※この短編は新テニスの王子様10.5巻発売前に書いた作品を加筆修正したものであり、斎藤コーチを「独身」としてしまっています。
10.5巻にて彼は既婚者であることが判明しているため、公式の設定とは異なります。ご注意ください。
「侑香さん、ちょっと花を摘んできてくれませんか」
彼は私を捕まえて、そんなことを言った。
2mをゆうに超える高身長の、大の大人である彼の口から、「花を摘んできて」などという可愛らしい言葉が出てきたことにも驚いたけれど、
それをあろうことか、私に頼む彼の姿勢にも驚かされてしまった。
私が、花が好きなように見えるのかしら。私は花も、お化粧も、ヘアアレンジも、女の子らしいことに何一つ興味がない人間なのに。
「この合宿所に、花なんてありましたか?」
このU-17合宿所に、花壇の類はない。青々と茂った植え込みならあるけれど、花が植えられている場所など、無かった筈だ。
もしかして、山を下りて花を買いに行ってくれということなのだろうか。彼の言葉の意図するところを計り兼ね、首を傾げていると、彼はクスクスと笑いながら私の頭を撫でる。
「野草の類で構いませんよ。合宿所の植え込みにひっそりと生えている筈です」
「何に使うんですか?」
「この部屋に飾るんですよ。毎日、君のような子を迎えるには、このモニタールームはあまりにも殺風景ですから」
お願いできますか?
陽だまりのような笑顔でそう尋ねる彼に、私は少し訝しい気持ちになりながらも頷いた。
部屋に野花を飾るなんて、変わった人だと思ったけれど、彼が変わっているのは今に始まったことではなかったのだと気付き、思わずおかしくなって笑ってしまう。
その長身を丸めるようにうずくまり、アスファルトを行進するアリの観察をしていたこともあった。
大の大人がその行列を食い入るように見つめている様は、私が言うのも変だけれど、異様だった。
あの行為に比べれば、野花を好んで飾ろうとする趣味など、たいしたことではないように思えたのだ。
「待っていますよ、侑香さん」
モニタールームを出て振り返れば、閉まろうとしているドアの隙間から、彼がひらひらと手を振っていた。
*
ガラスの扉に体重を掛けるようにして押し開ける。山奥にあるこの合宿所はとても寒く、11月とは思えない程の、突き刺すような寒さが肌を粟立たせた。
夕方ということもあり、練習や試合を終えた高校生や中学生とすれ違う。私を見て声を掛ける人もいるし、掛けない人もいる。
声を掛けてくれた人達に挨拶を返しながら、私は彼等が練習をしていたコートの方へと歩いた。
西の空は燃えるように赤く、千切れた雲の隙間から夕日が丸い形をして山に沈みかけていた。
木に止まった鳥が、鈴を鳴らすように鳴いていた。強い風と共に飛び立った彼等は、一様に同じ方向へと飛んでいった。
スタッフの一員として走り回っているだけでは見えない、合宿所のあらゆる場所を探すように、私はゆっくりと歩いた。
アスファルトの切れ目にアリが巣を作っていることや、植え込みに入ったボールが誰かに見つけられるのを待っていたこと、
裏山に続くフェンスが大きく破れていること、倉庫の裏側に自動販売機が1台だけ隠れていることなど、様々な場所で新しい発見があった。
それら全てが夕日に照らされ、燃えるようにキラキラと輝いていた。
「!」
そして私は、植え込みの隅に咲く花を見つける。
葉のない茎が、天を仰ぐように真っ直ぐに生えていた。くるくると円を描くように巻かれた白い花弁を囲むように、ワイヤーに似た細い糸が伸びていた。
このような形をした花を、私は見たことがある。彼岸花だ。9月頃に咲く真っ赤な花は、しかし山間部では開花時期が少し遅れるらしい。
11月の彼岸花は、雲のように柔らかな白をしていた。
突然変異だろうか、それとも高山地帯に咲く彼岸花は、あの真っ赤な色素を失うように出来ているのだろうか。
そもそも、これは似ているだけで、本当は彼岸花ではないのではないか。
そんなことを思いながら、私は持ってきていた鋏で茎の根本から1本だけ切り取った。顔の前に近付けて、周りの空気ごと吸い込んでみる。
香りは特にない。こんなに美しい花なのだから、それに相応しい芳香を備えているものだとばかり思っていたけれど、その美しさに反して、控え目な花であるらしい。
……花を摘んだのなんて、何年振りだろう。
中学1年の頃に、タンポポの花弁を数えるという授業があって、そのために校庭に咲くタンポポを調達した時以来であるような気がした。
数年振りに手に取った花はとても神聖な輝きを持っていて、彼に渡すのが惜しくなってしまう程に美しかった。
彼なら、この花のことを知っているかもしれない。
私は踵を返して歩き出した。すっかり沈んでしまった日が、私の長い影を消していた。
山間部に吹く強い風に、その花弁が飛ばされてしまわないように、私は手で花を庇うようにしてアスファルトをゆっくりと歩いた。
アリの行列は居なくなっていた。倉庫の裏の自動販売機は、夜の闇を切り裂くような眩しい光を湛えていた。
植え込みの中に見つけたテニスボールを、その倉庫の中にあったボールの山に戻し、私はモニタールームのある合宿棟に向かった。
*
ドアをノックする前に、向こうから開いた。
彼は私の姿を見て、陽だまりのようにふわりと微笑み、いつものように私を招き入れる。
そして私の右手に握られている花を見て、何を思ったのか声を上げて笑い始めたのだ。
「ああ、リコリスを持ってくるなんて、可愛らしい人ですね」
「……この花、嫌いでしたか?」
「いいえ、好きですよ。ありがとうございます。白い彼岸花を見るのは初めてですか?」
彼はその大きな手で白い花を受け取る。やはりこの特徴的な花弁は彼岸花のものだったのだ。
予め用意していたのか、テーブルの上にはガーベラを刺すような一輪挿しの細い花瓶が置かれていた。
彼はその、水の入ったガラスの花瓶に、白い彼岸花をそっと刺し入れた。浴びた水に歓喜するように、その花弁がふるりと揺れた気がした。
「別に突然変異をした訳ではないんですよ。彼岸花は赤いものがあまりにも有名ですが、白いものも、ピンク色をしたものもあります」
「……あの、リコリスっていうのは、彼岸花のことですか?」
「そうですよ。海の女神の名前で、彼岸花の学名です。この花があまりにも美しいことから名付けられたのでしょうね。……それはさておき」
彼は私の頭をそっと撫でる。
この寒いモニタールームにずっといるにもかかわらず、彼の手は私のものよりもずっと温かかった。人の温度だ。あまりにも心地良いそれに私は目を細める。
彼の羽織った白衣の向こう、薄暗いモニタールームの中で、白い彼岸花が星のように瞬いていた。
「外は、どうでしたか?」
……ああ、彼の目的は花などではなかったのだと、私はようやく気付く。
気付いて、息を飲む。
「君が見た風景のこと、ボクに教えてくれませんか?」
彼は私を見定めようとしているのだろうか。それとも、ただ単に話を聞きたいだけなのだろうか。
どちらでもよかった。だってあの空はあんなにも美しかったのだ。
アスファルトの隙間から行列を作って出てくるアリはとても必死に生きていて、植え込みに隠れていたボールは誰かに見つけられるのを健気にもずっと待っていたのだ。
「空が燃えていました。とても綺麗で、思わず足を止めてしまいました」
「……そうですか」
「小さなアリが植え込みの隅を行進していました。忘れられていたテニスボールを見つけて、倉庫に戻しました。長い影が、少しずつ薄くなって溶けていきました」
「うん、それから?」
彼はその影色をした目を細め、陽だまりのような笑顔で私の話を聞いてくれる。
私が気付いたこれらのことなんか、きっとこの人は全て知っているのだろう。
美しい夕日が西の空を燃やすことも、アリが小さな体で懸命に生きていることも、テニスボールの数が合わずにいたことも、影が闇に溶けるように消えてしまうことも、全て。
それでも彼は話を聞いてくれる。私の言葉に相槌を打ってくれる。毎日のルーティーンワークをこなすことで精一杯だった私に、猶予と生きるための力をくれる。
「楽しかったですか?」
「……はい、とても」
「それはよかった。またお願いしますね」
彼はこうして、私に生きる意味をそっとくれる。世界の美しさを、息をするような自然さで差し出し微笑む。
貴方が生きる場所はこんなにも美しいのだから、ちょっと外に出るだけで楽しいことが沢山あるのだから、それらのないところへ飛び込んでしまうのは勿体ない。
そんなことを、彼は決して口に出さない。彼は言葉で私を導かない。言葉よりももっと深いところで、私の目に映るものや耳に届くもので私の心を揺らす。
だからこそ、その気付きは拒むことのできない力と輝きを持っているのだ。私はこうして、彼が差し出した世界に染められていく。私は拒めない。彼は許さない。
もし、私がこのみっともない私のままに生き続けなければならないとして、それでもいいんじゃないかなと思った。
彼はそんな私を見限らないのだから。彼はそんな私に意味をくれるのだから。だって白い彼岸花は凄まじい美しさで、私の足が彼岸に向くことを阻むのだから。
2015.6.27
死にそうな貴方が彼岸の花を持ってくるなんて、笑えない冗談だ。