1-6

朝食を調達するために売店へと向かった。まだ朝も早いため、迷える程の品数はなかったが、焼き立てのパンの匂いが食欲を誘った。
少女は迷わずカフェオレを手に取ってから、男の分を尋ねた。「同じものを」と告げれば彼女は驚いたように目を見開き、しかし直ぐに小さく笑ってくれた。
あの頃と、この少女と初めて共に食事をした時と同じように、彼女が頼んだものと全く同じものを口にしたかった。そうした、気分だったのだ。
彼女が悉く拒み嫌ったカロスでの思い出を追体験しようとする男を、しかし彼女は楽しそうに笑って許していた。

パン売り場のコーナーに足を運んだが、少女は相変わらず、パンの脇に書かれた商品名の札を読むことができずにいた。
この調子では旅にも苦労しただろう。今更、その苦労を労わるように、男は10種類程あったパンの全ての名前を告げて回った。
チーズサンドを手に取ったので、やはり男も同じものをプレートに乗せた。
その段階で店員が「焼き立てですよ」とベーグルを勧めてきたが、何故か少女が露骨に嫌な顔をしたので、代わりに男は愛想のよい断りを告げた。彼女の顔は強張っていた。

二人がそれぞれ手に抱えた紙袋には、全く同じカフェオレとチーズサンドが入っている。
まるであの頃のようだと、しかしどちらも口にはしなかった。
口にせずとも二人とも、十分に満たされた心地であったし、少女も売店を遠ざかってベーグルのことを忘れた頃には笑えるようになっていたのだから、それでよかったのだ。

6時丁度に出発する特急列車に乗り込み、1両目の4人席に向かい合う形で座った。
目的地に着くまで眠っていても構わないと告げたが、少女は首を振って紙袋からカフェオレを取り出した。
ストローを無造作に突き刺し、すっと一口飲み込んでいよいよ幸福そうに笑うものだから、そんなに美味しいものなのかと男も彼女に倣う形でカフェオレにストローを刺した。
……だが、甘すぎた。申し訳程度にコーヒーの香りが漂っているが、やはり主成分はミルクと砂糖であることが容易に見て取れる、そうした、悉く苦さを忘れさせる飲み物だった。
ああ、君は本当は、こうした味が好きだったのだと、そんな君があのコーヒーなど飲める筈がなかったのだと、再び思い直して彼はカフェオレを窓際に置いた。

チーズサンドに手を付けようか否かと迷っていると、出発のアナウンスと共に電車が動き出した。
彼女は茫然と暗い窓を見つめていたが、やがて外の景色がぱっと開けると、目を見開いて冷たいガラスに手を触れた。
溢れる美しい街並みと自然を、少女は食い入るように見つめている。時折、忘れた瞬きを思い出したように、瞼があまりにもゆっくりと上下する。
彼女の睫毛は長い。奥に潜む目は暗い。

「美しいでしょう、この地は」

彼女の返事など要らなかった。だから彼女が言葉を紡がんと焦る隙を与えないように、男は自分の言葉が終わると同時にチーズサンドの包みへと手を掛けた。
わざと大きな音を立てて中身を取り出し、努めて小さく畳んだ。いつの間にか彼女の視線は窓から離れていた。東の空が不思議な赤を放ち始めていた。あれはきっと朝焼けだ。

「私はこの地を守りたかった」

「……この美しい世界を壊して?」

そう告げてから、彼女の顔がさっと青ざめた。咄嗟に吐き出される彼女の本音は、とても新鮮な震えで男の鼓膜を揺らした。
本音と本音を交わし合うと、人の間に漂う空気はこんな風に揺れるのだ。彼は今までそうしたことを知らなかった。おそらく、彼女も知らないままだっただろう。
そういう意味でも、男と少女は限りなく同じ場所にいるのかもしれなかった。

「今日の君は少しばかり饒舌だ」

「ごめんなさい」

「いいえ、構わない。寧ろ君はもっと前から饒舌であるべきだった。わたしは、そんな君の言葉をもっと聞くように努めるべきだった」

そうしていれば、しかし何かが変わったのだろうか。この世界はよりよい方向に動いたのだろうか。男は世界に見限られずに済んだのだろうか。
しかし少なくとも、この少女には変化が訪れていた筈だと信じていた。
彼女の臆病な気質が誰彼に心を開くことを許さなかったとして、それでも一人、たった一人でも心を許せる相手がいれば、何かが変わったのではないかと思ってしまうのだ。
そして、その「たった一人」にもっと早く成ることのできなかった自分を、男は責めるべきだったのだ。責められるべきは少女ではない、男であった。そう思うことにした。

少女はチーズサンドを齧りながら、再び窓の外に視線を固定していた。茫然自失に近い状態のように思われていた彼女の視線は、しかし徐々に鋭いものへと変貌を遂げていた。
射るような目で、少女はカロスの朝焼けを睨み付けていた。
見る人に笑顔を与える程度には美しいと自他ともに認めるこのカロスを、そうした目つきで突き刺す人間がいることに、男は改めて驚かざるを得なかった。

「……君はこの地を美しいとは思わないのか?」

思わず、そう尋ねていた。彼女は困ったように眉を下げて、「ええ、あまり」と呟いた。
その間も、彼女の鋭い憎悪の視線は窓から逸らされなかった。いよいよ瞬きすら忘れてしまいそうであった。

「では何故、君はわたしのところに来たんだ?何故この地を守るためにわたしと戦ったんだ?君はこの土地を見限り、逃げることだってできたのだろう?」

「何処に?」

端的なその疑問符が全てを示していた。ぷつん、と聞こえたその音は、きっと彼女のたかが外れる音だったのか、それとも彼女の自制の糸が切れる音だったのか。
『寧ろ君はもっと前から饒舌であるべきだった。わたしは、そんな君の言葉をもっと聞くように努めるべきだった。』
その言葉を皮切りにして、遠慮と臆病を限りなく排した彼女は、切れた糸によってそうした自制を悉く失った彼女は、穴さえ開けんとするかのような鋭さで窓を見ていた。

男を一瞥たりともしないその射るような鉛色の目に、「下らない事を訊かないで」と叱責されているような気がして、男は思わず口を閉ざし、息を飲み込んだ。
二人の間に揺蕩う沈黙は悉く重く、彼等がこうした本音のぶつけ合いを避け続けてきた、その怠惰かつ臆病な罪の分だけ、二人の間を滑る空気は凍えた。喉さえ寒さに震えていた。

「私は此処にいなきゃいけなかった。でないと、皆に見限られるから。だからずっと此処にいました。皆は、私を褒めてくれました。……でも、違った」

「何が違ったんだ?君は、……本当は何が欲しかったんだ?」

「貴方みたいな人には、私の怠惰な強欲はきっと解らない」

視線を窓に固めたまま、決して男の方を見ることなく淡々と彼女は紡いだ。
あまりにも饒舌な彼女の静かな独白は、憤りと絶望に煮え過ぎていた。今にも彼女の小さな心臓から、溢れ返ってしまいそうだった。

 
「私は、私が持っていない全てのものが欲しい」
 

この少女が持っていない、全て。男はその言葉の意味を考えようとして目を閉じた。
彼女が持っていないものなど、数え切れない程にあるように思えた。
しかしそれは、彼女が無力であることを示している訳では決してない。人は誰しも無力で、持っていないものが在り過ぎるものなのだから。
しかし彼女はその全てを「欲しい」と言う。自分が持っていない何もかもを求める自身の思いを、「怠惰な貪欲」と指して諦めたように沈黙する。
持っていないものが多すぎることが問題なのではない。その全てを求める彼女の心に問題があるのだ。全てを求める自分をそのように卑下することがおそらくは間違っているのだ。
そしてきっと、彼女はこう言いたいのだろう。

『ほら、私はこんなにも醜い人間ですよ。フラダリさん、貴方は私を消さないんですか?』
男は目を開けた。少女は先程と同じ姿勢、同じ表情、同じ視線でそこにいた。

「成る程、確かに君の本当に欲しいものはまだ、わたしには解らない」

彼女は窓から視線を逸らさなかった。けれどしっかりと聞いているのだということが男には解った。
膝に置かれた彼女の右手が、強く握り絞められすぎて指先を白く染めていたからだ。

「だが、構わないのだと思うことにしよう。いつかわたしにも理解が及ぶ時が来る、そのための時間が我々にはある。
折角、君が差し出してくれた宿題だ、何年かかってでも解いてみせよう」

彼女は何が欲しかったのだろう。
この美しい土地で、しかし彼女にとってはどこまでも美しくなどなかったこの場所で、泣きながら、苦しみながら旅を続けて、彼女は一体、何を手に入れようとしていたのだろう。
賞賛を受け、他者から価値を見出されても尚、彼女の欲しいものは手に入らなかった。では、どうすればよかったのだろう。彼女の呼吸はどうすれば楽になるのだろう。

はっと息を飲む音がして、男も窓に視線を向けた。いつの間にか、景色はカロスのそれではなくなっていたのだ。
二人は既にカロスを追い出されていた。カロスから、逃げることが叶っていた。
その土地に別れを告げるために窓を見ていた筈の少女が、あまりにも驚いたような表情をしている。それが彼女の今をあまりにも雄弁に示していて、男は思わず微笑んだ。

きっと途中から、もしかしたら最初から、少女はカロスの景色を見てなどいなかったのかもしれない。
あるいは窓ガラスに映る自分の顔をただ睨み付けていたに過ぎなかったのかもしれない。彼女がずっと嫌い、拒み続けていたのは、本当はカロスなどではなく、

「ジョウト地方は今、晩夏の頃だ。少し我々には暑すぎるかもしれない」

「……いいえ、大丈夫です。私は夏を知っていますから」

彼女はようやく視線を男の方へと向け、はっきりとした音でそう告げた。
朝焼けは太陽の眩しさに飲まれていた。遠くで見知らぬポケモンが飛んでいた。

2016.10.4

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