7

11月になっても尚、夜顔は変わらず咲き続けていた。

『でも人は、ポケモンのように残酷でもありませんよ。』

彼女はあれ以来、プラターヌの懺悔をただ沈黙して聞くことをしなくなっていた。
もっとも、それは1日に2回か3回しかない問い掛けではあったのだが、とにかく彼女は「壁」でも「神様」でもなくなっていた。
壁はプラターヌの懺悔に答えたりしない。神様はプラターヌの言動を追及したりしない。

「その先輩が本当に、プラターヌ先生の授業をつまらないと言ったんですか?」
「ポケモンが棲みやすい環境を整えることは、そんなに価値のない、つまらないことなんですか?」
「プラターヌ先生は、ポケモンが人のように言葉を話すようになったら、彼等のことも同じように恐れるんですか?」
「貴方は授業をすることが怖い?人と話をすることが、怖い?」

壁でも神でもなくなった彼女が、しかしプラターヌを糾弾したことはただの一度もなかった。
彼女の言葉の殆どは疑問の形を取っており、それは自己の心情を開示する行為であるというよりも寧ろ、プラターヌに更なる心理の開示を求める行為であるように思われた。
故にそう問われたプラターヌは、答えられる範囲で、できる限りの誠意を尽くしつつ、彼女の疑問に、質問に、確認に答えていた。
彼女の意図がどうであれ、プラターヌはそうした彼女の疑問を受けて、更に自分の心を話してしまっていたのだから、
その推測はプラターヌの中では既に「真実」以外の何物でもなくなっていたのだろう。

「そうだね、本当にそんな声が聞こえたことは一度もないんだ。けれど彼等の態度が、表情が、どうしてもそう言っているように思われてしまうんだよ」
「そんなことはない、ボクはこの学問に誇りを持っている。けれどボクが抱いているだけの価値を、皆が飼育学という授業に見出してくれるかというと、そうではないんだ」
「……どうだろう。もしかしたら同じように恐れてしまうのかもしれないね。ボクはこの通り、とても臆病な人間だから」
「怖いよ、とても怖い。誇りをもって教壇に立てない自分も、人の何もかもに悪意を見てしまう自分も、嫌いだ」

そうして彼は己のことを少しずつ話した。
少女はその全てを最後まで聞いた後で、やはり「ごめんなさい」と告げてぽろぽろと泣くのだ。
夜顔はそうした彼女の涙を吸い続けていても、白く美しいままだった。

けれどこの少女は本当は、臆病などとは無縁の人間なのではないかと、プラターヌは時折、そう疑ってしまいそうになることがある。

彼女は美しかった。彼女は強かった。けれどその強さはあまりにも歪であり、危なっかしいものであった。
危うい凛々しさというものは確かに存在するのだと、この夜顔のような少女がまさにそうなのだと、プラターヌは確信し始めていた。

彼女は何もかもを恐れていた。何もかもを警戒して、身体を固く強張らせていた。そうして自己を主張しているように見えない彼女は、悉く他者に従順であった。そのように見えた。
けれどその身体を強張らせているのは恐れだけではなかった。そこに存在しているもう一つの感情、それは「緊張」だった。
悉く他者に従順であるにもかかわらず、いつも反抗の機会を伺っているような、そうしたアンバランスな「恐怖」と「緊張」。
その二者が、彼女の華奢な美しい身体を強張らせていたのだ。

彼女は恐れている。強張っている。泣いている。そのような小さい動作を携えながら、けれど彼女はその危なっかしい矜持を決して手放していない。
彼女の危うい凛々しさは、その揺らめくプライドは、「何か」によって輝く機会を得る時を、今か今かと待っている。
彼女は涙を流しながら、機を窺っている。プラターヌは今もきっと、窺われている。

そうした彼女のことを糾弾する権利はまるでなかった。
寧ろ危うい形ではあったものの、彼女にそうした強い自我が、強さが、根差していることにプラターヌは安堵していた。よかった、と思ってしまったのだった。
けれどそれと同時に、少しばかり「狡い」とも思ってしまった。何故ならあの日以来、プラターヌの懺悔を吐き出す頻度が、少女の恐怖を聞く頻度を大きく上回り始めていたからだ。

君はボクに色々と尋ねるばかりで自分のことを何一つ話していない。ボクはまだ君の恐怖と緊張の内に在るものを知らない。
これではまるで、どちらが教師でどちらが生徒なのか解らない。少女は自らのことを開示しないままに、プラターヌのことばかり問うている。
それは少し、狡くないだろうか?

シェリー、海は好きかい?」

そう考えたプラターヌは、彼女に誘いを持ちかけるため、そのようなことを尋ねた。
彼女は不思議そうに濡れた目を見開き、けれどすぐに消え入りそうな声音で「大好きです」と返事をして、やはり泣いた。
ああ、君にも「好き」と言えるものがあるのかと、君を構成するものは「怖い」ものばかりでは決してなかったのだと、
プラターヌはまた一つ、当然のことを、けれどこの異常な少女にとっては全く当然ではなかったことを、知る。

「明日は休日だから、昼の1時頃にハッフルパフ寮の前においで。一緒に、人工海岸に棲んでいるポケモン達を見に行こう」

ポケモン、という言葉に少女の肩が強張った。プラターヌの誘いに頷きながらも、彼女はぽろぽろと涙を零すのだった。
彼女が泣いていないことなどこれまで一度もなかった。彼女は驚いても、恐れても、喜んでも、安堵しても、泣くのだ。
だからもう、プラターヌは彼女の涙を見ても狼狽えなくなっていた。

常人であれば「嬉しい」「悔しい」と、声や表情で発露されて然るべき何もかもが彼女にはない。
彼女の表情はいつだって強張っていたし、彼女の声はいつだって、消え入りそうな弱々しいものだった。
彼女がその声で、表情で、言葉で、表現できる感情の種類と量は驚く程に少ない。故に彼女は泣くしかない。自らの中に吹き荒れる感情を表現する術を、彼女は他に持たない。

言葉が追い付かなくなったときに人は涙を流す。プラターヌはそうした認識を持っていた。
故に彼女はずっと「追い付いていない」のだろう。情緒豊かである筈なのに、そうした一切を表現する術がないから、彼女は泣くのだろう。
そういうことなのだろう。

「酷い人だと罵ってくれて構わないのだけれど、ボクは最近、君が泣いているところを見るのがどうにも嬉しいんだ」

やはりこの少女は「臆病」ではなかった。臆病であったのは常に彼の方であったのだ。彼女はきっと、臆病な彼の方に心を合わせていたのだ。
勿論、怖がりであるというのも彼女の一要素であるのだろう。
けれど少なくとも、プラターヌの前で涙をぽろぽろと落とす彼女は、自らの感情をあまりにも無防備に落とす彼女は、臆病などではなく、本当は。

「怖い、と言って泣いている君を見る度に、ボクはいつも君のことを、勇気ある人だと思わずにはいられないんだよ」

彼女の代わりに夜顔がふるり、と揺れた。
倒れた巨木を覆わんとする勢いで、夜顔のツタは勢いよく伸びていた。
月明かりの下で彼等は丸い、満月のような花を一斉に開き、夜空を仰いで雨を乞うた。彼女はそれを知ってか知らずか、ぽろぽろとやはり泣くのだった。
夜顔の妖精、というものがあるとすれば、それはきっとこの少女のような姿をしているのだろう。その妖精もきっと、勇敢な泣き虫であるのだろう。

「今までボクの話を沢山、聞いてくれてありがとう。明日は君の話を聞かせてほしい」

翌日、1時10分前にプラターヌは寮の前へと出て来たのだが、彼女の姿を見つけることはできなかった。
どこかへ遊びに出掛けるのだろう、寮から出てきた2人の女生徒がプラターヌを見つけて「行ってきます!」という甲高い声音と共に大きく手を振った。
プラターヌも手を振り返して「気を付けていくんだよ」と彼女達を見送った。

クディッチの箒を持って飛び出していく背の高い男の子、大量の本を抱えて、覚束ない足取りで図書館の方へと駆けていく女性のホグワーツ院生、
どこかへ観光に行くのか、私服に着替えた男女6名に、ポケモンの縮小呪文を解いて散歩に出かける3人の男の子。
誰もが休日の空気に浮かれており、そうした彼等の笑顔を見ることはプラターヌにとって苦痛ではなかった。少なくとも、此処に悪意を見ることはできなかった。

そうした生徒を全て見送ったところで、ようやく彼女は現れた。1時を5分程度過ぎていたけれど、プラターヌは特に彼女を叱らなかった。
「ごめんなさい」と上擦った声音で紡ぐ彼女は、目に涙を溜めてこそいたものの、そのライトグレーの瞳から溢れさせることはしなかった。
ああ、きっと此処には夜顔がないからだろうと、そんな風に考えてしまった自分がどうにもおかしかった。

それじゃあ行こうかと微笑みかけて、人工海岸へと続く通りに歩を進めた。
彼女はプラターヌの少し後ろをぴたりとついて歩いており、その歩幅はやはり小さく、ぎこちないものであった。

「君はまだ1年生だから、飼育エリアに入ったことはまだないんじゃないかな」

こくりと頷いた彼女の手持ちは、今もその華奢な腕に抱きかかえられているラルトス1匹だけであり、他のポケモンを貰ったり捕まえたりすることはまだ許されていない。
けれど3年生になるとその制限が解かれ、人からポケモンを譲ってもらったり、野山で野生のポケモンを捕まえたりといったこともできるようになる。
ただしその全てを連れ歩くことはできないし、かといってずっとボールの中に閉じ込めておくとポケモンにストレスがかかる。
人の傍に在ることを選んでくれたポケモンに、少しでも居心地のいい場所を用意したい。そうした理由で、ホグワーツには幾つもの「飼育エリア」が存在する。
今、二人が向かおうとしている人工海岸もそのうちの一つであり、プラターヌはその区画の管理を任されていた。

「淡水を好むポケモンであれば、近くの川や泉に放し飼いにしている場合もあるけれど、マンタインやブロスターといった海水に棲むポケモンは全て、此処に預けられているんだ。
海水のイオン組成、温度、海流の変化といったものを、なるべく自然のものに近付けようと試行錯誤しているところなのだけれど、なかなか思うようにはいかないね」

少女は何も言わなかった。涙も流さなかった。ライトグレーの瞳は雨を降らせなかった。
彼女の代わりに、腕の中のラルトスがその赤いツノを眩しく光らせていた。

「君が、気に入ってくれるといいのだけれど」

そう前置きして、プラターヌは自らの管理区域へと手を掛ける。
カチャリ、とドアノブを回す音にも少女は肩を跳ねさせた。そういう子だと解っていたから、プラターヌはもう驚かなかった。


2017.3.19

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