死神のおくりもの

※この短編は新テニスの王子様10.5巻発売前に書いた作品を加筆修正したものであり、斎藤コーチを「独身」としてしまっています。
10.5巻にて彼は既婚者であることが判明しているため、公式の設定とは異なります。ご注意ください。

(この子は死んでしまいたい訳では決してないんだよ、)

朝、目を覚ませば、倦怠感が全身を襲う。十分に睡眠を取った筈なのに、恐ろしい程に身体が重い。
心はさあ、動かなければと思っているのに、身体は動けないのだと叫んでいた。鏡に映る窪んだ頬には、いよいよ影が差し始めていた。
針金細工と誰かが称したこの身体には、もう人の温度など少しも残ってはいない。心臓の鼓動すら、命を繋ぎとめるための最低限の頻度でしか動いていない。
私の身体の全てが、動きを止めたがっているように見えた。

けれど私の心はみっともなく、生きることにしがみ付いている。
身体と心の相反する強烈な衝動に、引き裂かれまいと私は必死だった。
死にたがっている身体の本能的な働きの停止に、見えない振りをしていた。その悲鳴に、聞こえない振りをしていた。
私はまだ頑張れるのだと、まだ普通の人のように生きていられるのだと言い聞かせていた。
けれど、もう疲れてしまった。

出来ることならこのまま息を止めてしまいたい、と、最近では毎日のように思う。
今の私の身体なら軽々と燃やせるだろうし、灰となれば文字通り風に飛ばされていってしまうだろう。
そんな妄想は酷い虚しさと甘さを伴った。

しかし、まだこの身体を手放す訳にはいかない。残念ながら、誰もかもを忘れ去ることも、誰もかもに忘れ去られることもできないからだ。
ぽっかりと開いた穴に、存在「した」私を嵌め込まれるのは実に不愉快なことであった。
今の私はまだ、他人に誇れる姿をしてはいない。そんな不完全な私のまま、私を称していたくはない。
だから私は此処に居続けなくてはならない。私を時間が進む限り更新し続けなくてはならない。

更新し続けたところで、こんな役に立たない私など、誰にも認められないと知っているけれど。
たとえ他のどんな人間に認められようとも、たった一人に認められなければ、それは私の存在を肯定する要素にはなり得ないと解っているのだけれど。
そして、その「たった一人」は、私を必要としていないのだと気付いているのだけれど。

だからこそ、私は私を更新していなければならなかった。
少しでも、少しでもその「たった一人」に私を肯定していてほしかった。少しでも肯定されうるだけの要素を孕んだままに手放したかったのだ。
私は前に進んでいるのだと信じていた。より良い私になりつつあるのだと、「たった一人」に相応しい存在になるための歩みを進めているのだと信じていた。
私は間違っていないのだと、これが最善の選択なのだと、信じるしかなかったのだ。だって、

「疑ってしまったら、生きないといけないでしょう?」

蜘蛛の糸のように細いそれをピンと張り、弾けば高く音が鳴る。私の声はそれに似ていた。
刃物一振り、一陣の風。そんなものでいとも簡単に消えてしまう存在だ。

この存在を引きずって、生き続けなければならないことが何よりも怖かったのだ。

霧散した宝物はもう私の元に戻って来ない。私の理想は遠く手の届かない所へ行ってしまった。
人の思い程、移ろいやすく留めておけないものなど他にないのだ。私はそれを選んでしまった。どうしても、と望んでしまった。
それ以外の道を見出し、進路を変えるには、私はあまりにも疲れすぎていた。
だからこそ私は、終わりを探している。私が少しでも「誰か」に認められる存在で在れる一瞬を探している。

それこそが私の理想の終極であり、そうして初めて、私は「誰か」を忘れられるような気がした。

「綺麗ですよ、侑香さん。君は誰よりも綺麗だ」

「ありがとうございます」

目の前の、白衣を纏った男は、私の欲しい言葉をくれる。私は青い色をした自分の唇が小さく弧を描いたのを感じた。
しかしそれは喜びから来るものではない。自嘲だ。私が私を嘲笑っているのだ。
赤の他人の、誰がどう聞いても世辞としか取れないそれに、一瞬たりとも喜びを感じた私を嗤っているのだ。
おかしい。この人は私の望んだ「たった一人」ではないのに。私が本当に私を肯定してほしい相手ではないのに。
この人の一言は、私を救う力をもってはいない筈なのに。

馬鹿げていると思った。解っていた。
私が望む「たった一人」の顔を、喉が潰れてしまいそうな程に焦がれた人間の顔を、私はずっと前から、直視することができずにいるのに。
焦がれた筈の相手を、私はずっと、拒んでいるのに。私はもう、「たった一人」の顔を思い出せないのに。

「お世辞じゃないんですよ。君のように懸命に生きようとしている人物を、ボクは他に知らない」

「……」

「君は綺麗ですよ。たとえ死ぬための一瞬を作るために生きているのだとしても、そのために懸命に生きる君の姿はとても美しい」

目の前の男性は、私の望んだ「たった一人」ではない。そうではないにもかかわらず彼は私の心を読む。
私の姿を見れば、きっと皆が死にたがっているのだと言うだろう。現に私の身体は生きるために摂取しなければならないものを拒んでいる。
生きなければと思う私の心に反して、身体はそのための糧を受け付けない。
その姿を、滑稽だと嗤う人こそいても、美しい、なんて称するのは、何処を探してもきっとこの男性くらいだろう。
変なの、と思った。だって私はこの男性の名前すら覚えられないのに。
生きる糧を拒み続けた私の脳は、思考するためのエネルギーが慢性的に不足している私の頭は、何かを覚えることも、考えることも拒み始めているのに。

私は私を肯定してくれる存在を覚えることすらできないのに。

ピアニストのような細く長い指が、私の髪を絡め取る。髪、とも言えないのかもしれない。墨のように真っ黒なそれは、量の少ない、出来損ないのヴィッグに似ている。
一本、二本。軽く絡めただけなのに抜けていく髪の毛に、私はまた自嘲した。
こんなみっともない姿になっても尚、私は前に進めると、限りなく素晴らしい一瞬を残せるのだと思い上がっている。こんなに滑稽なことがあるだろうか。

「君がそのまま死んでしまうことを選ぶ人間でなくてよかった。もしそうなら、ボクは君に会うこともできなかった」

彼の言葉は酷く甘美だった。
この言葉が「たった一人」のものであったならどんなによかっただろうと思う。けれど私は、この男性のテノールを、その「たった一人」の声音に置き換えることすらできない。
だって私は、その声がどんな響きをしていたのか、そんなことすらも忘れかけているのだ。

あの「誰か」はどんな形をしていたのだろう。どんな声で私の名を呼んだのだろう。
あれは本当に美しかったのだろうか。私の全てを懸けて求める程の輝きを有していたのだろうか。

小さく頭を振って、そんな疑心暗鬼を追い払った。
そんなことを考え続け、もし否定の答えを出してしまえば、私は生きなければいけない。
今までの私を過去のものとみなし、そんな「失敗」を踏み越えて一から歩き出さなければいけないのだ。
今にも死んでしまいそうなみっともない身体と、私に纏わりついた侮蔑と嘲笑の言葉を引きずって。
……もう、私にそんな力は残っていない。私は疲れすぎていた。

「お手伝いをしましょうか」

だから、名前も知らない彼のこんな言葉に縋ってしまったのかもしれない。
彼の指が私の窪んだ頬に触れる。ひんやりと冷たいそれが心地よくて思わず目を細めた。

「君が生きる、お手伝いをしましょう」

「……私は、」

「死に場所を探しているのでしょう?ええ、ですからそのお手伝いです。君が死んでしまうまでの間で構いません。ですから侑香さん、」

優しく微笑んだ、その細められた闇色の目に吸い込まれそうになる。
私は本当に久し振りに、身体に纏わりついた死の気配を忘れる一瞬を迎えることができたのだ。

「一緒に生きましょう」

時が止まった。その永遠とも取れる一瞬の沈黙を、私の張り詰めた頼りないソプラノが破ろうとしていた。
私はこの人の名前も覚えられないのに。私は貴方が寄り添うのに相応しい人間などでは決してないのに。
何より、この人が私の望んだ「たった一人」でない以上、そんな言葉に喜びや安堵を見出す方がどうかしている筈なのに、私はそれを拒まなければならない筈だったのに。

「はい」

どうして私は、その手を取ってしまったのだろう。

彼は私の背中に腕を回し、そっと抱き寄せた。顔を埋めた白衣からは陽だまりの匂いがした。
あやすように抱き締められて私は息を飲む。けれど抵抗する力も理由もなかった。私はふわりと自分の身体をその腕に沈めた。
目蓋の裏が熱くなった。涙なんてものが零れる筈がないと知っていたけれど、それでも心は泣きたがっているのだと解っていた。

そして私の心を読む力を持った不思議な彼は、その手を私の頬にそっと述べる。
彼が差し出したその手を私は宝物のように両手で包んだ。触れたところから人の温度が私の身体に流れ込んできているような気さえした。

名前を、聞かなければいけないと思った。私はこの人の名前だけは何に替えても覚えなければならないと思ったのだ。

その日、私は初めて「誰か」を忘れた。

(ただ少し、生きることが怖かっただけなんだ。)
2012.6.5
(修正 2015.6.24)

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