1-10

食事後、二人が通された部屋は、来客のため常にある程度は片付けてある場所であったのだろう、2つのベッドにはしわ一つなく、デスクの上に埃を見つけることもできなかった。
完璧に整えられたその部屋で、落ち着きなくそわそわと歩き回った少女は、やがてベッドサイドのデスクに鞄を下ろしてから、小さく溜め息を吐き、ベッドに腰掛けた。
真っ白なシーツに幾重にもしわが生まれ、先程までの完璧な美しさは一瞬にして「なかったこと」になった。
真っ白なキャンバスを絵の具で塗り潰すような、そうした、残酷かつ刹那的な爽快感に彼女の目はすっと細められた。

フラダリは彼女を真似るように、僅かな貴重品をスーツのポケットから取り出してデスクの引き出しにそっと入れ、隣のベッドに同じように腰を下ろした。
暫くして、彼女の鉛色がじっとこちらを見ているように思われたので、視線を逸らせば彼女はそれを待っていたかのように、ふいと視線を逸らして俯いた。

生き辛い子だと思った。

己の青い目に憐憫の情を映すことは驚く程に簡単であったにもかかわらず、しかしフラダリはそうした感情を抱かなかった。抱こうとも思わなかった。
何故なら彼女がどんなに愚かであったとしても、どんなに「生きること」に向いていなかったとしても、それでも、生きなければならなかったからである。
我々は、……フラダリ自身も、そして彼女も、何処にも逃げることなどできないのだと彼は解っていたからである。
彼女はまだ、解っていない振りをしているのだということさえ、知っていたからである。

「すみません、クリスです。フラダリさん、少しいいですか?」

謳うような不思議な抑揚のある声音が、やさしい木目の隙間から聞こえてきた。
二人は立ち上がり、フラダリは慌ててドアの方へ、少女は隠れるように窓の方へと足を向ける。
扉を開けた先にいる、青い髪と青い目をした女性は、まるでそうした二人の対照的な行動を、ドアを透かして見ていたかのようにクスクスと、至極楽しそうに笑っている。

「お邪魔してごめんなさい、少し、貴方と話がしたいんです」

いいかしら、と請うように、縋るようにフラダリを見上げる。その間も笑みは解かれない。彼女はずっと笑っている。
ずっと、本当にずっとそうしているものだから、フラダリは彼女の心を上手く読むことが叶わない。きっとカーテンの脇で凍り付いたように立っている少女にも、解らないことだ。
あるいは彼女自身でさえも、自らがどのような感情を持っているのか知らないのかもしれない。
「あら、私、今何を思ったのかしら?」などと言ってクスクスと笑い出しそうな、そうしてふっと霧のように、雲のように消えてしまいそうな、やわらかい歪な形がそこにはあった。

いよいよわたしは、この女性の放つ霧に溺れ死んでしまうのではないか。
そんな突飛なことさえも思いながら、フラダリは「構いませんよ」と快く返事をする。彼女はやはり、微笑む。

「少し話をしてくる。好きなように過ごしていなさい」

そう告げれば、動かないと思われていた少女は弾かれたようにくるりと振り返る。長いストロベリーブロンドがふわりと、ドアの向こうで佇むクリスの霧を裂くようにたなびく。
行ってくる、と視線で訴えれば、彼女は声を発することなく僅かに頷いてフラダリを見送った。
手を振ることも、笑うこともしなかったが、彼女は確かに彼を見送ったのだと、少なくともフラダリだけはそう思うことができた。

「さて、どうしました?」

「貴方に渡したいものがあるんです。一度、リビングに下りましょうか」

スキップするように階段を駆け下りようとした彼女を慌てて引き留め、フラダリは彼女よりも先に階段へと足を落とした。
もし彼女が駅の頃のように足を踏み外したとしても、下で受け止めれば大事には至らないだろう、と思ったからこその配慮であった。
当然のように次の段へと足を掛けて振り返るフラダリに、彼女は「ふふ、ありがとうございます」と、戸惑うように、喜ぶようにお礼を告げてゆっくりと階段を下りる。

「またカロスへ遊びに行きたいなあ。あの美しい場所は、貴方のような素敵な人で溢れているんでしょう?」

「……ええ、カロスはとても美しいところですよ」

息をするように嘘を吐く。けれど嘘を紡ぐ他になかったのだ。
フラダリはもう、あの土地を、あの土地に生きる人々を手酷く糾弾し、貶めるだけの権利を失っていた。
カロスを追われた者が何をどう声高に唱えたとして、そんな言葉にもう何の意味もないのだと、解っていたからこそ彼は嘘を吐いた。
その「嘘」には少なからず、彼の祈りが含まれていたのだが、さてこれを嘘か真実かと判断するための人物は、残念ながら、此処にはいない。

ただ、此処に在る真実があるとすれば、それは先程まで4人でパスタを食べていたテーブルに、手紙と小箱が置かれていたという、ただそれだけのことであったのだけれど。
けれどそのささやかな真実は、おそらくフラダリにのみ向けられたその真実は、彼の心臓を跳ねさせるに十分な威力を持っていたのだけれど。

「素敵なプレゼントと素敵じゃないプレゼント、どちらから先にお渡ししましょうか?」

「……では、素敵ではない方から」

「ふふ、貴方らしいですね。私なら、素敵な方から先にと催促してしまうところです」

椅子に座るようフラダリに促してから、彼女は向かいの椅子を引いて楽しそうに座った。
楽しそう、と言ったのは他でもない、彼女が微笑んでいたからであり、
その実彼女がその笑顔の中に何を飼っていたのか、彼女が本当のところどういった気分であったのかは、フラダリには到底、見透かせないところではあったのだけれど。

「貴方に手紙を預かっています。イッシュに住む女の子からの手紙です。字と絵と歌がとっても上手な、私の自慢のお友達なんです」

「……イッシュの、女の子?」

「あら、まだ貴方はあの子との縁を持っていなかったんですね。でも、彼女はずっと貴方のことを知っていたんですよ。貴方へのファンレターだと思って、受け取ってくれませんか?」

悪い知らせがファンレターとは、この女性もなかなか意地悪なことをするとフラダリは思った。
しかし彼女の告げる「イッシュの女の子」にまるで心当たりのなかったフラダリは、彼女に促されるまま、何の躊躇いもなくその手紙を開けてしまうことになる。

青い封筒の中に、白い便箋が2枚、入っていた。けれどフラダリはそこに「文字」を見るととができなかった。
便箋を何度凝視しても、裏返しても、たった一言の活字すら見つけることの叶わない、そうした、不思議な手紙であった。
「残念ながらわたしには読むことができないようだ」とありのままを告げて謝罪すれば、彼女はクスクスと笑いながら、「ええ、でも私には読めるんですよ」などと口にする。

「私のお友達にはまだ、貴方達が此処にいることを伝えていません。けれど伝えたらすぐにでも飛んできます。世界一速いポケモンに乗って、貴方と、あの子に会うために。
けれど私はそれを拒みます。貴方達にはまだ時間が必要だと解っているから、その時には全力で、私のお友達の訪問を拒みます。
そうすれば彼女は鞄からこの封筒と便箋を取り出します。言いたいこと、伝えたいことは湯水のように湧き出るけれど、それら全てを押しとどめて、あの子はたった一言を書きます。
もう一枚の白紙の便箋は、そうすることが作法であると、あの子自身がよく知っているからそうしているだけです。きっと、あの子の大切な人に教わったのでしょうね」

「……待ちなさい、貴方の言っていることが、わたしにはよく解りません」

歌うような調子のままに彼女が奏でたその言葉は、しかしこれから「先」に起こり得るかもしれないもので、今の段階では何の確証もないものである筈だった。
この発言は彼女の空想であり幻想だ。あらゆる事象がこの女性の予測の範疇に収まってしまう程、世界というものは単純ではないのだ。
けれど彼女は当然のように笑っている。そこには躊躇いも恐れも何もなかった。
「貴方には解らないかもしれないけれど私には解っている」とでも言わんとするその笑みに、フラダリがひるんでしまったとして、それは当然のことだったのだろう。

「つまり、貴方はわたしとシェリーのことを、その「友達」にはまだ伝えていないのでしょう?
それなのに、その友達が此処へ来ることも、その友達がわたしに向けて手紙を書くことも、この手紙に彼女が何と書くかも、今この段階で、既に貴方は把握しているというのですか?」

彼女は青い万年筆を手に取り、ふわりと花を転がすように笑った。
「大好きなお友達のことくらい解ります」と、その言葉だけ切り取れば正常な、けれど先程の詳細な予言を踏まえれば悉く異常なその発言に、フラダリはいよいよ言葉を失う。
彼女は一枚目の便箋の真ん中に、たった一言、たった一行だけを書き記す。女性らしい丸文字は、しかしその可愛らしさに反して悉く物騒な、残酷な言葉を連ねる。

 
シェリーを殺さないで。』
 

……随分と物騒なファンレターだ。そう告げて笑うだけの余裕は完全に失われていた。
解っている。これは目の前で微笑むこの稀有な女性が書き記した言葉であって、遠くに住む、まだ名前も知らない「イッシュの14歳の女の子」が書いた言葉では決してない。
けれどクリスが、この女性がそう書いたのであれば、きっとその女の子もこのように書くのであろうと、きっと数日後にはこれと全く同じ文面が届くのだろうと、
そう、何の躊躇いもなく「すとん」と落ちるように納得してしまえる程には、この女性は常軌を逸し過ぎていた。逸し過ぎて、最早人ではない何かであるようだった。

「私は、貴方に関してはあまり心配していません。貴方は強く、賢い男性ですから。
少し悩み過ぎてしまっただけの、少し、人に許されない力を戯れに取ってしまっただけの、素敵な貴方のままだから」

「……」

「更に言えば、私はシェリーのことも心配していません。彼女のことを親身になって考えてあげられる程、私はまだ、彼女のことを知らないんです。
私が心配しているのは、この手紙を送ってくるであろう女の子のことです。
私はこの女の子のために、貴方達を此処へ招きました。この子が「シェリーを殺さないで」と願うから、私は駅に向かいました」

貴方は、と紡いだフラダリの音は弱々しく掠れている。クリスは続きを促すことなく、ただ、星が夜を告げるように規則正しく自らの音を紡ぐ。
君は一体何者なんだと、音の形にならなかった彼の疑問さえ引き取るように、彼女は笑う。

「私はあの子を赦すために、貴方達を呼びました」


2016.10.28

© 2024 雨袱紗