1-12

フラダリは今日もこの部屋で目を覚ます。染み一つない天井を茫然と眺めながら、重たげに瞬きを繰り返して息を吐く。
既にこの家の住人は起きていて、もうすっかり朝の準備を整えた後なのだろう。
階下でポケモン達と遊ぶ、幼い少女のような声が、けれどもう直ぐ「母」となるのであろう女性のあどけない声が、此処まで聞こえてくる。その音にフラダリは思わず微笑む。
そうしてベッドから降りて視線を移せば、隣の少女は昨日と何ら変わらない姿のまま、息をしている。

カロスを逃げ出して5日が経った。
この部屋にはベッドが二つある。一つは窓際の、少女が腰を下ろしてシーツに幾重ものしわを作った方のベッド。もう一つはフラダリが眠るときにだけ使うベッドだ。
眠るときにだけ、と明言したのは他でもない、少女のベッドが専ら、彼女の「避難所」として使われているからであり、彼女のベッドは最早「ベッド」の役目を放棄されていたからだ。
その上に転がっている時間は圧倒的に少女の方が多かったにもかかわらず、彼女は天井を茫然と見つめたり何かに怯えるように強く目を瞑ったりするばかりで、
一度も「眠る」素振りを見せず、小さな寝息すら立てることがなかったのだ。

日付の変わる頃、フラダリがベッドへと足を運ぶ頃にもやはり彼女は起きていて、朝の6時30分に目覚めれば、既に少女の目は開いていた。
もっとも、彼女の「目」は確かに開いていたけれど、開いているのは「目だけ」であるのかもしれなかった。
彼女の声も、心も、手の温度も、まるでずっと眠っているかのように、凍り付いているかのように動かなかった。
人は悉く疲弊するとこうなってしまうのだと、フラダリは彼女の見せる空虚な姿にある種の恐ろしさを感じずにはいられなかった。

その間、ずっとフラダリもこの部屋に居座っていたのかというと、そうではなかった。
平日は当然のように、クリスもアポロも仕事があるため、来客の昼食を作っている時間などない。
故に彼は僅かな所持金の入った財布を(もっとも、それは庶民の感覚においては悉く巨額なものであったのだけれど)持ってコガネシティを一人で歩き、適当に食事を調達した。
カプチーノを好んで飲み、ベーグルを嫌う。フラダリの持つ情報などその程度だったから、彼女が何に喜び、何に拒否の意を示すのかということがまるで解らず、随分と苦労した。

フラダリが部屋を出る折には決まって少女にも声を掛けたが、彼女は黙って首を振るばかりで、一度も外への興味を示さなかった。
その頑なな姿勢は、「外に出るのが億劫だ」というよりは寧ろ「外に出たくない」という拒絶の表れであるように思われた。
彼女が何を恐れているのか、解らない。あるいは彼女は全てを恐れているのかもしれなかった。

『貴方だけならいいのにって、思っていました。』
あの言葉は彼女の真実であったのだ。彼女は自らの空間に、この男しか在ることを許していなかったのだ。
だから彼女はそれ以外を悉く拒絶している。彼女自身でさえも、なかったことにしようとしている。

だが数日が経過して、彼女が頑なにあの部屋から出ようとしない理由が、フラダリにも鮮明に解ってきた。この町には驚く程にポケモンが多いのだ。
肩に乗せたり、抱きかかえたり、隣を歩いたり、後ろをひょこひょこと付いてきたりしながら、彼等はボールの外で悉く近い距離を保ち、トレーナーと共に歩いていた。

先日、クリスに「この町ではポケモンをボールから出している人が多いようだ」と告げると、彼女はその顔にぱっと笑顔の花を咲かせて、
「ジョウトではポケモンを連れ歩いているトレーナーがとても多いんです。私の妹が広めたんですよ」と得意気に口にして、その妹の写真を見せてくれた。
3人兄弟の長女である彼女は、彼女を含めた3人と母親が写っている写真をブックカバーの裏に貼り、いつも持ち歩いているらしい。
幸福を極めたその写真の中に、しかし空色の髪と目を持つ人間は彼女だけだった。その違和感に気付かない振りをしてフラダリは笑った。笑えば、彼女は益々嬉しそうに目を細めた。

そうした、ポケモンを愛する人間にはこの上なく過ごしやすい場所である筈のこの町を、しかし少女は悉く恐れ、拒んだ。
常に自らのパートナーをボールから出し、連れ歩く彼等の姿に、彼女が何を重ねているのかを推測するのは容易いことだった。間違いなく、彼女自身のことだ。
人と共に在る彼等の健気で幸福な姿は、彼女が抱きかかえていたラルトスに、彼女が手を繋いでいたキルリアに、そして彼女の手を引いて歩くサーナイトに、とてもよく似ていたのだ。
自らのポケモンをボールから出して歩く彼女の姿を、連れ歩きというものが浸透していないカロス地方の、ミアレの町で見つけることはあまりにも容易であった。
……もっとも、その傍らにサーナイトがいなかったとしても、フラダリは、彼女を見つけていたのだろうけれど。あの少女は彼にとって、そうした存在であったのだけれど。

彼女はそうした、旅をしていた頃の自分を思い出したくないのだろう。

だからこの町から頑なに出ようとしない。ポケモンの姿を見ようとしない。……そして、その拒絶は他者のポケモンに留まらなかった。
ゲッコウガやリザードン、フラエッテ、あのサーナイトまでも彼女は拒絶し、出会ったばかりのクリスにその全てを押し付けたのだ。

一度だけ、クリスからサーナイトのボールを預かり、彼女に返そうとしたことがある。
緩慢な動作でベッドから起き上がり、深く隈を作った彼女の眼前にそれを差し出すや否や、
彼女は金切り声で「やめて」「嫌」と拒絶の意を示し、フラダリの手に乗せられたモンスターボールを両腕でぐいと弾き飛ばしたのだ。
壁に打ち付けられたモンスターボールはコロコロと、埃一つない床を転がって止まった。

そこに非情な心を見ることは簡単にできたが、フラダリは彼女の拒絶の裏に隠れた大きすぎる感情を見逃さなかった。
彼女の鉛色の目が震えているのは、ポケモンを憎んでいるからでは決してない。彼女はポケモンを恐れているのだ。
その拒絶は非情な心の表れではなかった。ただ、純粋な恐怖を示しているに過ぎなかったのだ。

「ポケモンが怖い」「ボールが怖い」「傷薬が怖い」「ポケモン図鑑が怖い」
何もかもに恐怖を示す彼女が、しかし何に恐れているのかをフラダリはおぼろげに察し始めていた。彼女を飲み込まんとする恐怖の正体に、フラダリは勘付き始めていた。
彼女はおそらく、あの土地でのあの旅を連想させる何もかもに怯えているのだ。
自らの歩みを呼び起こす記憶を悉く拒んでいたいのに、旅の欠片は彼女の周りにあまりにも細かく散らばり過ぎているから、恐ろしいのだ。
次は何の欠片が自分の肌を切るのかと、震えているのだ。

「やめて、私を見ないで!」

そして今日も少女は、彼女自身を拒絶する。
ポケモンを、ボールを、旅の道具を、自らの記憶を悉く拒み、嫌だやめてと泣き叫ぶ。床に叩きつけられたモンスターボールの中、サーナイトが少女を見上げている。

ポケモンを手放した。ボールを他人へと押し付けた。差し出されたかつての、最愛だった筈のパートナーを悲鳴と共に拒んだ。
傷薬やポケモン図鑑の入った鞄は部屋の隅に投げ捨てられたまま、一度も取り上げられることなく、寂しげに壁へと凭れ掛かっていた。
彼女はそうして何もかもを恐れ、何もかもを拒んでいった。

シェリー、落ち着きなさい。何も恐れることはない。このサーナイトは君を傷付けたりしない。そんなこと、君が誰よりもよく知っている筈だろう」

「そうよ、サーナイトは私を傷付けることなんかできないわ、だって私はこの子のトレーナーだから!
彼女は私を傷付けてはいけないから、だから渋々従っているだけなの、私は彼女にずっと、みっともなく甘えていたのよ!私は憎まれているの、見限られているのよ!」

ひどく歪み過ぎた彼女の思考は、彼女自身を盲目にしつつあった。床に転がったボールの中、サーナイトが彼女を憎み、嫌う表情をしていないことに、普通なら気付いて然るべきだ。
けれどその「普通」の目を彼女は持たない。誰しもに嫌われている、見限られている、呆れられているといった、被害妄想に近い思考は悉く揺らがない。
その歪んだ認知は、しかしカロスを出れば自然と収まるものだと思っていた。彼女を苦しめるものがカロスにしかないのであれば、彼女はもっと自由に笑うことができる筈であった。
けれど認知の歪みは収まるどころか、益々大きく膨らみ続け、今にも弾けてしまいそうだった。フラダリにはどうすることもできなかった。
彼女が身を守るためにその身へと纏った棘は鋭く深く、彼女の周りの存在全てに突き刺さる。大きく膨らみ過ぎたそれは、いつか彼女自身にさえ刺さってしまうだろう。

「皆、きっと私みたいなトレーナーから逃げ出したいに決まってる!」

けれどそのカロスの人間であるフラダリをこの少女は拒まない。
旅の記憶に勿論、この男も入っていた筈であったが、彼女はフラダリを見ても嫌悪感や恐怖を露わにするどころか、寧ろ縋るように泣き付くように傍へと寄る。
私の理解者は貴方だけだとでも言うように、その華奢な体の全ての荷物を男に押し付け凭れ掛かる。

フラダリはカロスの人間である。少女はカロスを嫌っている。少女の旅の記憶の中には、当然のようにこの男も入っている。にもかかわらず、少女はフラダリを嫌わない。
ただそれだけの、たった一つの矛盾が、しかしこの生活における唯一の救いであるように思われてならなかった。
自分の言葉なら彼女に届くのではないかと、そう、思い上がることができていたのだ。この痛々しい少女に寄り添う理由などそれだけで十分だった。

「だって私には何もできなかった。カロスでの旅を楽しむことも、ポケモンを愛することも、人との出会いに感謝することも、自分の言葉を紡ぐことさえも!
何もできない!私はシアのようにはなれない!」

「……シア?」

悉く閉じられた彼女の扉が乱暴に大きく開かれ、そこから新しい単語が弾き出された。
おそらく女性の名前であろうそれをフラダリが繰り返せば、彼女はまるで彼が「シア」であるかのようにフラダリを睨み上げる。鉛色の目は濁っている。

「イッシュの子よ。とても嘘吐きなの、私を騙したのよ。私には何の力もないのに、シェリーならできるよって、大丈夫だよって、出まかせばかり!」

そう叫ぶや否や、彼女はこれまでずっと部屋の隅に投げ捨てていた鞄を引っ掴み、奥に手を突っ込んで、迷うことなく白い紙を取り出した。
随分と分厚いそれは、スケッチブックの一ページであるようだった。手の平程の大きさに折り畳まれたそれを、彼女はその細い腕で勢いよく破いた。
破いて、更に破いて、また破いた。おそらくフラダリの制止がなければ、彼女は延々と、その紙が粉のようになるまでそれを繰り返すのではないかとさえ思われた。

「大嫌い!シアなんか大嫌いよ!」

男の足元に落ちたその切れ端が落ちた。そこに描かれた、少女らしき人物の美しい笑顔を見たその瞬間、フラダリにはその「シア」が誰であるのか、解ってしまった。
『字と絵と歌がとっても上手な、私の自慢のお友達なんです。』
僅かに開いた窓から風が吹き込んできて、千切れたスケッチブックの切れ端を靡かせる。彼女の嗚咽も、その切れ端も、ふわふわと揺れている。

青いインクの丸文字が脳裏を掠める。殺さないで、とメゾソプラノの声が聞こえる。


2016.10.29

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