何故、私はこの城に戻って来たのだろう。
簡単なことだ。私は彼を助けたかった。
私がシェリーを助けるために取ってしまった軽率な行動が、村人たちを此処へ向かわせてしまったのだから。
あのまま放っておけば、間違いなく城は急襲を受けて、皆も無事では済まなかっただろう。これは私の責任だった。だから私は此処へ来たのだ。
けれど、もしそんなことが起きなくても、私は此処へやって来ただろう。
私を待っていてくれたシェリーの手も、私に想いを伝えてくれたアクロマさんの視線も振り切って、私はまた此処へ戻って来ただろう。
それ程の尊さだったのだ。この城で過ごした時間は何よりも大切だった。彼等との別離を思い、クロバットに乗って空を飛びながら嗚咽を零す程には。
あれ程焦がれた本の夢の中で、目の前の青年ではなく、この人のことを考えてしまう程には。
その想いを言葉にするのは驚くほどに簡単だった。私は躊躇わずに口を開いた。
「好きだから。この城のことが、此処に住む皆のことが、……貴方のことが」
「……」
「私、貴方のことが大好きよ」
やっと言葉にしたその想いは、しかし凄まじい乾きを訴えていた。
足りないのだ。この言葉では足りない。私の紡ぎ得るどんな言葉を使っても、きっとこの想いは表せない。
けれど、言わなければならなかった。どうしても伝えておきたかった。彼の目が、真っ直ぐに私を見上げている内に。その火に映えるような赤い隻眼が輝いている内に。
私は言葉の海を必死に泳いだ。何か、何かある筈だった。ぼろぼろと涙を零しながら私は沈黙した。嗚咽すらも消えてしまっていた。
『いつか、伝えずにはいられない日がやって来ますよ。その言葉には魔法がかかっていますから。』
……この城で、私は数え切れない程の不思議なものを目にしてきた。
陽気に喋る燭台。寡黙な外套掛け。ひとりでに曲を奏でるグランドピアノ。私の話し相手になってくれる鏡台。美味しい朝食を運んできてくれるポット。
いつも不機嫌そうな置時計。ダンスが好きな箒。夢を見せる本。姿を消す城。
見たいものを見せてくれる手鏡に、淡い光を放ち宙に浮く赤い薔薇。
そして、人ならざる恐ろしい姿の中に、人間のような臆病で繊細な心を持つ彼。
この場所には、魔法がある。私はもう、その事実を疑わない。魔法の存在する不思議な城で、魔法を使えない私はずっと過ごしてきた。
私には彼等のような秘密も、不思議な力もない。
『けれどシアさん、貴方の魔法なら彼に届くかもしれない。貴方の言葉なら、あるいは。』
柔らかなテノールが、そんな無力な私の背中を押した。
だって、これが、この想いがそうでないのだとしたら、一体何をそう呼べばいいのだろう。
眩しすぎると感じていたその輝きは、私が一生、知ることができないと思っていた感情は、いつの間にか私の手の中にあったのだ。
私はもう躊躇わなかった。小さく息を吸い込み、彼の隻眼を見据えた。届かせるべき言葉を紡ぐために、震える口をそっと開く。
「貴方を、愛してもいいですか?」
伸べられた大きな手が、私の頭をそっと抱く。その隻眼がすっと細められる。
その優しい沈黙が肯定だと、知っていた。私は彼の肩に手を回して縋り付いた。彼の首元に顔を埋めるようにして、強く抱き締めた。確かな人の温度がそこにあった。
けれど私の頭を抱いた手は、その瞬間、力を失ってゆっくりと落ちていった。
顔を上げれば、その赤い隻眼がゆっくりと瞬きをした。……いや、瞬きと思えるような自然さで、彼はその隻眼を閉じたのだ。それを認めた瞬間、涙が止まらなくなった。
彼の胸元に顔を埋めて、私はどうか、と願っていた。祈っていた。
この言葉に魔法があるのなら、お願いです。どうかこの魔法を彼に届けてください。私の魔法で彼を救ってください。
彼を、愛しています。
どれくらいそうしていたのだろう。私は僅かな、けれど確かな違和感に顔を上げた。
風が、吹いていたのだ。
この部屋の窓は閉じられているのに、何処から風が吹いているのだろう。
私は部屋を見渡し、息を飲んだ。あの赤い薔薇が、最後の一片を落としていたからだ。そして、それだけならまだしも、その落ちた花弁が風に舞い始めたのだ。
花吹雪が部屋中に舞い、部屋が淡く輝き始めた。いや、きっとこの部屋だけではないのだろう。開け放たれたままの扉の向こうに伸びる廊下も、淡い光を放っている。
一体、何が起きているというのだろう?私はあまりの驚きに嗚咽を止め、その圧倒的に美しい光景を見ていた。
よく晴れた日でも、大きな窓がいくつもあり、カーテンを全て開けているにもかかわらず、この城はいつも薄暗いままだった。
少しでも雲が差せば夜かと見紛うような暗さで、昼でも明かりが必要なほどだった。
そんな城が、今まで見たことがないような明るさを持って輝いている様は、私に衝撃を与えた。けれど更なる衝撃が私の視界に飛び込んできた。
彼が私の手を離れ、宙に浮かび上がったのだ。
遠くで、ページを勢い良く捲る音が聞こえた気がした。
獣の形をした茶色い手は、白い肌と5本の長い指を持った人間のそれに変わった。
宙に垂れた足は、私のそれよりも少しだけ骨張った細い曲線を描くように姿を変えた。
閉じられていた赤い隻眼を持つ彼の顔は、いつかのように深い霧のようなものに覆われて見えなかった。私はそれを振り払おうとして彼に駆け寄り、息を飲んだ。
背中で一つに纏められていた長いたてがみは、若葉を連想させる淡い緑へと色を変え、その長い髪は、彼の右目を覆うように頬へ、肩へと流れたのだ。
少し小さな耳も、整った眉も、すっと高く通る鼻も、緩やかに引き結ばれた口も、全て、私のそれと、人のそれと同じ形をしていたのだ。
私はこの人を知っていた。今までの彼の姿の中に、もう何度も、数え切れない程に見てきたのだ。
たった一度の瞬きの間に消えてしまっていた、濃い霧に覆われたその顔の向こうを、私はようやくこの目で見ることができたのだ。
重力を忘れたかのように、彼はゆっくりと宙を降り、床へと横たわった。吹雪いていた薔薇の花弁が、魔法のように瞬いて消えてしまった。
いつの間にか、彼の胸元から溢れる血は止まっていた。私の右手の傷口も完全に塞がっていた。
これは、魔法なのだろうか。
そんなことを思っていると、もう二度と動かないと思っていた彼が小さく呻いた。
あまりの驚きに私は後退り、目を見開いたまま、彼がゆっくりと床に足を着いて起き上がるのを、見ていた。
癖のある長い髪が、背中に流れるように伸びていた。彼は自分の手や足を確認し、ゆっくりと振り返って私を見据える。駆け寄り、私の手を掴んで縋るように言葉を紡いだ。
「シア、僕だ、解るか?」
「……」
その澄んだテノールと、「僕」という一人称に、先程までの彼の面影を見ることは不可能だった。
不健康なまでに白い肌も、整った長い指も、肩や背中に流れる淡い緑の髪も、何もかもがあの人と違い過ぎて、私は言葉を発することができなかった。
目の前にいた筈の彼がいなくなってしまったような気がして、別の誰かに取って代わられてしまったように思えて、少しだけ恐ろしくなる。
しかし私に芽生えた僅かな恐怖は、私を縋るように見つめるその隻眼の色が吹き飛ばしていった。
燃える夕日のような赤、血のように鮮やかな赤い隻眼。それは紛れもなく彼のものだった。私が焦がれたあの目が、先程までと変わることなく私を見ていたのだ。
私はようやく微笑むことができた。震える声で、そっと紡ぐ。
「……私、貴方のことを知っているわ」
すると彼はその目を見開き、とても懐かしい笑みを浮かべてみせたのだ。
「当たり前だろう。お前はこの姿を、今までの僕の中に見ていたんじゃないのか?」
そんな風に眉を上げて、皮肉めいた笑みを浮かべてみせる人物を、私は彼を置いて他に知らない。くつくつと喉を鳴らすようにして笑うその声を、私はこの人の他に知らない。
『随分と大仰な言葉を使うんだな。空を飛んでいる、だなんて、僕たちのような人間には勿体ない言葉だ。』
あの「彼」は、この城が見せてくれた魔法だったのだ。深い霧に阻まれて見えないと思っていた彼の顔を、その姿を、私はこの城に住み始めたあの夜からずっと知っていたのだ。
彼は、ずっと私の傍にいたのだ。
「違う、そうじゃないの。もっと、ずっと前から、私は貴方のことを知っていたのよ」
その言葉に、彼は呆れたように笑って私の頬に手を伸べた。私の涙をそっと拭う、その手の冷たさを、けれども確かにそこに宿った人の温度を、私は覚えている。
忘れていない。忘れられる筈がない。だって「彼」が此処にいるのだ。この手は彼のもので、私はずっと彼を愛せていたのだ。
もう一度、その手の温度に触れられて涙が止まらなくなってしまう程には。皮肉めいた笑みを浮かべる彼の背中に手を回し、強く縋り付いてしまう程には。
けれど、縋り付いたのは私だけではなかった。彼は私の肩に手を回し、強い力で引き寄せたのだ。
「自分の手が誰かを傷付けない、というのは、こんなにも幸福なことだったのか」
「!」
「……悪くない」
その最後の言葉は震えていた。小さな嗚咽を噛み殺そうと努めていた彼を、私は強く抱き締めた。
彼の手は、もう私に傷を付けない。彼はもう、私に手を伸べることを躊躇わない。
この城には、魔法がある。愛の言葉で始まる、奇跡を起こす魔法が。
2015.5.22