※この短編は新テニスの王子様10.5巻発売前に書いた作品を加筆修正したものであり、斎藤コーチを「独身」としてしまっています。
10.5巻にて彼は既婚者であることが判明しているため、公式の設定とは異なります。ご注意ください。
「貴方はとても雄弁ですね」
彼が私にそう言った。壁一面に設置されたモニターが、コートで練習に打ち込む高校生や中学生の姿を映していた。
それを監視する役割を担っている筈の彼は、しかしそのモニターの方を見ることなく、くるりと向きを変えて私に微笑み、手招きをする。
私は薄暗い空間に歩みを進めながら、彼が紡いだ先程の言葉を脳内で反芻していた。
風前の灯火のような鼓動が少しだけ、本当に少しだけ高鳴るのを感じたけれど、気のせいだったのかもしれない。
そもそも雄弁とは、力強く弁舌を振るう人間の言葉を称するもので、あまり人と話をすることを得意としない私を装飾する言葉では決してなかった筈だった。
それ故に、私が今まで身に付けたことない言葉が差し出されてしまったことに、私は驚き、当惑した。
「そんなことを言うのは、斎藤コーチくらいですよ」
「いいえ、貴方はとても雄弁ですよ。何も言葉だけが思いを伝える手段ではありませんから」
長身を折り曲げるようにして、彼は私の視線に目線を合わせようとする。
彼の鉛色の目が私を射るように見つめていた。この人はとても優しい目をしているのに、その優しさが私を深く射るのだ。
今だってそうだ。何をもって私を雄弁だとしたのか、本当は解っている。彼が私の、何を見てそう紡いだのかを私は知っている。
だからこそ、この人の傍はとても心地よい。彼は私に騙されてはくれない。
私がその、絶やさぬ笑顔の裏にどす黒いものを抱えていることを、彼は息をするように容易く見抜き、笑う。
この人の前では、私は自分を偽る必要がない。自分の汚い部分を、どうしようもなく我が儘で臆病で醜い部分を彼は見抜いている。
それはとても恐れていたことで、だからこそ私は笑顔を貫いてきた筈であったのに、その笑顔が意味を為さないこの状況というものに心地良さすら見出し始めていたのだ。
「針金細工の身体は、そんなに雄弁ですか?」
私が自ら、その単語を使って自身を表現したことに、彼は少しだけ驚いたようだ。
鉛色の目がぱちぱちと瞬きをして、しかしその後でふわりと陽だまりのように微笑み「ええ、とても」と歌うように返事をする。
慢性的な寝不足で、彼の目の下には深い隈が彫られていた。それは、机の上に置かれたマグカップから漂う、キリマンジャロの豆の香りのせいだと知っていた。
コーヒーを浴びるように飲んでいる彼に、どうやら安眠は訪れないらしい。大の大人のそんな少しだけ歪なところを覗き見て、少しだけおかしくなって、同調するように微笑んだ。
この人は、完璧ではない。だから私は彼の隣でこうして息ができる。
完璧な人間など居ないと理解しているけれど。何人も、誰かを軽侮し、侮辱する権利などないのだと解っているけれど。
それでもそうした陰口を叩くことを享楽としている人間の方が多いことも、嫌という程によく知っているのだけれど。
この人は、私を侮辱しない。今の私にはただそれだけで十分だった。
「針金細工」と誰かが称したその言葉は、私を称する単語として私の周りに渦を描くようにしてまとわりついていた。
それは、ただそこに立っているだけで役に立たない、でくの棒と同じような意味を持つのだと私は信じていた。役に立たない私を揶揄したものであると解釈していた。
あまりにも貧相に痩せ細ったこの身体を指していることに、私は気付かない振りをしていたのだ。
けれど、彼等の揶揄と侮蔑に満ちた鋭くどす黒い言葉を直視することはできなくとも、今、この人の言葉の裏を覗き込むことならできる。
この人を直視することは、恐ろしいことではなかった。
「長袖のジャージなどでは隠しきれない程に、君は自己を主張し過ぎている。君の姿は、その声よりもずっとお喋りです」
彼は私の頭をそっと撫でた。先程まで、熱いコーヒーの入ったマグカップを握っていた彼の手はほんのりと温かく、心地良さに思わず私は目を細めた。
鉛色の、底の見えない鋭い目をしてはいるけれど、その声音はとても優しい。彼は本当に優しく、心地良く私を糾弾する。だから私も、その言葉に甘んじることができた。
「君の意思とは無関係に、身体は雄弁に死を欲しています。君の身体は、死にたがっているんですよ」
「……はい、解っています」
そんなこと、他でもない私が誰よりもずっと、知っているんです。
言外にそう集約して私は頷いた。彼は私の頭を撫でる手をぴたりと止め、困ったように微笑んでみせる。
この表情は彼の十八番だった。彼は怒らない、怒鳴らない、不機嫌そうな顔など一度も見せない。代わりに微笑むのだ。困ったように、泣きそうに、彼は笑う。
陽だまりのような彼の笑顔こそ、私の姿よりもずっと雄弁だった。
彼が何を言いたいのか、私はよく解っている。もう何か月も前に進めていない私に、彼が呆れていることも、痺れを切らしかけていることも知っている。
けれど、どうしても動けなかった。私の身体は針金細工以外の何者にもなり得なくて、この存在は誰かの為に行使されることなど、誰かの役に立つことなどただの一度もないのだ。
それならば死んでしまえばいい。私の身体もそれを望んでいる。私が望むと望まざるとに限らず、このままでは間違いなく死に至る。解っている。解っていた。
滲む悔しさと柔らかな諦念を、私は何度、心の中で飲み込んできたのだろう。
私はもう、疲れていた。もういいんじゃないかなとさえ思えた。
私の身体が私の心よりも雄弁なら、他でもない身体が死を渇望しているというのなら、心もそれに従うしかないのではないか。私は最初から、こうするしかなかったのではないか。
袋小路に追い込まれた思考の足は動くことを止めてしまっていた。諦めることは簡単にできる筈だった。そうしてしまえばきっと、楽になれるのだ。
そんな風にさえ思えてきて、いつものように諦めを噛み締めて私は笑おうとした。
「本当は死ぬ勇気なんてないのにねえ」
けれど、この鋭い目で何もかもを見抜く彼は、そうすることを認めない。
死のうとする私の身体を、許さない。
「君は死にたいから、そんな姿をしている訳では決してないのにねえ。
その姿でしか生きられないからそうしているだけなのに、君は最初から、死にたいなんて思ったことなんかただの一度もなかったのに」
恐ろしい言葉達を紡いで彼は笑う。陽だまりのような優しさが私の心を抉る。
細く長い指が私のこけた頬に這わされた。動くことを止めてしまいそうな心臓が、僅かに大きな音を立てて揺れていた。
私は息を止め、彼のその目に訴える。
貴方は、私の身体に騙されていてくれないんですね。
私の身体が死にたがっていて、それは他でもない私が望んだことなのだと、貴方は他の皆のようにそう解釈してはくれないんですね。
私が一度も「死にたい」と口にせずとも、この針金細工のような身体がそれを代弁しているのだと、貴方は理解していながら、けれどそれが真実ではないことすらも解っているんですね。
貴方は、私がこんな形でしか生きられないことを知っているんですね。
「君は最初から、何も間違っていなかったのにねえ」
鉛色の目が私の心臓を震わせる。
涙など出ない。出る筈がない。私の身体はとっくにそうした機能を止めている筈だったからだ。
心臓の拍動すら、消えてしまいそうな程に小さくしか続けることのできない私の身体に、涙などという余計なものを生産する力など残っていなかった。
だから私は泣かない。私は、泣けない。
「そこまで知っているのに、どうして、」
どうして貴方は、私を軽蔑しないのですか。こんな姿でしか生きられない滑稽な私をどうして嗤わないのですか。どうしようもなく愚かな私を見限らないのは何故ですか。
それらの問い掛けは言葉にならなかった。何故なら彼がその大きな手で私を引き寄せ、抱き締めたからだ。
彼の白衣に口を塞がれ、私は音を紡げなくなった。けれど、紡ぐ必要などなかったのだ。
だって彼は息をするように私の全てを見抜くから。私の雄弁なこの姿の、更に奥を見てくれるから。
「さあ、何故だと思いますか?」
「!」
「君にも、ボクを見抜くことができる筈ですよ」
コーヒーの豆の香りがふわりと鼻を掠めた。突き刺すような、彼らしくない香りだ。
彼は私を買いかぶり過ぎている。私に彼を見抜くことなど、できる筈がない。
けれど、彼がキリマンジャロを好んで飲むことくらいは、私だって知っているのだ。彼が私に為す理解は、そうしたことの延長に在るのではないかと少しだけ思えたのだ。
2015.6.22
(君を読む物語)