5 (Miracle worker)

カーテンの隙間から差し込む日差しで目が覚めた。目を擦ろうとして、しかしそのための手が何者かに捕まれていることに気付き、強烈な違和感に眉をひそめた。
自分のものではない確かな温度に驚き、そしてここが自分の家ではなくレンリタウンにあるホテルの一室なのだとようやく理解し、
ともすれば暴力的にも思えそうな至福があっという間にパキラの胸を飲んだ。

先程の怪訝な表情をなかったことにするかのような微笑みで、パキラは完全に眠っている少女の頭をそっと撫でる。
昨日は一体、何時まで起きていたのだろう。私はこの子より先に眠ってしまったのかしら。

『今日はこれくらいにしましょう。早く寝なさい。』

『パキラさんが眠ったら私もそうします。』

そう交わして、彼女の歪な強情さに笑ったことは覚えている。そこから先はどうだったのだろう。
けれど眠気に凪いだ記憶の海を幾ら探しても、その答えは見つかりそうになかった。いくら水を掻いても水底は見えなかった。
この子は覚えているのかしら。そんなことを思っていると、少女の目がゆっくりと見開かれた。ライトグレーの目はもう、昨日の赤い色を完全に失っていた。

「おはよう、シェリー

ああ、隣でこの子が眠っているとはこういうことなのだ。
朝起きて一番に発するのが、自分の虚しい独り言などではなく、おそらくは最も愛しいのであろうこの少女に告げる挨拶の言葉であるということなのだ。
それは、今日この瞬間で終わらせてしまうには、あまりにもささやかであまりにも幸福な事象に思われてならなかった。パキラの中で欲張るための準備が整い始めていた。

「……」

けれどそう思っていたのはパキラの方だけではなかったようで、
少女は眠気の中にふわふわと漂う意識を、長い時間をかけてようやくこの空間に落とし込み、パキラの顔に焦点を合わせて泣きそうに微笑んだのだ。

「誰かの手を握って眠れるって、こんなに素敵なことだったんですね」

夢じゃないかなあ。不安そうにそんなことまで口走った少女の頬を摘まみ、なるべく強く引っ張れば少女は驚いたように目を見開きながら、けれど至極楽しそうに笑った。
夢ではない。夢などである筈がない。昨日、数え切れない程に交わした言葉の全てが、二人夢に見た都合のいい幻想だったなんて、そんなこと、あってはならない。
そんなこと、少女だって心得ている。それでも口をついて出た「夢」という、この現実から遠いところを不確かに浮かぶ単語が、彼女の躊躇いを如実に表していた。
このような幸福が現実であっていいのかと、困惑に揺れるライトグレーの目はあまりにも饒舌に訴えていた。だからパキラはその迷いを一笑に付した。

「現実よ。貴方がいつものように謝罪を繰り返したことも、私が貴方のことを好きと言ったことも、お喋りに夢中になり過ぎて、夕食を摂るのを忘れてしまったことも、全て」

最後の言葉に少女は驚いたように目を見開き、やがて「そうでしたね」と肩を震わせて笑い始めた。
少女の長いストロベリーブロンドが、白いシーツの上に波打っていた。カーテンから差し込む日差しがブロンドを弾いてキラキラと瞬いた。
あまりにも美しい少女だった。貴方はとても綺麗ねと、しかしそう告げれば困ったように笑いながら首を振ると解っていたから、口には出さないけれど。

さて、そんな少女が完全に目を覚ますまで待ってから、その背中を押してシャワールームへと向かわせ、パキラ自身も熱いお湯を浴びて完全に目を覚ました。
少女が濡れた髪のままにワンピースへと着替えようとしていたので、慌ててドライヤーを手に取り呼び止めた。
自分の髪を乾かすのもそこそこに、パキラは椅子へと座らせた少女のブロンドに、あまりにも丁寧な手つきでドライヤーを当てた。
「そんなに丁寧にしなくても大丈夫ですよ」と少女は困ったように笑いながら、しかし椅子の背凭れに身体を完全に預けて、気を許すように目を閉じていた。

「髪を誰かに乾かしてもらうことって、こんなに嬉しいことだったんですね」

「あら、お母さんにしてもらったことはなかったの?」

「いいえ、ありましたよ。でもあまり嬉しいとは思えなかったので」

その後で少女は不自然な沈黙を作ってから、少しだけ俯き、「……嫌いになりましたか?」などと恐る恐るといった感じで尋ねてくる。
豪快に笑って「まさか」と告げれば、華奢な肩がほっと大きく撫で下ろされた。

少女は言葉を紡ぐことを極端に恐れている。YesかNoですら示すことを躊躇う彼女が、自ら口火を切り出すことなど滅多にない。
やっとのことで発することの叶った言葉は少女らしくやはりどこか歪んでいて、だからこそ彼女はその度に「嫌いになりましたか」と確認を取る。
だからこそパキラは「まさか」「とんでもない」「嫌いになどなりはしない」と、いつでも何度でも繰り返す必要があったのだ。
そうして「言葉を発すること、自身の思いを示すことは恐ろしいことではない」ということを、長い時間をかけて少女に教えなければならなかった。

「小さい頃から、ずっと長い髪だったんです。でも長いと乾かすのに時間が掛かるから、その分、お母さんも苦労するでしょう?
面倒じゃないかなって、苛々していないかなって、それならいっそ放っておいてくれないかなって、そんなことを思いながら、髪が乾くのを待っていました」

「そうやってお母さんに尋ねたことがあるの?」

「そんなこと、怖くてできません」

少しずつ、けれど確実に少女の何もかもが、彼女の言葉により開かれていった。
きっと彼女はそのように、何もかもを恐れながら生きてきたのだろう。そうした恐れを抱く必要などないのだと、彼女は知ることなく生きてきてしまったのだろう。
一度でも母に「迷惑じゃない?」と尋ねておけば、彼女の恐怖は取り払われただろうに。
そうすれば彼女は早い段階で、誰かに寄りかかること、誰かの手を借りることが必ずしも悪いことではないと学ぶことができただろうに。

少女はあまりにも無知で愚かだった。学が無いのは勿論のことだが、学ぶ姿勢を知らなかった。
彼女は求めない。彼女は自分から動かない。彼女は自らに触れようとする手を悉く拒絶する。
それでは何も変わる筈がない。
しかしパキラはそうしたことを即座に理解することができても、この少女は自らの置かれた立場がどれ程に酷なものであるかを理解しない。理解しようがない。

おそらく、彼女の母が彼女の髪を面倒だと言えば、彼女は一切の躊躇いを見せることなく、ばっさりとその美しいストロベリーブロンドを切るのだろう。
煮え切らない態度が気に入らないと言えば、彼女はただひたすらに沈黙を守り、相手と目を合わせることなく心を閉ざし続けるのだろう。
大切な人に嫌われることが恐ろしいのだと告げた彼女は、きっと相手に嫌われたくないという一心で何だってやってのける。愛されるためならどんなことだって厭わない。
それは普段の臆病な彼女に悉く似合わないあまりにも大胆な選択で、しかしそうした臆病故に、一度そうして振り切ってしまった感情は最早誰にも止めようがないのだろう。

きっと彼女の母が彼女を「嫌い」だとたった一度でも口にしようものなら、きっと彼女は躊躇いなく命を絶ったのだろう。
……もっとも、無知な彼女が「どうやったら死ぬことができるのか」に正しく思い至れるかどうかは、定かではないけれど。

「でもきっと、貴方のお母さんは貴方に髪を切ってほしくなんかなかったのよ」

「どうして、そう思うんですか?」

「だって髪を短くすれば早く乾くようになるでしょう?そうしたら、こんなにも楽しい時間が減ってしまうじゃないの」

すると突如、少女は椅子の背凭れに預けていた身体を勢いよく浮かせてくるりと振り返った。
突然のことに反応できなかったパキラの手、そこに握られたドライヤーは彼女の顔面に勢いよく熱風を吹き付けた。
むせるように軽く咳き込んだ少女に謝ってから「急にどうしたのよ」と尋ねれば、彼女はしかしドライヤーの熱風などまるでなかったかのような勢いで、縋るように、問いかけた。

「楽しいですか?」

何を当たり前のことを、と思ったけれど、そうかこの少女にはそこから説明した方がよかったのだと気付き、自らの迂闊さに苦笑しながらパキラはドライヤーの電源を切った。
静かになった部屋の中で、少女のライトグレーの目を覗き込むように見つめる。白い頬にそっと手を添えて、その目に言葉を刻むように言い聞かせる。

「楽しいわ、とても。貴方といると毎日がとても楽しい。貴方がいない時だって、貴方のことを考えると気分が浮き立つのよ」

「本当に?」と尚も確認を取る少女に、笑いながら「貴方に嘘なんか吐かないわ」と告げれば、少女はしかし不自然な瞬きを繰り返して沈黙してしまった。
この反応は完全に予想外だったため、パキラは少しばかり困惑する。
この子はもしかして、人に好意を向けられることさえも恐ろしいのだろうか。そう案じ始めたが、それはどうやら杞憂だったらしい。
少女はあまりにもぎこちない笑みを作って、躊躇うように、けれど一音一音を噛み締めるように、ゆっくりと、しかしはっきりとした声音で、告げた。

「私も、パキラさんといるととても楽しい」

「!」

「こんなことってあるんですね。私が一緒にいたいと思う人が、私と一緒にいたいと思ってくれているなんて、そんなこと、本当にあるんですね」

ただそれだけの感情の共鳴を、まるで奇跡の出来事であるかのように少女は語る。大きすぎる歓喜を持て余すかのようにその頬は赤く染まり、目は泣きそうに揺れている。
そんなことも知らなかったのだと、驚くことにも、慣れてしまった。

彼女の奇跡はこんな小さなことから始まる。けれどその小さな奇跡は貴方の勇気によってどこまでも大きくなれるのだと、これから、長い時間をかけて教えることができる筈だ。


2016.3.14
(奇跡を起こす人)

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