※この短編は新テニスの王子様10.5巻発売前に書いた作品を加筆修正したものであり、斎藤コーチを「独身」としてしまっています。
10.5巻にて彼は既婚者であることが判明しているため、公式の設定とは異なります。ご注意ください。
「貴方はボクを嫌いにならなければいけないんですよ」
齋藤はそう言って笑った。少女は今日も今日とてモニタールームのソファにその小さな身体を沈め、大きなマグカップになみなみと注いだコーヒーに少しずつ口を付けていた。
一介の臨時スタッフと、精神コーチ。彼等は互いに契約を結んでいた。
『一緒に生きましょう。』
彼のその言葉を少女は大事に抱いていた。貴方が死ぬまでのお手伝いだと言った彼のその申し出を、あの時はそのまま信じていたのだ。
自分には素晴らしい終焉が訪れるのだと信じていた。彼はその手伝いをしてくれるのであって、彼を利用しているのは他でもない自分だと信じていたのだ。
イニシアティヴ握っているのは少女の方だった。事実として、彼は少女の意見をいつだって尊重してくれた。彼が少女の意思を食い潰したことなど一度もなかったのだ。
信じることは楽だった。思考を麻痺させた少女は彼に反抗する言葉をなくした。
つまりは彼を信じようと思った瞬間に、そのイニシアティヴは崩壊し、他でもない彼に明け渡されていたのであって。
……つまるところ、少女は未だに一人で立つことが出来ずに居たのだ。
「ねえ侑香さん、君は死にたいのではなかったのですか?」
「……」
「最近の貴方はとても楽しそうだ。どうです、もっと楽しく生きるためにその体力では些か心もとないでしょう」
彼は人畜無害そうな笑みを浮かべた。それは彼が隠し事をする時に見せる薄笑いにも似ていた。
彼は大人だ。少女の倍以上の年月を生きてきた大人なのだ。彼はいつだって少女にとっても最高と最悪を心得ていた。
少女に拒まれるであろう事象を、少女が焦がれて止まない魅力的なもので包み、ご丁寧にラッピングまでして差し出した。
内に潜まれた爆弾に少女は気付いていないのだと思っていた。後でそれに気付いて責められることになっても構わないと思っていた。
「私は死ぬために貴方の力を借りたのだ、こんな筈じゃなかった。どうして貴方は私を生かそうとするのか」
彼女ならそれくらいのことを言って自分を責めるだろう。その予測は容易に立てられた。
笑みを絶やさぬ齋藤の前で、少女はきっと泣きそうな目をして自分を睨みあげるのだろう。
この男に騙されたと、そう責め立ててくれれば良かったのだ。逆に言えば、そうすることで彼が少女に吐いた嘘による罪が償われる気がしていたのだ。
「……そうですね。先生、どうすればいいか解りますか?」
「今の仕事を続けること、此処にも毎日通うこと、何か気掛かりなことがあればすぐにボクに相談すること。……これくらいでしょうか」
「それだけでいいんですか?」
「ええ、後はボクの仕事です。侑香さんの仕事は今を精一杯生きることですよ。いつか死ぬ時のために」
少女は針金細工のように細い腕で自分の肩を抱いた。小さく「頑張ろう」という呟きが聞こえる。
無理しなくていいんですよという常套句を返して齋藤は微笑んだ。いつもの会話だ。そのことに互いが酷く安堵していた。
少女があの時望んだ「死」が遠ざかっていることに彼女自身は気付いているのだろうか。齋藤はふとそんなことを思った。
彼女が焦がれたその綺麗な終焉は、寧ろ自分と関わらないことでより一層の輝きをもってして少女に迫り来る筈だった。
それを彼が見過ごせなかった。どれをどうしても許せなかった。ただそれだけのことだったのだ。
つまり、彼は少女を死なせたくなかったのだ。
齋藤はコンピュータの電源を落とした。明日から少女の食事メニューを変えなければいけない。
彼女は年齢に似合わず、スパゲッティやハンバーグといったものを悉く拒んだ。
その理由をしっかりと把握している齋藤は、茶碗蒸しくらいなら食べられるだろうかと微笑み、近くの紙を引き寄せてその単語を書いた。
体力を付ける為に食べなければならないということを、頭では解っていても昔の少女はどうしても受け入れることが出来なかった。
その傾向は今でも続いているが、彼への信頼がかろうじて少女に理性を保たせているらしかった。そのことに彼はどこまでも安堵していた。
「侑香さん、茶碗蒸しとリゾットはお好きですか?」
「……多分」
自分の好きなものなんてコーヒーくらいしか思い付かない。そう零した少女が不確かながらも齋藤の疑問に拒絶以外の形で答える。
その不安定な肯定の意味を、彼は正しく理解していた。
「大丈夫ですよ、何もかも上手くいきますから」
それは魔法の言葉だった。そう呟けば少女が本当に安心して笑ってくれることを齋藤は知っていたのだ。
「そうですよね」
「おやおや、そんな簡単に人を信用して良いんですか?貴方は疑り深い人間だと思っていましたが」
ついそんな意地悪を言いたくなって、齋藤は優しく笑った。そこには狼狽しながらも頷く少女の姿が確認できる筈だった。
しかし少女は一瞬の躊躇もなく、歌うように紡いだのだ。
「貴方のせいです、先生」
時が止まった。しかし少女の時間はそれを望んでいなかった。
彼女の歩調に合わせることが出来ない自分に齋藤は焦った。しかし少女はそれを待つことなく、逆に彼女の方から齋藤の足元に降りてきたのだ。
「私、知っていたんですよ。だから齋藤先生をせめてなんかあげない」
「……それは、困りましたね」
「ありがとう」
差し出された手は以前よりも少しだけ温かい。人の温度だ。二人はそのことに酷く安心した。
少女がもう片方の手を伸べて齋藤の頬に触れた。どうしたんですか、と彼が尋ねると、「いつも私がして貰っているから」と返ってきた。
「だって、泣きそうな顔をしているから」
いつの間に、世界は変わっていたのだろう。齋藤はそれが甚だ不思議でならなかった。
しかしそれを自分のせいだと言われれば、それでいいのかもしれないと思える程に、彼は。
2013.12.19