6

私とNはキャンプカーの外に出た。
もう日は沈み始めていて、木々の隙間から漏れる光は、昼の黄金色ではなく淡く眩しい橙色へと変化していた。
木々を揺らす音がさわさわと、私の不安を煽るように森の鼓動を高鳴らせていた。

「夕日というのはこんな色をしていたんだね」

そんな当然のことを告げる彼に、私は笑いながら「今まで夕日を見たことがないみたいな言い方をするのね」とからかうように告げれば、
しかしそれ以上に朗らかな笑みを彼が浮かべて「さあ、どうだろうね」と笑ったので、そんなところにも空恐ろしさを見出してしまった私は、再び言葉を飲み、沈黙した。

少しばかり開けた場所に出ると、彼は思い出したようにポケットへと手を差し入れて、5つのボールを取り出した。
彼は洗い物を終えた直後の、まだ少しだけ冷たい私の手に、次々とボールを落としていった。

「キミの力になれることがとても嬉しいと言っていたよ。言葉が通じなくともカレ等はキミの誠意を受け取っている。キミの想いはカレ等に届いている」

その小さな球体には、私が共にイッシュを旅してきたかけがえのない仲間たちが入っている。どの子も私の自慢のパートナーだ。
私はこの子達のことが当然のように大好きだった。それなりの誠意と敬意をもって彼らに接しているつもりだった。
そして彼等も、そうした私の思いに応えるように、あるいは一人では道を切り開くことのできない無力な私に力添えをするように、凄まじいスピードで強くなっていった。

そうした急激な成長は、そもそも彼等がポケットモンスターであることに由来するものであったのかもしれない。
ポケモンは未知なる力を秘めた素晴らしい生き物だと、いつか聞いたプラズマ団の演説の中にあった一節、あの言葉に嘘などなかったのだろう。
けれどもしそれだけであったなら、野生のポケモンと私達の連れているポケモンとの「秘めたる力」が同じ大きさであったのならば、
私の歩みはきっと、草むらから飛び出してくる野生のポケモン達に押し負かされていた。
もし私のポケモン達の勝利が偶然や奇跡と呼べるものであったのならば、私の旅はきっと、あの1番道路で終わってしまっていた。幸運など、きっとあの道で使い果たしていた。

けれど私は今日というこの日、10番道路まで来ることが叶っていた。私のバッジケースには、イッシュのジムリーダーを倒して手に入れたジムバッジが8つも並んでいた。
洞窟を抜けて、草むらを掻き分けるようにして進み、険しい山を登ったり、立派な橋を渡ったりしながら、次々に出会うポケモンと戦い、そして、必ず勝ってきたのだ。
そのような「奇跡」などある筈がない。何百回というポケモンバトルを経ても、私達が無敗を記録しているなどという奇跡などあってはならない。
ならば私とポケモンとの間には、野生のポケモンにはない「何か」が生まれているのではないかと、それが彼等を強くさせているのではないかと、
そして、その「何か」には、とても都合のいい「絆」だとか「信頼」だとか、そうした名前が付いているのではないかと、
そんな風に思い上がったところで、それはしかし、無理もないことだったのではないだろうか?

「……それから、ボクに感謝してくれたよ。ボクがいるから、キミに自分たちの思いを伝えることができるのだと。ありがとうと、ヒトの言葉で伝えることが叶うのだと」

そして目の前にいるこの青年は、私のそうした思い上がりを、こうして真実へと変えてくれる存在なのではなかったか。
貴方のその力は、ポケモンと人間との結びつきを更に強めこそすれ、私達を切り離すための確固たる証拠を与えるためのものには、どう足掻いてもなり得ないのではなかったか。

「でも、キミがその幸せを守りたいのであれば、ボクと戦わなければいけないよ」

それなのに、貴方はどうして、まだポケモンとヒトが別れるべきだと声高に謳うのか。
貴方の主張にはもう、一片の根拠も残されていないのではなかったか。貴方はこれまでイッシュを巡って、そうした人間とポケモンの姿を見てきたのではなかったか。
ポケモンと心を通わせ、彼等を愛しているトレーナーなど、私の他にも数え切れない程にいるのではなかったか。

英雄は、私でなくてもよかったのではなかったか。

「イッシュに生きる全てのヒトの願いを背負って戦え、などと言うつもりはないんだ。
だけどボクはポケモンリーグに挑むし、そこでチャンピオンに勝利する。その未来ならもう見えている。キミが止めなければ、きっと他の誰もボクを止められない」

「でも、N、」

「キミは近いうちに、キミを慕うトモダチを手放さなければいけなくなるだろうね」

その挑発めいた言葉は、私を逆上させるに十分な威力を持っていたのだ。
我を忘れたように大声を上げた。私よりもずっと背の高い彼に詰め寄り、腕を掴んでまくし立てた。
この森がゾロアークの幻覚によって巧妙に隠されていることも、私達は狡い大人の何もかもから逃げて此処にいるのだと、そうした全てを忘れてただ、吐き出した。

「嘘吐きは嫌いよ、N。大嫌い、あんたなんか大嫌い!」

彼ははっとしたように息を飲んだけれど、僅かに生まれた沈黙に乗じて言葉を紡ぐことはしなかった。私はそれをいいことに更に酷い言葉を重ねた。

「こんな風に人間とポケモンとが信頼し合っている姿は、何も私に限ったことじゃないわ。あんただってそんなこと、解っているんでしょう?
人のことを怖がるポケモンなんて、人を慕ってくれるポケモンの数に比べれば、本当に少ないものでしかないじゃないの!」

「……」

「私はそうした世界をずっと見てきたわ。あんただってそうでしょう?
それともまだ、あんたは見ない振りをするの?ポケモンの声が聞こえるなんて便利な力を持っておきながら、あんたはまだ真実から目を背けるの?」

貴方は真実に一番近いところにいるにもかかわらず、目を背け続けている。
そうした、彼にとって最も残酷な指摘を、しかし血が上っていた私は躊躇わずにやってのけてしまったのだ。
私は傷付くことに何の躊躇いもなかったけれど、彼を傷付けることには何の覚悟もできていなかったのだ。これはそうした、あまりにも不用意で愚かな発言だったのだ。
そんな全てを、私は次の彼の言葉を聞くまで、まるで察することができていなかったのだけれど。

「ポケモンのことを何も解っていないあんたが、私に勝てる筈がないわ。それでもあんたは私と戦うの?戦って、みっともなく負けることをあんたは望むの?」

「そうだよ」

たった一言、しかしそれはあまりにも分厚く大きな氷となって、血の上った私の頭を急速に冷やしていった。あまりにも急激な寒気だったために、くらくらと眩暈すら覚えた。
私は刺すような頭痛を意志の力でなんとか抑え込み、恐る恐る、彼を見上げた。

彼は笑っていた。
出会った頃の、底の読めない不気味な表情でもなく、またポケモンと話している時に見せる幸福そうなそれでもなく、全てを悟ったように、諦めたように、許すように笑っていた。
それでいて彼の色素の薄い目には、愕然とした表情の私がぽつんと、樹海の中に佇んでいたのだ。

彼にそんな一言を言わせたのは他でもない私である筈だ。彼を傷付け苦しめたのは私だ。
にもかかわらずそうした、傷付いたような絶望したような表情をして然るべきである筈の彼は、どこまでも穏やかに笑っている。
その目に映る私が、そうした彼の何もかもを引き取るように、泣きそうな顔で彼を見上げている。

「キミがあっという間に手に入れることの叶った真実から、ボクはずっと目を背けていた。そんなボクがキミと戦ったところで、勝てる筈がない。そんなことは解っている。
……けれどボクはどうにも、ボクの歩みを止められそうにない。ボクはキミのようにはなれない」

キミのようにはなれない。
最後の絞り出すように紡がれたその言葉が「キミは勇敢だね」と困ったように笑いながら告げられた音と重なり、私の頭の中に、あまりにも筋の通った答えを弾き出すに至った。

『そうして自分の考えを、あまりにも容易く変えてしまえるんだ。それはこれまでのキミを否定することにはならないのかい?』
トウコ、ボクもキミのようになれるだろうか?』
あれはそういう意味だったのだ。糸に吊るされていたのは、やはり私だけではなかったのだと、理解していよいよ居た堪れなくなった。

ねえ、N。
自分では気が付いていないかもしれないけれど、今、貴方はあまりにも人間らしい顔をしているのよ。
何を考えているか全く読めなかった貴方の顔を、そこに閉じ込めた心の全てを、私はようやく見ることが叶ったのよ。

「だって、今までボクが見てきた世界が間違いだったというのなら、今までのボクには何の意味があったっていうんだい?これからのボクにどんな意味を見出せるというんだい?
間違いと思い上がりばかりを積み上げた出来損ないのガラクタ、それがボクだったとしても、それでもボクは生まれ直すことなんかできやしないんだ」

ざあっと強い風が吹いた。木々の隙間から橙色の光が差し込み、彼の背中に長く垂れ下がった白い糸をキラキラと瞬かせた。
私はその糸をきっと睨み上げた。彼は私のそうした表情に少しばかり驚いた後で、「キミは勇敢だね」と告げた時と同じような、ほとほと困り果てたような笑みを浮かべた。

「キミに敗れることになる、そんな未来ならもうとっくに見えている。それでもボクはキミと戦わなければいけない。そうするしかないんだよ、トウコ

その糸を切ってやる。他の誰が阻んだとしても、貴方が諦めたとしても、私は必ずその糸に手を伸べる。刃がなくともこの手で引き千切ってやる。

彼に伸びる糸は私の背中に張り付いていたそれよりも、ずっと強固なものであることは理解していた。
唯一の味方であり理解者であるNの言葉、そのたった一言で私の糸はあまりにも呆気なく切れたけれど、彼の糸はそのような脆い代物では決してないのだろうと心得ていた。
けれど、どうしても諦められなかった。その糸が許せなかった。
そんな風にようやく「人らしい」悲しみを露わにする彼も、そんな彼を泣きそうに見上げることしかできない私も、許せなかった。
やっと私と同じ「人」の姿を取ることの叶った彼が、糸に吊るされたまま踊り続けるなんて、そんなこと、あってはならない。他の誰が許したとしても、私だけは許せない。

「……おかしいね。どうしてキミが泣くの、トウコ

彼はその時、どんな顔で笑ったのだろう。今の私には見える筈もなかったのだけれど。


2016.4.8
(「ロミオとジュリエット」より、偽物の毒を飲んで死んだふりをした少女と、その嘘を信じて本物の毒を飲み下した青年)

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