11

この少女の世界にはラルトスと彼女しか存在していないように思われた。プラターヌにはそれがいよいよ恐ろしかった。

この少女は、強くなりたいとは全く思っていない。優秀なポケモントレーナーになりたい、などと願っている訳でもない。
彼女はただ「一人になりたくない」だけなのだ。ただそれだけのためにラルトスの進化を願い、自らの強さを乞い、何十年も先のことを案じ、そして、泣いているのだ。

更に言えば、彼女はこれから先の人生の中で、ラルトスに匹敵する「誰か」に会えることを全く想定していない。
彼女はこれから何十年もの間、ずっと、ラルトスと彼女だけの世界で生きていくつもりなのだ。その二者の間に、他の誰も入れるつもりがないのだ。彼でさえも、入れないのだ。

プラターヌの世界には確かに「彼女」がいた。彼はこれまで、彼女の存在に、彼女の頷きに、彼女の涙に、彼女の言葉に、幾度となく救われてきた。
おそらくはこの森に咲く夜顔の数だけ、彼には救いがもたらされていた。
けれど「彼女」にとってはそうではなかった。彼の存在、彼の頷き、彼の笑顔、彼の言葉、そうしたものは彼女の何も救えなかったのだ。
その衝撃、その絶望を表す言葉を、プラターヌはどうにも上手く見つけることができずにいた。

自らの腕の中を選んで生まれてきてくれた命、その別離となれば当然、誰もが悲しむ。
けれどだからといって、最愛のパートナーとの別離を経て「本当に一人になってしまった」と、果たして何人のトレーナーがそう言えるだろうか。
誰かの世界は、誰かとそのパートナーポケモンだけで回っている訳では決してない。誰かの友人、家族、知り合い、そうした何もかもの中に誰かは置かれている筈なのだ。
誰もが、一人では生きていかれない筈なのだ。

けれど彼女にはそうした「何もかも」が見えていない。彼女の世界は彼女とラルトスだけで回っている。仮に真実がそうでなかったとしても、少なくとも彼女はそう思っている。
プラターヌにはそれが恐ろしかった。彼女がラルトスとの別離を恐れているのと同じように、いや、もしかしたらそれ以上に、彼女のその閉じた世界が恐ろしかった。

この少女は、ラルトスを喪えば本当に生きていかれなくなってしまうのではないか?

君は、ラルトスの死と同時に死ぬつもりなのではないか?

「そのラルトスは君を置いていったりしないよ」

祈りめいたその言葉に、少女は鋭くプラターヌを睨み上げた。
彼女が嗚咽の合間に口を開かずとも、プラターヌには彼女の言わんとしていることがとてもよく解っていた。
「どうしてそんなことが言えるんですか」と、そのライトグレーの瞳はあまりにも雄弁に問うている。「無責任なことを言わないでください」と彼を険しく責めている。
その全てを許すように彼は笑った。毒気を抜かれたように彼女は鋭く細めた目をすっと緩めた。その目から流れ出た険しさはぽろぽろと静かに川を下るのだった。

「君がラルトスを進化させたいのは、ラルトスの寿命よりもキルリアの寿命の方が長いからだよね。進化すれば長く生きてくれるのではないかと、そう考えているんだよね」

「……はい」

「間違っている訳じゃないんだよ。確かにキルリアの寿命の方が長い。生物学の教科書を見てもそう書いてある。
でも、ポケモン図鑑に載っている寿命は「野生ポケモン」を観察して導き出した命の長さだから、人と共に暮らしているポケモンにおいて、その数字はあまり役に立たないんだ」

どうして?と彼女は問うている。
プラターヌに教えを乞うその姿勢は、教室の最前列に座っていたあの3年生と全く同じである筈なのに、プラターヌは妙な緊張感を覚えていた。
ビビヨンを連れたあの女の子の目には必ずあった「もっと教えて」「続きを聞かせて」という期待と高揚の色が、彼女には全くなかったからだ。

寧ろ彼女は、試していた。この、歪に膨れ上がったプライドを持て余した少女は、再びプラターヌの隙を窺おうとしていたのだ。
彼女にはそういうところがあった。悉く他者に従順な素振りを見せながら、歯向かう機会を今か今かと常に窺っている、それが彼女であった。
きっと、今もそうであるのだと心得ていた。「私の恐怖を奪い取れるものなら奪ってみろ」とでも言うような、挑戦的な嗚咽であるように彼には聞こえていた。

『でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ。』
そして、彼女に窺われるのは今回が初めてではないのだと思い出した彼は、自らを飲み込まんとする緊張の心地を受け止めて、笑った。
大丈夫。この少女がただの臆病な人間ではないことも、その気になれば大声で激情をまくしたてることさえも叶う人間であることも、彼はよく知っている。解っている。

「人と一緒にいるポケモンが、人よりもずっと先に死んでしまうことは稀なんだ。
興味深いことに、野生に暮らすポケモンの寿命よりも、人と共に在るポケモンの寿命の方が、何故だかずっと長い傾向にあるんだよ」

彼の口にした「事実」に彼女の目は大きく見開かれる。
プラターヌは教師だ。少女は生徒だ。故に彼はこの少女の問い掛けに対して、ただ真摯に、誠実に、知っていることだけ、解っていることだけを答えるべきであった。
そう心得ていたから、彼は努めて静かな声音で「事実」を語った。少女は、彼を睨み上げなかった。

「多くの研究者はそれを、ポケモンと人との間に結ばれた絆の力だと考えている。想いの力は命の長さを動かしさえするんだ」

想いの力は命の長さを動かす。
プラターヌの言葉を少女は反芻する。ぽろぽろと零した涙には、きっと彼の声が、彼が口にした事実の声が溶けている。

この少女がラルトスのことを大切に思っているように、ラルトスもまた、この少女のことが大好きなのだろう。
二者は正しく「ひとつ」の形を取っていた。並の信頼関係ではできないことであった。
加えてこの小さな命は、自らの主が寂しがり屋であることをとてもよく解っている。故に自らの命の限界が来たとしても、ラルトスは彼女の傍に留まり続ける筈だ。
だから心配しなくていい。恐れる必要など何もない。君が一人になることなど在り得ない。
そう告げようとしたプラターヌを制するように、彼女は再び口を開いて、次なる「何故」を、連ねた。

「どうして、私達を置いて先に死ぬポケモンがいるんですか?」

縋るように、責めるように、祈るように、彼女は問うた。プラターヌは答えることができずにただ、沈黙した。
それが、そのポケモンの寿命であったからだ。そう答えることはできなかった。
たった今、その寿命に逆らって生きてきた命の話をしたばかりであるのに、その主張をなかったことにしてしまえば、彼女の懸念は、恐怖は、また彼女のところへ戻ってきてしまう。
それだけは避けたかった。けれど彼女を飲み込まんとする恐怖を避けつつ、彼女の問いに答えることはとても、とても難しいことであった。
どうしてこんなにも難しいのだろう。プラターヌはくらくらと眩暈を覚えた。この少女に「授業」をしようなどと思い付いた、数分前の自分を彼は責め始めていた。

「ポケモンには自らの寿命を延ばす力さえある。それは解ります。不思議な、神秘的なことだと、私も思います。
でも、それじゃあどうして全てのポケモンが「そう」ならないんですか?どうしてその力を使わずに、人を置いて行ってしまうポケモンがいるんですか?」

「人と共に在ろうとして長生きするポケモンがいること」の方が、生物学的には驚くべき、異常なことであった。
プラターヌもその事例を種々の文献や研究で目の当たりにして、その鮮やかで自然な「絆による延命」の力にただ驚愕し、ただただ感動していた。
それに引き換え、「ポケモンが人を置いて先に死んでしまうこと」というのは、生物学的にはまったくもって正常な、普通のことだ。
ポケモンと人が、それぞれの寿命の差に従っただけのことであり、その意味を考えたことなど一度もなかった。

当然の事象に理由を探すことはとても難しい。当然の理を紐解くこともまた、とても難しい。
明日、晴れるとして、あるいは雨や雪が降るとして、その意味を答えられる人間などいる筈もない。
ポケモンがその寿命のままに死んでしまう意味。「絆による延命」を選び取らなかった意味。愛していたトレーナーを置いて先に死んでいく、意味。
解らない。解らないから、想像するしかない。プラターヌは困り果てた表情のままに俯いた。少女は瞬きさえ忘れて、食い入るようにプラターヌを見上げていた。

「どうしてだろうね……」

先に死んでしまったポケモンは、人のことが嫌いだったのだろうか?
いや、仮にそうだったとして、人のことが嫌いになったのなら、立ち去ればいいだけの話なのだ。嫌いな人物の下に留まり続け、限りある命をそこで手放す必要などまるでない。
逆に人のことが好きであったのなら、ずっと一緒にいたいと思った筈だ。
事実、多くのポケモンがそうした想いの力によって、常識では考えられない程の長い時間、人との時間を共にしている。
プラターヌはそうした長寿のポケモンをかなりの数、見てきた。

……それなのに、人を置いて先に死んでしまうポケモンがいる。寿命のままに死ぬポケモン、寿命よりも早く死んでしまうポケモンも確かに存在する。
事故や病気の例を差し引いても、それは無視できない数であった。その無視できない事例への答えをプラターヌは持たなかった。

『この子も進化できないまま、死んでしまうんでしょう?私を置いて、私より先に……。』
プラターヌはこの少女の言葉を、置いて行かれる側の悲しみを紡いだ言葉を思い出していた。
『尊敬していた人がいなくなったんです。とても優しい人でした。ずっと一緒でした。』
プラターヌはあの友人の言葉を、置いて行かれた側の寂しさを吐いた言葉を思い出していた。

「……君は、」

答えを出さなければならない時がすぐそこまで来ていた。


2017.3.21

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