(シロガネ山の麓で修行をする男と、そんな彼を慕っていた、幼く若いポケモントレーナーの話)
「ほら、使え」
地面を割らんとするかのような激しい雨が降っていた。
スカートの裾を絞りながら「すごい雨だね」と、パートナーらしき赤い虫ポケモンにそう話しかけていた少女は、
しかし雨宿りのために駆け込んだ大きな木の下に、先客がいるなどとは思ってもみなかったのだろう、小さく悲鳴を上げてから、弾かれたようにこちらを振り返った。
琥珀色の目がキラキラと瞬いていた。黒い髪は雨を吸い込んで、重く長く肩を流れていた。
「あ、えっと……大丈夫です!私、ちゃんとタオルを持ってきていますから」
男の差し出したタオルを、少女は慌てた様子で断り、背負っていたリュックサックを下ろして中に手を突っ込んだ。
けれどこの雨に長らく降られていた鞄の中身も、少女と同程度にぐっしょりと濡れていて、……当然のようにそこから取り出したタオルもまた、使い物にならなくなっていた。
「あ……」と失意の声を漏らす少女に、男はくつくつと喉を鳴らしてからかうように笑った。
彼女は暫く困ったようにそのタオルと鞄とを見比べていたのだが、やがてその、雨に濡れたタオルを握り締めて、照れたようにふわっと笑い、男を見上げた。
年はおそらく12歳くらいであったのだろう。140cmをようやく超えたと思われるくらいの、小柄な、けれどか弱さを微塵も感じさせない、強い目を持った少女であった。
琥珀色の目は月のように細められ、肩は風船のように軽く竦められていた。そうかと思えばくしゃみをするその音は鈴のように幼く脆く、いよいよ「子供」を極めていたのだ。
あいつは一人で無事に生きているだろうか。雨に降られていないだろうか。そんなことを想わずにはいられない程に、この少女のささやかな幼さは「彼」に似ていた。
「風邪を引くぞ、いいから取っておけ」
もう一度だけ受け取るように促せば、その子供は照れたように細められた目をすっとこちらに向けて「ありがとうございます!」と、甲高い声音と共に深くお辞儀をした。
濡れた髪が重力を忘れたかのようにぴょん、と跳ねて、その先から飛び散った水が男のコートを僅かに濡らした。子供はそのことに気が付かなかった。男も気付かないふりをした。
「急に降り出したのでびっくりしました。シロガネ山にも雨は降るんですね」
長い髪をぎゅっと絞ってから、子供は受け取ったタオルで丁寧に、顔や髪の水滴を拭い取っていった。
男はコートのポケットに所在なく手を差し入れたまま、少女が慣れた手つきで雨を拭く姿をただ、ぼんやりと眺めていた。
「それにしても、こんなところで人に会えるなんて思っていませんでした。おじさんは此処で何をしていたんですか?」
「こんなところ」にいる自分を棚に上げて、少女はそう尋ねる。細められた目はいつの間にか、満月のように丸くなっていた。好奇心と高揚とを映した、危うい目だった。
「修行だ。此処には強いポケモンが多いし、人は滅多に通らない。自分の力だけと向き合える、いい場所だ。そこに君がやってきた訳だ」
「……あ、ごめんなさい!私、おじさんの大事な時間を邪魔してしまったんですね」
「はは、気にするな。どうせこの雨では何もできない。出直そうと思っていたところだ」
男はポケットから徐にボールを取り出し、ふわっと軽く宙に投げて落とし、また高く上げては落とすことを繰り返した。
トン、トンと規則正しく手の平へと戻ってくるボールの音を遮らないように、少女は静かな沈黙で彼の時間を肯定した。
「それで、君は?」と男が尋ね返さなければ、彼女はいつまでも沈黙していたのだろう。そう思ってしまう程に、男のボールを見つめる彼女の目は穏やかで優しいものだったのだ。
「私も同じです。まだ洞窟の中に入るのは怖いから、今は専らこの辺りを探索しているだけで」
怖い、と正直な胸の内を明かして、照れたように笑うところがいかにも子供らしい。
それでもその年でこの、カントー地方とジョウト地方の間にそびえ立つ「シロガネ山」にやってくる度胸は大したものであり、
年相応の幼さを持ちつつも、その小さな体には、大人も顔負けの勇敢さと向上心がかなりの密度で溢れんばかりに詰め込まれているのだと、男には容易に察することができた。
「……そいつは、強いのか?」と、少女の傍らで羽を瞬かせる赤いポケモンを指し示せば、彼女は嬉しそうに頷いてから、
「試してみますか?」
あの赤い子供にそっくりな表情で、そう告げる。
「……いや、まだだ。君がもう少し強くなったら相手をしてやろう」
それは彼女のための猶予ではなく、男の、彼自身のための猶予であった。彼女ではなく、男が2度目の敗北を恐れたが故の言葉であった。
子供は恐ろしい。真っ直ぐで、疑うことを知らないから。己の正義に忠実であるから。ポケモンのことをあまりにも真摯に想うから。男の捨てた全てを持っているから。
けれど少女はそうした「約束」を交わせたことがどうしようもなく嬉しかったらしく、「約束ですよ、絶対ですよ!」と、甲高い声ではしゃぎながら手を伸べた。
小指をぴんと立てたその小さな手が、何を意味しているのか男にも解ってしまったから、彼は苦笑しつつ自らの手を伸べた。
少女の細い小指は、男の小指を絡めれば手酷く折れてしまいそうだった。だから男はその指に力を込めることができなかった。代わりに少女の方が力強く握り締めた。
*
翌日も、その翌日も、その子供はシロガネ山を訪れた。
彼女がやってきているかどうかは直ぐに解った。雨宿りに使った大きな木の近くへと向かえば、彼女の声を聞くことができたからである。
彼女が自らのポケモンに指示を出す大きな声を、シロガネ山の山びこが運んでくる。だからこの広い山の裾において、彼女が何処にいるのか、男には直ぐに解ってしまう。
彼女がいつも連れ歩いているポケモンは「レディアン」という虫ポケモンだ。ジョウト地方からやって来たらしい彼女は、他にも男の知らないポケモンを何匹か連れていた。
水と電気の混合という、とても珍しいタイプを持つ「ランターン」や、あらゆる技を我が物として使いこなす「ドーブル」、
金属質な銀色の翼を持つ「エアームド」、風が吹けば飛んで行ってしまいそうに軽い「ワタッコ」など、ジョウトのポケモンはとても個性的で、男の好奇心をくすぐった。
ポケモン自体もそのように興味深いものであったが、何よりもそうしたポケモン達を、少女があまりにも幸福そうに語るものだから、
強くなる、勝利するといった、ポケモントレーナーとしての強迫的な焦燥を忘れて、ただポケモンと共に在れることが嬉しいといった心地で笑うものだから、
男もまた、彼女の言葉に相槌を打ちながら、男が大人でなかったあの頃を思い出して笑うより他になくなっていたのだ。
「ポケモンが好きか?」
解りきったことだったが、そう尋ねてみる。彼女はやはり琥珀色の目をすっと細めて「大好き!」と、あまりにも真っ直ぐで危うい答えを示す。
彼女の想いをシロガネ山が木霊として返してくれる。それに気付いた彼女はいよいよ楽しくなって、もう一度、自身の思いの丈を声高に叫ぶ。
「ポケモンが大好き!皆と旅をすることがとっても楽しい!もっといろんな世界を見たい!いろんな人に出会いたい!」
一呼吸置く度に、シロガネ山は彼女の言葉を繰り返した。それが、ただそれだけのことがどうしようもなく楽しいものに思われたのだろう。
少女はシロガネ山の言葉を鼓膜に受けて、照れたように、自分の思いの丈を少しばかり恥じるように顔を赤くして、けれど、それでもまた同じように言葉を吐き出す。
シロガネ山が何度目かの木霊を寄越した後で、彼女は暫く考え込む素振りを示した。「どうした」と男が尋ねようとした瞬間に、彼女は今までで最も大きな声を張り上げた。
「おじさんとポケモンバトルがしたい!」
そびえ立つ高い山に向けて放たれたそれは、全く同じ声音で弾き返され戻ってきた。
「強くなりたい!あなたに勝ちたい!」
喉の渇きを訴えるように、少女は首元に手を当ててそう叫んだ。その言葉はやはり弾き返され、男と少女のところへと戻ってきた。
くるりと山に背を向けて男の方へと振り返った少女は、乞うように、祈るように笑った。
この子供が自分を慕っていることに男は気付いていた。
共に山の麓で修行をする同士として、ポケモントレーナーの先輩として、そして年上の大人として、少女は彼を敬い、彼に憧れ、彼を慕った。
その真っ直ぐな思いは、どうにも彼には重すぎた。だが構わなかった。
本当のところはどうであったとしても、その全てを隠して嬉しそうに微笑むことなど、この男には造作もないことだったのだ。
真摯で誠実な危うい言葉を叫び続けるこの少女に、屈折と不誠実をもって接することなど、簡単なことであったのだ。そして、そうすべきだったのだ。
「いいか、一度しか言わないからよく聞いておけ」
けれど、そうできなかった。
それが男の甘さであり弱さであったのだから、仕方なかったのだ。
「君はもう此処に来ない方がいいだろう」
「え、……どうしてですか?」
「私が悪い大人だからだ。私はポケモンを奪い、金を奪い、人を恐れさせて生きてきた。君がもし私に挑み、負けたなら、私は君のポケモンを奪うだろう。
だから私と戦おうなどと思わない方がいい。これは忠告だ。こんな私を慕ってしまった君への、一度きりの警告だ」
男の無骨な誠意が彼女を絶望させることになったとしても、そうすることしかできなかったのだから、仕方なかったのだ。
2016.11.1
→ 「きっと彼には高すぎた」