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マグカップから立つ甘い香り、ホットミルクの上を泳ぐ湯気、そうした優しい全ての向こう側、まだ膨らんですらいないお腹を彼女はそっと撫でていた。
お腹へと落とされた視線は聖母のそれにも、天使のそれにも思えた。
「そこ」へ命を授けることはまるで彼女の恣意的な流れであったのではないかと疑ってしまうような、そうした、神と見紛う程に完璧な形をしていたのだ。
気持ちが悪くなって、マグカップに息を強く吹き付けた。ふわりと舞い上がった白い湯気が、彼女の姿を隠してくれた。
少女のような女性だった。もう20歳を超えているとは思えなかった。その笑顔はどこまでも幼く、その体は悉く華奢であった。
何もかもが小さすぎる、時を止めてしまったかのようなその体の中で、しかし成長し続けている別の命があることは、私を酷く混乱させた。怖い、と思うに十分な違和感だったのだ。
「ゆっくり大きくなるんだよ、私はずっと此処にいるからね。貴方が大きくなるまで待っているからね」
まだ小さなお腹を両手でさすり、メゾソプラノの声音で子守歌のようにそう言い聞かせている。
気味が悪い、と思った。彼女のそうした「母」としての声掛けが、悉く不自然な、奇妙なものに思われてならなかった。
その違和感は、しかし彼女が次に紡いだ言葉で明確な嫌悪へと形を変え、真っ直ぐに私の胸に突き刺さり、そのままくるりと、抉った。
「貴方が好きよ、貴方が私の中に生まれてきてくれた時からずっと、貴方のことが大好き」
「まだ赤ちゃんに耳はないんですよね」
遮るように告げた声が思いの外、大きなものになってしまい、私は自分の声音にびくりと肩を跳ねさせてしまった。
虚を突かれたようにその青い目を見開いた女性は、けれど直ぐにふわりと微笑んで首を振った。青い目がすっと、雨のように細くなった。
この女性の青色は少しおかしい。重ねすぎて空になってしまった空気の色をしている。
彼女と私を隔てる空気は透明なのに、その空気を重ねて、重ねて、重ね尽くした先にある色をこの女性は宿している。
その目に、髪に、空気を飼い過ぎた結果がその空色なのであって、つまるところ、私はその目を気味悪いと思うことはあれど、それ以上の何物をも抱きようがなかったのだ。
彼女の色を同じ「青」だとして、悉く立派で私なんかには似合わない「あの子」を思い出すことは、あまり適切ではなかった。
だから私はこの女性といても「あの子」を思い出さずに済んだ。その点においてのみ、この女性と向き合うことは楽だと思えたのだ。
「ええ、まだないの、でもきっと伝わるわ。私とこの子は繋がっているもの。声は届かなくても想いなら届くわ」
届かない、届く筈がない。言葉にしなければ何も伝えられない。まだ自我を宿してすらいないその命が、母親の想いを「推し量る」などというめでたいことをする筈がない。
人はその身にもう一つの命を宿すと愚かになるのかしら。夢見る少女のような馬鹿げた思想を、笑顔で、大真面目で語るようになってしまうのかしら。
それとも、貴方が貴方だからそう見えているだけなのかしら。その愚かさは、貴方が母であるために生じたものではなく、貴方が貴方であるから見えているものなのかしら。
「……子供が生まれたら、きっと貴方の時間はなくなる」
「え……?」
「貴方の好きな本だって一冊も読めなくなる。仕事だって思うようにできなくなる。赤ちゃんは泣き虫で、ちょっとしたことで直ぐに熱を出す」
今はお腹の中という居場所に安住しているその子は、しかしいつまでもそこ、に留まる訳にはいかないのだ。
お腹から追い出された赤ちゃんは居場所を失う。無力な子供に、求めることを知らない子供に、言葉を上手く操れない子供に、貴方は居場所を与え続けなければならない。
そしていつかきっと、その役目にうんざりする時がやってくる。子供はいつまでも、愛すべき存在のままでいてくれる訳ではない。
「子供は弱くて、我が儘で、きっと貴方を苦しめる」
だから子供など生まなければいい、と吐き捨てることができなかったのは、私が臆病だったからだ。
そうして吐き捨てた矢先に彼女が本当に子供を棄ててしまえば、「お前のせいだ、お前があんなことを言ったから」という自責に私が耐えられなくなりそうだと思ったからだ。
私はそこまでの責任をもって言葉を紡げない。だから酷いことを言えなかった。それは私の理由だ。彼女を慮ったものでは決してない。私はそんな風に優しくない。
……この不気味な女性が、私のような人間の言葉に心を揺らすことなど決してないのだと、解っているけれど。
「貴方は可哀想。でも、いつか貴方に疎まれてしまうその子は、もっと、ずっと可哀想」
彼女は私の言葉を黙って聞いていた。
小さなお腹をゆっくりと撫でながら、重ねすぎて空になってしまった空気の色を見開いて、ぱちぱちと大きな瞬きをして、私の乱暴で利己的な同情に、耳を傾けてくれていた。
言葉を、文字を重んじる彼女が、私の言葉を軽んじたことなどただの一度だってなかった。
「ありがとう。私とこの子のことを案じてくれているのね」という言葉に、私はさっと目を逸らした。
お願いだからそんな風に笑わないでほしいと思った。
私は貴方が傷付けばいいと思っていて、少しでも不安になることを期待しているような、悉く醜い人間なのだから。
貴方のお腹の中にいる子を、私と同じようになるのだと思っていたいだけであるのだから。夢見心地であったのは、寧ろ私の方なのだから。
「……そんなことありません。ただ、僻んでいるだけで」
「ふふ、そうね。貴方に僻まれてしまうくらい、私は幸せそうに見えているのね。勿論私自身、とても幸せよ。
私は今までずっと私のために生きてきたけれど、これからはこの子のために生きるの。この子に何もかもを奪われてしまうこと、全てを捧げて生きていくこと、とても楽しみなのよ」
不自由を喜ぶこの女性は悉く歪だ。まるで被虐思考を有しているかのようだった。
この不気味で不思議な女性、気持ちが悪い女性、けれど少なくとも私よりはずっと立派で賢い女性が、全てを、そのお腹の中に生きる命に捧げようとしている。
そんなことが、あっていいのかしら。貴方はもっと、……もっと。
「貴方の全てを捧げるだけの価値がその子供にあるかどうか、まだ解らないのに?」
「いいえ、価値なら既にあるわ。この子が「生まれてきてくれる」という、かけがえのない価値が」
……この人は愚かだと思う。とてもめでたい性格をしていると思う。不気味だ、気持ち悪い。
けれど私はもっと愚かだ。暴力的な程に喉が渇いた。誰か、と乞いたくなった。
こんなにも不気味な愛情を向けるこの人の、どうして私は子供ではないのだろうと思ってしまう。この不気味な人に何もかもを捧げられたいと思ってしまう。
羨ましい。あの小さなお腹の中が羨ましい。この人の何もかもを奪い取る、まだ耳さえも持たない小さな命が、どうしようもなく羨ましい。
生きているだけで、此処にいるだけでいい。何をしても、何もしなくてもいい。そんな風に愛されたい。馬鹿げためでたい理論を展開する貴方に、全てを肯定される存在で在りたい。
でもそんなこと、叶わない。とてもよく解っている。
「だって私はもう一人で十分、生きたの」
まだ膨らんですらいないお腹を抱えて笑うこの女性が、どれ程長い間「一人」であったのかを私は知らない。
幸福を極めた笑みを湛え続ける彼女が、しかしそうでなかった時期を確かに有していたのだと、そんなこと、俄かには信じ難い。
だから、彼女を信じ切ることも、そんなの出鱈目だと切り捨てることもできない私は、「貴方の子供はきっと、私みたいにはならない」と、情けなくもそう零すことしかできない。
「ふふ、どうかしら?それを決めるのは私じゃないわ、この子よ。この子は直ぐに大きくなって、広い世界に羽ばたくの。私のことなんかきっと忘れちゃうわ」
「寂しく、ありませんか?」
「寂しいわ、でもそれは自然なことなの。そして、きっととても嬉しいことなのよ」
貴方の子供が羨ましい。そう告げて私はぼろぼろとみっともなく涙を零した。
彼女はそのことをまるでずっと前から解っていたかのように「あらあら」とメゾソプラノの声音で歌い、お腹を撫でていた手を今度は私の頭の上に乗せてくれた。
今だけ、この数秒だけは、彼女は私のものだ。私は歪む視界の中で彼女の平たいお腹を睨み付けた。ざまあみろ、と思った。そしてすぐにごめんなさい、と思ったのだ。
そんな私をこの人は許すのだろうと、解ってしまったから私は泣いた。
「シェリー、貴方は幸せになれるのよ。だって貴方はこの子よりも、ずっと多くの人と関わってきた筈だもの。
貴方だって、いてくれるだけで、生きていてくれるだけでいいって、誰かにそう思われているのよ。貴方が、気付いていないだけで」
実のところ、彼女とこうして話をしたのはこれが初めてではなかった。
夜、彼が寝静まってから私はそっと部屋を抜け出して、階下へと下り、立派な木のデスクで仕事をする彼女の傍のソファに腰掛けた。
彼女は深夜になって動き出す私を咎めることなく、「ホットミルクは好き?」と尋ねた。
頷けば、まるで私がその時間に来ることを読んでいたかのように、湯気の立つ温かいマグカップが、明らかにたった今、用意したばかりであるようなそれが差し出された。
彼女は満足そうに笑い、そしてそれきり、口を開くことはなかった。
私は言葉を紡いでもいいし、無言のままでいてもよかった。夜中、階下に下りる度に差し出されるようになったホットミルクを、私は飲んでも飲まなくてもよかった。
独り言を囁いては笑い、鼻歌を奏でては微笑む彼女に、声をかけてもかけなくてもよかった。
飲み干したホットミルクを、私は自分で片付けてもいいし、残ったミルクをテーブルに置き捨てて来てもよかった。彼女を睨んでもいいし、彼女から視線を逸らしてもよかった。
私は嫌われてこそいなかったけれど、でも決して彼女に愛されていた訳ではなかった。私だって彼女を愛さなかったし、そのようなこと、望みさえしなかった。
不気味な女性に蔑視を向けて、自分の心を落ち着かせるだけでよかったのだ。つい最近まで、本当にそうだったのだ。
「貴方はちゃんと愛されているわ、大丈夫」
けれど、彼女の空に飲まれてしまった。
私はきっと、彼女の空のような心に救われた者の一人に過ぎないのだろう。それでもよかった。
彼女からの愛を貰えなかったとしても、彼女に貰った教えは私の中で生き続けるのだろうと、愚かな私にもそれくらいは理解することができたからだ。
2016.11.10