深緑の海に、花

※片翼を殺いだ手、前編5話あたりの時間軸を想定しています

樹海はただ静かに凪いでおり、そこに佇む男もまた悉く静かであった。
彼の瞬き、彼の視線、彼の呼吸、彼の足音、全てが彼を「消す」ように動いており、そこに自らが「いる」ことを知らしめる意図など欠片も存在しなかった。
影は知られないようにするべきであり、隠されるべきである。彼はそのことをとてもよく心得ていた。度を越した謙虚と諦念は、彼を益々閉鎖的に、義務的にさせた。

さく、さく。

『ゲーチスさん!虹!虹が出ていますよ!』
つい先程、ドアを蹴破るかのような勢いでやって来た少女の言葉を思い出す。
虹というものの存在は彼とて知っていたが、それをあのような笑顔で、歓喜を露わにしつつ告げる少女の心地というのは、どうにも理解し難いものがあった。
雨上がりの湿った空に現れる、眩しい色のアーチが彼はどうにも苦手であった。少し、煩い気がしてしまうのだ。空とはもっと静かで、ささやかであるべきだと彼は思っていたのだ。

彼は静かな空を好んでおり、その静寂を割く橋を少しばかり嫌ってさえいた。
故にこの樹海は彼を安心させていた。生い茂る深緑は彼の頭上を覆い隠し、先程の虹を見事に遮っていたのだ。
緑の隙間から見える青空はただ静かに凪いでおり、その安堵を噛み締めるように彼は息を小さく吸い込む。
ふっと吐き出せば、それは白く染まった。冷たい冬の季節であった。この静かな時に虹は似合わない。それでいい。

さく、さく。

男はポケットに手を差し入れる。中からは3枚のフエンせんべいが出てくる。15枚入りの箱の中身は、3人の影とその主、そして少女の5人へと均等に分けられたばかりであった。
普通「土産」というものは相手に差し出すものであって、その中身をほんの一部とはいえ、差し出す側が食べていいものではなかった筈だ。
けれども一人の影は少女の言葉に首を捻りながらもそれを許し、もう一人は少女の言葉を面白そうに聞いていた。
そしてこの影は、少女の言葉を訝しみながらも、その実、3枚のフエンせんべいが思いもよらず手に入ったことを少しばかり喜んでいたのだ。

別にフエンせんべいというものが殊更好きな訳ではない。一人で一気に3枚食べてしまうような真似をする程、彼は飢えている訳ではない。
彼が食べることになるのは1枚だけだ。その味を共有することの叶う相手を、今もこうして待っているところなのだ。

「ふふ、見つけた!」

木の影から柔らかいアルトボイスが飛んでくる。現れた女性はこの色のない樹海にささやかな花を咲かせ、ささやかな華を落とす。
弾むようなその声音は少女のようでもあり、彼を見つめるその視線は聖母のようでもある。
……先程から聞こえていた足音で、男はその音の主が「彼女」であることを確信していた筈なのだが、いよいよその姿をこの目に収めてしまうと、やはり心臓が跳ねるのだ。
その瞬間に込み上げてくる「何か」は、もうどうしようもない大きさにまで膨れ上がっていたのだ。仕方のないことであった。

想いの強さを自在にコントロールできる程に、人というものは器用な存在ではない。
人は誰かを想うことも、会いたいと思うことも、大事にしたいと願うことも、……忘れることさえ、恣意的に行えるものではない。
人は誰かを想ってしまうものなのだ、会いたいと思ってしまうものなのだ、大事にしたいと願ってしまうものであり、忘れたいと思えば思う程に、ずっと、覚えてしまうものなのだ。

「あら、美味しそう。頂き物かしら?」

「客人が来ている。そいつからの土産だ」

よく見せて、と告げて、彼女は更に男の方へと歩を進める。花の色をした長い髪が、足を踏み出す度にふわふわと揺れる。
花についぞ興味のなかった彼は、世の花は全て彼女の髪の色をしているのだと本気で思っているようなところがあった。
もう何年も前に、「ダーク、それは違います。地上には赤い花も白い花も黄色い花も、青や緑の花だってあるんですよ」と、彼女が笑いながら訂正したことがあったのだが、
それでも彼は、どうしても、その女性の髪の色を「花の色」と形容してしまいたくなるのだった。

彼にとって花の色は彼女であり、すなわち彼女こそが花であった。
あまりにも美しい存在は、陽の光をたっぷりと吸い込める温かい場所に微笑んで然るべきその存在は、けれども自ら影のある場所へとやって来る。

「フエンせんべいというのね。何処か遠い町の食べ物かしら」

「……3枚ある」

「あら、それは貴方達3人の分ではなくて?」

彼女は足音を隠す術を知らない。彼女は呼吸を隠さない。彼女は瞬きを惜しまない。彼女は彼を見つめることを躊躇わない。
まったく賑やかなことだ、と思いながら男は苦笑した。頬がぴり、と痛む感覚を覚えた。
笑ったのは随分と久し振りのことであるような気がした。それはすなわち、前に彼女と会えてからかなりの時間が経過していることを示していた。
自らの笑顔がぎこちない様相を呈していることは解っていた。それでも彼は笑えていた。
この不格好な笑顔は彼のささやかな謀反であり、この時間もまた、彼の仕える者への裏切りであるのかもしれなかった。

「箱には15枚入っていた。俺達とゲーチス様、そしてそいつで3枚ずつ分けた」

「まあ、……ふふ、そのお客様は随分と食いしんぼうなのね。お土産に自ら手を付けてしまうなんて」

クスクスと華奢な肩を震わせつつ、ありがとうと告げてその1枚を受け取る。男はもう1枚を、自らの足元にいるポケモンにそっと落とした。
先程からフエンせんべいを物欲しそうに見上げていたこのポケモンは、ケタケタと人を子馬鹿にするような笑い声を上げながら、せんべいを両手で受け取りぴょんぴょんと跳ねる。
その笑い声に悪意のないことを知っている女性は、微笑みながら「あらジュペッタ、貴方も食べるのは初めて?」と尋ねている。男は顔色一つ変えない。そういうものである。

「それじゃあ、いただきます」

「……いただきます」

呼吸に等しい自然さで彼女は食事前の挨拶を口にする。男は躊躇いの沈黙を少しばかり落としつつも、彼女と同じ言葉を義務的に反芻してみる。
これは感謝の言葉であるようだが、その言葉を聞くべきこのせんべいの贈り主は此処にはおらず、故にそうした言葉を紡ぐ意味など、何処にもないように思われた。
けれども彼女は紡いでいる。食べることを誓うように、同じ味を共有することを喜ぶように告げている。その真似をすれば、影もいくらか人らしくなったような気がした。
「いただきます」の意味など、今はその程度で十分だった。

顔の大半を覆い隠す黒いマスクをそっと外し、軽く息を吐いてから、袋に手を掛けた。
女性が袋に指をかけたのを見計らって、男も同じように開封した。ジュペッタは既にその小さな手で、器用に中身を取り出していた。
袋の破れる音、そしてせんべいに歯を立てたときの音、それを消し去るのは流石の男にも不可能であった。間の抜けたその音を喜ぶように彼女は笑った。
その共鳴に気を取られ過ぎて、せんべい自体をしっかりと味わうことを忘れていたらしく、困ったように笑いながらもう一口、くわえた。

「せんべいってとても硬いのね。ずっと食べていると顎が痛くなってしまいそう。でも、お醤油のいい香りがして、とても素敵」

オショウユ、とは何なのだろう。この何かを焼いたような香ばしいものは、そのオショウユというものから漂っているのだろうか。
男には彼女の言っていることがよく解らなかった。解らないものに対して、尋ねようとすることさえしなかった。
そのオショウユとやらがこの女性を微笑ませるに至っているのだと、解っていても彼はその中身を知ろうと思わない。知りたいと思えない。

そもそも、知ったところで何になるというのだろう?
オショウユを知ることで明日の天気が晴れる筈もない。彼女の好きなものを理解したところで、自分はそのオショウユとやらを調達してくることなどできない。
知ったところで何も変わらない。変えられない。ならば心を乱す情報は少なければ少ない程にいい、嵐など来なければいい。

シアを、覚えているか」

「ええ、イッシュリーグの新しいチャンピオンでしょう?ゲーチス様とも戦った、12歳の、」

「あいつが今、来ている」

彼女は「あら」と声を漏らした。けれどもそれだけだった。その瞳には驚愕の色の一切がなかった。まるで明日の天気を聞いているかのような、至極ありふれた呼吸であったのだ。
驚かないんだな、と男は告げる。彼女は困ったように笑いながら、これでも驚いているつもりなのだけれど、と弁明する。

「けれど、貴方達がゲーチス様のところへ通すような相手がいるとすれば、それはきっとあの子を置いて他にいないのだろうとは思っていました」

「愛の女神」であった頃を思い出させるような、淡々とした慈悲深い口調で彼女は告げる。
その言葉に男は「とんでもない」と反論したくなって、声を荒げたくなって、……けれども彼女があまりにも静かに笑うので、その音を飲み込み、沈黙する他になかったのだ。
音にされることのない感情は、男の中でどす黒い渦を巻き始めていた。

俺はあいつを歓迎などしていない。寧ろ反対した。日ごとに違う土産を持って現れるあいつを、憎みさえしかけていた。
何の力もない、ただバトルが強いだけの子供に、あのお方の野望を打ち砕いた張本人であるあれに、一体、ゲーチス様の何を救えるというのだ。
そう思い、男はせんべいを握っていない方の拳を強く握り締めた。その気配を拾い上げたジュペッタがケタケタと笑う。そして彼女も、彼の強張った手に気が付いている。

「ダーク、貴方はあの子のことが怖い?それとも、憎い?」

「……」

「ふふ、でもどちらにせよ、このフエンせんべいは美味しいわ。きっとゲーチス様も、美味しいって思っていらっしゃる筈です。
あの子が此処にやって来ることの意味だって、きっとそういうところにあるのではないかしら」

この女性の言っていることは、たまによく解らない。
けれども解らないなりに、男もこのフエンせんべいのことを美味しいと思っていたから、「そうかもしれない」と告げつつ、再び派手な音を立ててせんべいを割った。


2017.6.21
→ 「群青の空に、霞」

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