16

クリスさんを「招いた」このポケモンの名前はスイクンというのだと、彼女は目を細めて楽しそうに教えてくれた。
力持ちだから、二人くらいなら一緒に乗っても大丈夫だ、という彼女の言葉を信じ、私も彼女に続いてスイクンの背中に跨った。

クリスさんはいつ、スイクンに招かれたの?」

北風を思わせる厳しい風圧を頬に受けつつ、その風の音に掻き消されないような大きな声でそう尋ねた。
彼女は「そうだね……」と呟き、あまりにも長い沈黙を置いてから、

「私達は、ホグワーツに来るずっと前から、互いのことを探していたような気がするの」

と、一介のポケモントレーナーに過ぎない私には、到底理解の及ばないような詩歌を綴って、笑った。

「スイクンが私のポケモンになってくれたのは私が2年の時だよ。でももっとずっと前から、私はこの子のことを知っていた気がしたんだ。
だってね、この子に出会えたとき、本当にこう思ったんだよ。「やっと会えた」って、「ずっと会いたかった」って!」

私は身を大きく斜めに向けて、クリスさんの横顔を覗き見ようと努めた。
肩程に切り揃えられた青い髪は、生まれつきなのかそれともパーマなのかは分からないけれど、ふわふわと柔らかいウエーブのように波打っていて、
スイクンの背中で強い風圧に押されていると、それは本当に、湖に打ち立つ波紋のようにも見えた。
そしてスイクンの美しいたてがみもまた、彼女の青と完全に同化するような調子で、あまりにも完璧に揺蕩っていたのだった。

彼女の青には、可変性がある。私は時折、そう思うことがある。

朝の図書館で彼女が本を読んでいるとき、その少しだけ離れたところには必ずアポロ先生の姿があった。
淡い青色の髪をした二人が静かに並んでいる様は、まるで「空」のようであり、恋仲でもある彼等をランス先生はよく「空夫婦」と呼んでからかった。

けれども彼女がひとたび外に出て、メガニウムと一緒に芝生の上を競うように走れば、その青い髪はまるで「風」の流れを示すようにやさしく動くのだ。
彼女が先を走り、風を吹かせることで、メガニウムの花がふわふわと香り立っているかのような、そうした完璧な関係を彼等は創り上げていた。

そして今、スイクンに乗って心地よさそうに目を細め、この子のことをずっと探していたのだと、運命的な言葉でそのポケモンのことを言い表す彼女は、
正にスイクンの「水」と完全に同化したかのような様子で、どこまでも深く、自由に、完璧に、駆けていくのではとさえ思われてしまったのだった。

クリスさんは青だけど、でも何にでもなれるのね。空にも、風にも、水にだって、簡単に、息をするように」

私がそう告げると、彼女は驚いたように目を丸くして振り返った。
青い髪をした彼女の目もまた、透き通る空色を、風色を、水色をしていて、ああこんなところまで完璧なのだと、私は思わず息を飲む。

「ふふ、ありがとう!空も風も水も大好きだから、とっても嬉しい。……でもね、私には一つだけ、なれない青があるのよ」

「……もしかして、1日10食限定で提供されている、あのカレーライスの青?」

「あら、トウコちゃんもあれを食べたことがあるの?正直、あれはあまり美味しくなかったよね」

クスクスと笑いながら、彼女は視線を前に戻し、ぽつりと悔しがるように、諦めるように、焦がれるように、喜ぶように、呟いた。

「私は、海にはなれないの。でもそれってとても、ものすごく素敵なことなんだよ」

店が地上にも地下にも建ち並んでいるダイアゴン横丁を、私はまだ十分に散策していなかった。
これだけ入り組んだ街で、しかも楽しそうな店が至る所にある。正直、何処から入っていいのかまるで解らないのだ。
けれども私の倍、つまり6年以上この魔法界を知っているクリスさんには、この横丁のマップがしっかりと頭に入っているらしく、
人の波に押し流されようとしている私の手をぐいと引き、笑いながら「こっちだよ」と誘導してくれた。

ドーナツ屋さんは、メインストリートから随分と逸れたところにあった。
細い通りに、人の姿はあまり見られなかった。けれども店自体はそれなりに混雑していて、10分ほど待ってようやく席に着くことができた。
クリスさんは迷うことなく、何の変哲もないプレーンドーナツを3つ注文した。私は少しだけ迷ってから、シンプルなチョコドーナツを3つ頼んだ。

メガニウムもスイクンも、慣れた様子でドーナツを食べていた。
さてゼクロムはどうやって食べるのだろうと、前にドーナツを置いて「どうぞ」と促し、観察してみようとした。
けれども見られていることに気が付いたのか、ゼクロムはとても不服そうに、その赤い目を鋭く私に向けるので、

「あら、作法を知らないの?ドーナツは真ん中の穴から先に食べるのよ」

などと大袈裟な調子でうそぶけば、それが笑いのツボに入ったらしく、隣でクリスさんがお腹を抱えて笑い始めた。
ゼクロムをからかうための言葉であり、クリスさんを笑わせるための発言ではなかったため、私は少しばかり驚いてしまった。
でもこの不思議な女性が、空にも風にも水にもなれるのに海にだけはなれないのだというこの先輩が、随分と楽しそうにしていたから、
私はまあいいか、と思い直して、自らのチョコドーナツを持ち上げて、ゼクロムの赤い目をじっと見つめながら、端からそっと食べた。
「真ん中の穴から食べるのではなかったのか」と、険しさを増した赤い目が抗議しているような気がして、私もおかしくなって、声を上げて笑った。

クリスさんもまた笑いながら、そんな私とゼクロムの様子を眺めていたけれど、
やがて私と同じように、真ん中の穴を無視してドーナツの端にそっとかぶりつき、ゆっくりと咀嚼して飲み込んでから、

「よかった、トウコちゃんの笑顔は素敵なまま、変わっていないね」

と、不思議なことを告げて、ひどく安心したようにその青を細めるのだった。

「……そんなことない。私は変わったわ。変えられてしまった。変わりたくなんてなかったけれど、周りがそれを許さなかった」

目を閉じれば、ホグワーツでの視線が生々しく思い起こされた。耳を澄ませば、彼等の噂話が聞こえてくる気がした。
「英雄」「孤高の英雄」「態度の悪い英雄」「先生にも敬語を使わない」「足を組んで授業を受けるなんて」
二口目を食べようとした手が、不自然なところで硬直した。嫌だ、と思った。食べたくない、と思ってしまった。
だってこれを食べ終えたらホグワーツへ戻らなければならない。この時間を終えれば私はまた、あの視線と声の中へ飛び込まなければならない。

クリスさんだって、変えられたでしょう。スイクンに招かれる前と後では、周りから向けられる目がまるで違ったでしょう。
……怖くならなかった?恨みとか、怒りとか、そういうものを回りにぶつけたくなったりしなかった?悔しくなかった?」

「え?……ふふ、そっか。もしかしたらトウコちゃんは、憤る相手を間違えているのかもしれないね」

すると彼女は意外なことに、私の欲しかった言葉とは真逆のことを紡いだ。
少しだけ悲しそうに微笑んでから、ドーナツを先程よりもやや小さくかじったのだ。

「ゼクロムを必要以上に畏れて、トウコちゃんに大層な冠を勝手に被せる。きっとそうした人はこの先、貴方の周りに大勢現れるよ。
残念だけど、トウコちゃんにはそんな周りの声を封じるだけの力はない。トウコちゃんはそこまで、全能じゃない」

「……そんなの、当たり前よ。私がこのホグワーツで完璧に振る舞えたことなんて、一度もなかったんだから」

「そんなに自分を責めないで。完璧で在れないのはトウコちゃんに限ったことじゃないんだよ。
Nくん、私、ウツギ先生、誰にもそんなことできない。誰にだって、変えられないものはあるんだよ」

ぱく、ぱく、と、クリスさんはそんな、やや厳しめの詩歌の合間に、ドーナツを少しずつ食べていく。
既に食べ終えたメガニウムに水を渡しつつ「美味しかった?」と尋ねながら、
空になったお皿と、クリスさんの手元にあるドーナツを交互に見比べるスイクンに「駄目だよ、これは私のもの」と窘めながら、
そうした日常のほんの一コマの中に、彼女は約束された次の呼吸を行うような自然さで、私にとっての運命的な言葉を、紡ぐ。

 
「貴方は周りを変えることなんてできない。だから貴方も、周りに変えられちゃいけない」
 

ぽとん、とささやかな音を立てて、私のチョコドーナツがお皿の上に落ちた。
完全に力の抜けた手をテーブルにだらりと投げ出して、けれどもその指先ひとつ動かすことさえできずに、私は固まってしまった。
視線さえも動かすことができずに、私は優しく微笑むクリスさんの青を見つめ続けた。
この彼女、ドーナツを食べているときのクリスさんは、果たして空だろうか、風だろうか、水だろうか、それとももっと別の、海以外の何かだろうか。

トウコちゃんは、あることないこと好き勝手に囁く皆を、恨んだり憎んだりする必要なんて全然ない。
勉強して、本を読んで、大好きな人や大好きなポケモン達と楽しく遊んで、たまにかっこよく足蹴りを決めたりもして、
……そうやって貴方らしく生きている素敵なトウコちゃんを、周りの声や視線にみすみす譲り渡すようなこと、しちゃいけない」

「……」

「皆に変えられようとしている貴方のことを、貴方は絶対に許しちゃいけないんだよ」

空のように、風のように、水のように、海以外の何もかもであるように。
そんな彼女のメゾソプラノによって、この瞬間、私の中枢に差し入れられた大きな軸は、その後何十年もの間、私を支え続けてくれた。
……勿論、この詩歌を紡いだ張本人は、そのようなこと全く知らないだろうけれど。
彼女が覚えていることがあるとすれば、それは「トウコちゃんと食べたドーナツはとっても美味しかった」という、それだけのことだったのだろうけれど。

2017.12.28

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