1 tuning

低い背が恨めしかった。私に微笑みかけて頭に手を乗せる人間が嫌いだった。
その所作が低い背丈のせいではなく、私が子供であるせいだと理解して、益々そんな生温い世界で生きることが嫌になった。


まだ冬の寒さを残す春の初日、今日は土砂降りだった。少女は足早に家路を目指していた。
温暖な気候であるのイッシュ地方で、夕立は酷く珍しい。まだ12歳だった彼女が、折り畳み傘を持ち歩くなんて殊勝なことをしている筈もない。

雨に濡れて重さを増し、腕や脚にべっとりと貼りついた服に眉をひそめ、誰も居ない道のど真ん中、水たまりを踏みつけて駆け出した。
母に頼まれた届け物は無事、相手方に渡してある。帰り道に突然降り出した雨は、果たしてタイミングが良いのか悪いのか、どちらだったのだろう。

ふと、遠くの雲が光る。ほんの一瞬そちらに気を取られ、間髪入れずに足も取られた。
顔が水たまりに突っ込むように転ぶ。続けざまに空が割れた。

「……」

私、何をやっているんだろう。
少女はふいに、起き上がることも忘れて、頭を撫でる大嫌いな手を思い出す。
その所作が悪いとは思わない。でも、少女はどうしてもそれが好きになれなかったのだ。

手だけではない。
意味を過剰に砕いて猫なで声で紡がれる言葉も、甘口に作られたカレーライスも、2頭身の可愛いキャラクターが随所に描かれた算数のドリルも、全部、全部嫌いだった。
いつからかしら。素直に甘えることが出来なくなったのは。与えられるものだけをそのまま受け取ることが嫌になったのは。
きっと、あの日からだと思った。一つ年上の男の子が、悔しさに嗚咽を零していたあの日から。妹のチョロネコが奪われたのだと、泣きながらそう伝えてくれたあの時から。

世界が甘くないことを少女は知っていた。生易しいもので誤魔化せる、そんな単純明快なものではないと理解していた。
そして、そんな大嫌いな世界で強く生きたいと願っていた。
遠く、イッシュの空で紡がれた神話のように。その神話のポケモンを従え、争い、答えを導き出した「彼女」のように。


一方、男はプレハブ小屋での研究に煮詰まっていた。

彼は、ポケモンの生態にとても興味を持っていた。
彼等はとても不思議な生き物だ。その身にとてつもない力を持っていながら、その全てを開放することなく穏やかに暮らしている。
その力は、何によって引き出されるのだろうか。彼はその答えをずっと探していた。

彼はまた、知り合いに頼まれ、とある組織と研究を任されていた。
しかしその知り合いとはどうにも気が合わない。組織にいることを窮屈に思った彼は、大きな計画を実行に移すまでの間、部下に組織を預けることにした。
任された研究の成果と出すために、この静かな町にプレハブ小屋を設置し、そこに缶詰めとなっている状態だった。
不便ではあったが、研究さえできれば男にとっては問題ではなかったし、何より嫌いな知り合いと顔を合わせずに済むということもあって、彼はここでの生活を気に入っていた。

そして今、彼は一つの仮説を立てていたのだ。
「ポケモンの力は科学によって引き出される」という、最も堅実的で、揺るぎない仮説だ。
その仮説を証明するための研究が、あの組織に属することでよりスムーズに進められると男は考えた。だからこそ、気に入らない人物の指示に従おうと思ったのだ。

しかし、彼はその研究に限界を感じていた。
科学力を駆使して、ポケモンが力を引き出すのに最適な環境を用意し、力を引き出させるような刺激をポケモンに与えても、彼等は思うような強さを発揮しなかった。
そうした研究を繰り返す中で、このポケモン達にとって何が不足しているのかを、男は悟り始めていた。
それは意志だった。ポケモン達が自らの力を引き出そうと思う意欲、それは、科学では引き出すことのできないものだった。

自分の仮説は間違っていたのか?男は悩んでいた。
知り合いから与えられた研究課題に手を付ける気が起きずに、分厚い雲に覆われた町をぼんやりと窓から見ていたのだ。
だからかもしれない。降り始めた大雨の中を駆ける一人の少女に目が留まったのは。彼女が水溜まりに足を取られて転ぶ瞬間に、思わず椅子から立ち上がってしまったのは。

男は、研究対象以外のことには全くと言っていい程に興味を持たない。そもそも、視野にすら入らないのだ。夢中になれる研究は、彼から他のことに目を向ける隙を完全に奪っていた。
その研究が煮詰まっていた。彼の夢中になる対象は潰え、彼はその失ってしまった対象に対する熱意を持て余していた。
だからかもしれない。普段の彼なら、傘を携えてプレハブ小屋を飛び出すなどということはしないのだ。
いつまでも起き上がろうとしない少女を案じて、傍に駆け寄ることなど、する筈がないのだ。


男はそっと、少女に手を伸ばした。
肩に何かが触れるのを感じた少女は、それをあの大嫌いな手に重ね、勢い良くそれを振り払い、顔を上げた。

「!」


男はその少女の目に海を見た。少女はその男の目に太陽を見た。
透き通る水の色ではなく、もっと深い水底を映した青色だった。夕暮れの眩しい赤色ではなく、朝の日差しを掬い上げたような金色だった。


男の掛けていた眼鏡の透き通ったレンズが、再び降りてきた空の光を映し、直後に鳴り響いた轟音の恐怖に支配された少女は、目の前にあった真白の布に縋りついた。

「……大丈夫ですよ」

同じく白い手袋が少女の肩をそっと抱く。子供扱いされているようなその手を、しかし少女はもう振り払えなかった。
いきなり飛び付かれて狼狽している筈の男は、しかしそれを表に出すことなく、穏やかな声音でそう囁いた。
瞬間、堰を切ったように腕の中で泣き出した少女に、彼はさてどうしたものか、と眼鏡のツルを押し上げた。

どうして泣いてしまったのだろう。少女は考える。
突如として分厚い雲に覆われ、豪雨に雷までやってきたこの状況を、子供ながらに恐れていたのかもしれない。
無事に家まで帰れるかしらと、不安に襲われていたのかもしれない。
誰かを頼りたいのに、甘えることができない、そんな自分にもどかしさを感じていたのかもしれない。
あるいは、その全てかもしれない。

『大丈夫ですよ。』
見知らぬその男の言葉は、そんな少女の心を軽くした。軽くしたと同時に、少女の張りつめられていた糸をも緩めてしまったらしい。
いずれにせよ、一人では自宅まで帰れる自信がないし、まだ冬の寒さが残る春の大雨で身体は冷え切っていた。このままだと間違いなく風邪を引いてしまう。
それなら、いいんじゃないかなと少女は思った。この状況を一人で乗り切る必要は、まだないような気がした。差し出された大人の手に、今だけは縋ってもいいのではないかと思ったのだ。

少女に飛びつかれた拍子に取り落とした傘はアスファルトに転がり、雨を防ぐ目的を完全に放棄している。
激しい風がそれを吹き上げ、灰色の空に飛ばしてしまったが、安物のビニール製の傘に伸ばす手は、残念ながら今の男には無かった。

「……ああ、すっかり濡れてしまいましたね」

解りきったことを呟いて、溜め息を吐いた。

「貴方の家は直ぐそこですか?」

男の腕に顔を埋めたまま、僅かに首を横に振った少女に、彼はまだそれ程濡れていなかった自分の白衣をその小さな頭に被せる。

「雨宿りをする時間は、ありますか?」

どのみちこの大雨と轟音では身動きが取れないだろう。
目と鼻の先にある「雨宿り先」を男は指差し、それを目で追った少女は、その場所と彼の金色をと交互に見比べ、小さく頷いた。

これが、二人の始まりだった。


2012.6.22
2014.11.9(修正)

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