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悔しくはなかった。
人生の価値を測る尺度は、トレーナーとしての自分だけではないと信じていた。
その判断を誤ったとは思っていない。現に自分は研究の才能には恵まれたらしく、それなりに実績も重ねてきた。
それで十分じゃないか。何を案じることがあるというんだ。
しかし、何処かで感じていたのだろう。 トレーナーとしての才能がない自分へのもどかしさに。無力な自分への歯痒さに。

自分より一回り以上若い子供達に、ポケモンとポケモン図鑑を渡しながら、彼は何処かで焼け付くような重いものを持て余していたらしい。

後悔などしていなかった。天は全ての人間に二物も三物も与えられる程暇ではないのだ。
自分には取り柄がある。誰にも負けないと自負できるものがある。それで十分だった。
シェリーの存在はそんな彼の心に安定を与えた。
トレーナーとしての才能に恵まれながら、極度に人との会話を怖がり、怯えながら生きる小さな少女を、支えてあげなければと思ったのだ。
自分にはその力があると信じていた。現に彼女は自分の前では笑顔を浮かべた。
研究者として、恵まれなかったトレーナーとして、一人の人間として、彼が少女に教えられることは山程あった。

しかし、彼女を支えることはできても、トレーナーとして未熟である自分は、彼女を庇い助けることはできないのだ。
今回の事件で、彼はそれを痛感していた。
それどころか、彼女を支える役割までもが不安と後悔で押し潰されようとしていたのだ。

仕方ないじゃないか。ボクに一体何が出来たというんだ。
トレーナーとしての力を持たない自分では、フラダリさんを止めることも、彼女の代わりに戦うことも出来なかったのだ。
彼女に一任するしかなかった。フラダリさんを止められるのは彼女しかいなかった。
その判断は誰もが正しいと言うだろう。そうするしかなかった。彼には力がなかったのだ。
しかし、それでも悔やまずにはいられないのだ。もしもを思い、歯痒さに拳を握り締めずにはいられないのだ。

自分が、もっと前に彼を止められたなら。もっと意見をぶつけ合い、更なる選択肢を彼に差し出せたなら。
しかしそんな力が自分にあっただろうか。
あのプライドの高い彼が、自分の意見に耳を傾けこそすれど、その意見を受け取ってくれただろうか。

あるいは、自分があの時、彼女の元にいられたなら。
カロスの大勢の人に呼び掛けて事態の収拾をはかるよりも、彼女の元へ駆け付けてあげるべきではなかったのか。
しかし行ったところで何が出来たというのだろう。
自分は彼女の代わりに戦うことも、彼を説得することも出来ないのだ。

そんな自分が、全てが終わってしまった今になって、彼女を支える資格を得ようとしている。
滑稽な話だ。虚しい話だ。それでも自分は寄り添うと誓ったのだ。

シェリーは泣き続けていた。
喚くことも涙を拭うこともしない。まるで自分の頬を涙が伝っていることに気付いていないかのようだった。
痛々しくて見ていられないが、自分が目を逸らす訳にはいかなかった。

研究所にある自室に彼女を通し、その冷たい手にマグカップを持たせた。中身はジーナが入れたカプチーノである。
少女を連れて戻って来た彼に、二人は労いの言葉に掛け、温かい飲み物を入れてその場を後にした。
何処にいたんだと問い詰めることも、どうして連絡をしないんだと叱ることもしなかった。
その配慮に感謝しながら、彼は自分のマグカップに口を付ける。温かいコーヒーは冷え切った喉を癒してくれた。
少女はマグカップを抱えたまま微動だにしない。その間にも涙は溢れて止まない。
彼は少女の前に屈み、その目元を拭って笑った。

シェリー、君が落ち着くまで、此処にいていいんだよ」

「……でも、」

「いいんだ、君がいたいだけいるといい。君には時間が必要なんだ。だからそれまで、ボクを傍にいさせて」

それは懇願だった。彼女を説得するには許可よりも懇願が有効だと彼は知っていた。
それに何より、彼はどうしても今の少女を一人にしたくなかったのだ。
この無意味な自己犠牲を重ねる少女を、そうすることで贖罪を果たそうとする少女を、彼は止めなければならなかった。
それは意味のないことだと諭さなければならなかった。君がすべきことではないと気付かせなければならなかった。
しかし、それを急くには彼も彼女も疲れ果てていた。必要なのは時間だった。

「でもその前に、お母さんと友達に挨拶をしようか。皆、君を心配していたんだよ」

しかし不自然に訪れた沈黙に彼は首を捻る。
何か良くないことを言ってしまっただろうか。しかしその疑問は次の一言で晴れる。

「友達……」

たった一言だが、それは今まで少女が紡いだどんな言葉よりも雄弁だった。少なくとも彼はそれを感じ取っていた。
少女は結局、彼等と打ち解けることはなかったらしい。
3人の仲間と1人のライバルは、少女の心にとってコミュニケーションの劣等感を抱く相手で、それ以上にはとうとうなり得なかったのだ。
良かれと思って紹介した彼等の存在までもが、少女の足枷となっていたことに彼は愕然とした。
少女になすこと全てが裏目に出ている気がした。自分が世界中の誰よりも無力な存在に感じられた。
それでも自分はこの少女を支えたい。

「……取り敢えず、お母さんのところには顔を出そう。ボクも付き合うから。
友達にはボクから連絡を入れておくから、君は何も心配しなくていいよ」

ゆっくりと紡いだその言葉を少女は噛み締めた後に、ごめんなさいと小さく零した。
それは自分の言葉だ、と胸が潰れそうな気持ちになりながら、彼は今にも大切なものを捨ててしまいそうなその虚ろな瞳に訴えた。

「ねえシェリー、君は生きていていいんだよ」


2013.10.27

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