたからフラダリは真っ直ぐにその目を見つめた。
ライトグレーの瞳が、ゆらゆらと揺れていた。
「こんなにも立派な人が、私のために心を砕いてくれている。言葉を尽くしてくれている。私なんかが生きていることに、意味を見出してくれている。
それは怖くて恐れ多いことで、私は貴方に対して申し訳ないと思うべきであった筈なのに、……何故か、嬉しいんです。此処にいてもいいんだって、思ってしまったんです」
彼女は自身の感情が露呈していることに気付いていない。そんな彼女の周りをポケモン達は至極楽しそうに飛ぶ。
黄金色の羽は悉く美しく、彼女のストロベリーブロンドと同じように輝いていた。
「おかしいですよね。今までそんなこと、一度も考えたことなんかなかったのに、嬉しいなんて思っちゃいけないって、そう思えていたのに」
「……ではきっと、わたしもおかしいのだろう。君のその言葉にわたしは、どうしようもなく救われた気分になっているのだから。
頭がおかしくなる程に嬉しく、幸福だと思ってしまっているのだから」
顔を上げた彼女の眼前に、リボンを羽へと絡めた1匹が飛んできて、彼女の白いリボンを受け取るように促すような仕草を見せた。
躊躇いがちにリボンを受け取った少女は「ごめんなさい」と紡いで笑った。それでよかった。
白いリボンを手放したポケモンはふわふわと浮き上がって、彼女の頭の上に乗った。穏やかにはためく黄金色のそれは、まるで大きなベルベットリボンのように見えた。
黄金色のリボンの似合う少女は、声を上げて笑い始めた。眉は困ったように下げられていて、肩は強張っていた。それでもよかった。構わなかった。
「貴方と同じおかしさなら、もう、怖がる理由なんてきっと何もありませんね」
彼女がそう告げた、それが全てであったのだから。他には何も要らなかったのだから。
2016.11.16