呪い

彼女の膝が、赤くなっていた。
ジャージ越しでも染み出しているその色を、しかし彼女はまるで気付いていないかのように、庇うことも痛がることもせず、いつものように入江に挨拶をしたのだ。

「この合宿所、山間部にあるから特に寒いのよね。……ああ、入江さんたちは動き回っているからあまり気にならないのかな」

「そんなことを言っている場合じゃないだろう、香菜ちゃん」

見せて、と彼女の足元に屈み、ジャージをたくし上げれば、膝に大きな擦り傷が出来ていた。
何をどう転べばこのような傷になるのだろう。この合宿所の道やコートは全て舗装されていて、このような傷を付けるところはおろか、躓く場所すらない筈なのに。
血が彼女のふくらはぎを伝い、グレーの靴下に染みを作った。それを見た彼女は楽しそうに笑いながら入江を責める。

「ああ、こうなるからたくし上げなかったのに。入江さんのせいでお気に入りの靴下に血が付いちゃったじゃない」

どうしてくれるの、とおどけたように紡ぐ彼女の手を強く引く。
練習、サボってもいいの?と尋ねる彼女の声に聞こえない振りをして、入江は医務室への道のりを歩いた。

「ただちょっと転んだだけなのに、大袈裟ね」

「消毒をしないままずっと放置しておくのは感心しないな。女の子なんだから、こういうことにはもっと気を付けないと」

「あはは、入江さんはいつからあたしの親になったの?」

勝手に消毒液と包帯を取り出して、消毒の準備をした。
入江の手際の良さに彼女は驚いたようにその目を丸くしていたけれど、彼の実家が医者であると聞いて納得したように苦笑した。

彼女を椅子に座らせ、消毒液を染み込ませたガーゼをピンセットで摘まみ、傷口に当てようとして、そして違和感を抱いた。
それは「たった今転んだばかりの傷」にしては、あまりにも大きすぎる違和感だった。
血を溢れさせている傷口のすぐ傍の皮膚に、かさぶたがある。まだ血が止まってすらいないのに、そのすぐ隣では止血が完了しようとしているのだ。
入江は確信して、そっと口を開いた。

「この傷、自分で付けたの?」

すると彼女は驚いたように目を見開き、声をあげて笑い出した。
どうしてあたしがそんなことしなきゃいけないのよ、と呆れたように笑う彼女の声音はしかし、笑っていない。

「最初は小さな傷だったの。ほら、かさぶたって引っ掻いたり破いたりしたくなるじゃない?」

「……それは自傷行為と同じだよ」

「そう?よくあるんじゃないかしら。苛立った自分を落ち着かせるために皮膚をつねったり、眠気を覚ますためにシャーペンを手の甲に突き刺したり」

その言葉に思わず入江は彼女の手の甲に視線を落とした。
確かに、シャーペンの先で突き刺したような、不自然な跡が幾つも出来ている。
シャーペンの芯の黒が残っているものもあれば、深く突き刺し過ぎて出血し、かさぶたになっているものもあった。
才色兼備で誰もが羨む何もかもを持っているように見える彼女の、思わぬ悪癖に入江は驚き、呆れた。
彼女はというと、自分の日常と化した行動が驚かれていることが意外だったらしく、気丈に微笑みながら「いつものことよ」と念を押すように付け足した。

「たいしたことじゃないわ、気にしなくていい」

「……そうかな」

「そうよ」

屹然と断言して彼女は笑う。その表情に入江は肌寒くなるような漠然とした恐怖を覚えた。
自らに傷を付けることを、彼女は寧ろ好んで行う。痛みなど感じていないかのように、笑顔のままに血を流す。
そしてその目は、声音は、笑っていない。
あまりにも完璧すぎる彼女は、しかし、完璧ではなかったのだと、そんな人間など居る筈がないのだと、入江はたった今、気付いたのだ。
そしてそれでも尚、屹然と言葉を紡ぐ彼女から目が離せなくなったのだ。

「それじゃあ、香菜ちゃんがそんなことをしないようにするためのおまじないを掛けよう」

素っ頓狂な声をあげた彼女に微笑んで、入江は机のペン立てから油性マジックを引き抜いた。
正方形の大きな絆創膏、その白い部分に「入江」と書いた。そしてその、自らの名前が刻まれた絆創膏を剥がし、消毒を終えた彼女の膝に貼り付けた。
彼女はそれを見て、その端正な眉をきゅっとひそめる。

「何これ、まるであたしがあんたの所有物みたいじゃない」

「そうだよ、今から君はボクのものだ」

「嫌よ。入江さんがあたしのものになってくれるっていうのなら、考えてあげなくもないけどね」

そんなこと、あんたのプライドが許さないでしょう?
彼女は至極楽しそうにクスクスと笑った。この、入江よりも3つ年下の少女は、そうした話術に長けているのだ。
煙に巻く側である筈の入江すらも、息をするように煙に巻く。雄弁な言葉を気丈なアルトの声音に乗せて、その美しい目と共に彼を射る。
入江はこの年下の少女に、そうした話術の実力差を見せつけられてきたのだ。
彼の演技はコートの上でこそ完成するのであって、こうした日常の雄弁さにおいては彼女の方が勝っていると認めざるを得なかったのだ。
けれど入江とて、二番手に甘んじる程、温厚な性格をしている訳では決してない。この小さな少女に勝ち逃げされたまま、終わる訳にはいかなかった。

「君は嘘吐きだね。そんなしおらしいことを言うボクを、君が認める筈がないのに」

「……」

「君が好きなのは、いつだって君を見ていて、どうやって君をボクのものにしてやろうかと考えているボクなんだろう?
君を手に入れようとしていて、君に挑もうとしているボクだからこそ、君はこうして逃げることなく向き合っている。違うかい?」

その証拠に、君はその絆創膏を外せない筈だ。
君は、その口程にはボクのことを嫌ってはいないんだろう。
入江はそうだと確信していた。根拠などなかった。勘とも呼べそうなそれは、しかし彼女の沈黙により真実と化すのだ。

「……二つ、間違っているわ」

暫くして、彼女はその、女の子らしい小さな指を二本だけ立てて微笑む。いつもの、気丈で自信たっぷりな彼女らしい笑顔だった。
それが彼女の本来の姿ではないのかもしれないと、入江は彼女の膝に貼られた絆創膏や、彼女の手の甲に見えるシャーペンの跡を見て思う。
この気丈な笑みの奥には、まだ入江の知らない彼女が隠れているのではないかと、そう思わせるに十分な衝撃を、その膝と手の甲の傷は孕んでいたのだ。
けれど、この笑みが彼女の本来の姿ではなかったとして、今はそれで構わなかったのだ。
だってその装甲があまりにも美しく纏われていたから。息をするように入江を煙に巻く、その姿だって、彼女の一部には違いないのだから。

「あたしはあんたのことを認めてなんかいない」

「酷いなあ」

「それに、あんたがどうであろうと、あたしは逃げも隠れもしない。あんたのことが気に入らなければ、逃げずに正面から打ち負かすわ」

あたしは逃げも隠れもしない。その部分を強調するように、僅かにテンポを落として彼女は紡いだ。
彼女はかつて、誰かから逃げたことがあるのだろうか。入江はそう思ったが、それを確認する術がないことに気付き、その強調の意味を考えることを諦めた。
手当て、してくれてありがとう。そう言って立ち上がろうとした彼女に、入江は最後の質問をする。

「ボクのことが好きなの?」

入江の言葉のうち、二つを間違っているとした彼女だが、「あたしはあんたのことなんか好きじゃない」とは言わなかった。
つまりはそういうことなのだろうかと、確認のために紡いだ質問に、彼女は楽しそうに肩を竦めて笑った。
膝上までたくし上げたジャージを元に戻す前に、彼女は「入江」と書かれた絆創膏を指差す。

「……あたしが好きな人に好きだと言えるような人間だったなら、此処にあんたの名前はなかったでしょうね」

そうした煙に巻くような物言いをして、彼女はするりと入江の手からすり抜けてしまうのだ。
手強い相手だと入江は困ったように肩を竦めて溜め息を吐いた。入江はまだこの少女を理解することができない。

2015.6.25
(まじない)

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