1階のホールに続く階段の前で、彼は私を待っていた。
彼は黒いダンスローブに、白いシャツを着ていた。首元にはタイの代わりに、深い緑のアスコットスカーフを纏っていた。
いつもは私の髪のように、無造作に後ろで一つに束ねているだけだったそのたてがみは、スカーフと同じ色のリボンで結ばれていた。
彼の服も、この日のために皆が仕立てたのかしら。そんなことを思い、思わず微笑む。
彼は私の足音に気が付いて顔を上げたけれど、その赤い隻眼を見開いて固まってしまった。
何か、おかしなところがあったかしら。私は慌てて自分のドレスを確認しようとしたけれど、ふっと彼が小さく微笑む気配がして、顔を上げる。
「随分と着飾っているな。お前はそうしたドレスは窮屈で嫌いなのではなかったのか」
「ええ、嫌いだったわ。でも好きになったの。空色のドレスも、高いヒールも、綺麗なリボンも、……何もかも」
城の皆が用意してくれた何もかもが愛おしくて、私は徐に肩を竦めて笑ってみせる。
心臓は相変わらず不思議な音を立てて揺れていたけれど、もう苦しくはなかった。代わりに僅かな高揚感を携えて、彼が差し出してくれた手に私の手を重ねる。
1階のホールに続く階段を、彼と並んで一段ずつ、踏みしめるように降りた。
まさかこんな風に、この人のエスコートで城の中を歩く日が来るなんて思ってもみなかった。
私は城に来たばかりのことを思い出して、また笑った。彼は「おかしな奴だ」とでも言いたげな、呆れた視線をこちらに向けてみせたけれど、構わなかった。
言い返す代わりに、私は彼の手を握る力を少しだけ強くした。彼の手は私のそれよりも少し冷えていて、その温度差が与える冷たさが私には心地良かった。
1階のホールの隅には、楽器たちが集まって静かな曲を奏でていた。
バイオリンやフルートは勿論のこと、Nさんの姿まである。あの大きなグランドピアノが、どうやって1階まで下りてきたのだろう。
想像もつかなかったけれど、途方もない労力を要する移動であることは容易に察しがついた。
そうまでして私と彼との時間を彩ろうとしてくれる彼の気持ちが素直に嬉しく、私は彼の手を握っていない方の手を小さく掲げて、彼等に手を振った。
その瞬間、一斉に微笑んでくれる彼等が、楽器ではなく、その楽器を構えた人の姿に見えて、私は慌てて目を凝らす。
けれど一瞬の瞬きのうちに、その姿はいつもの楽器のそれに戻ってしまった。
「……」
この不思議な現象を目にしたのは、一度や二度ではない。
私はこの城の中で何度も、人ならざるものたちが人の姿を見せる瞬間をこの目で見てきたのだ。
鏡台のトウコさんが、普段の私と同じエプロンドレスを身に纏ったポニーテールの少女に。
グランドピアノのNさんが長身の少年に。
3人のダークさんが、白い長髪と三白眼を持った男性に。
他の道具たちも、様々な人間の姿を一瞬だけ現し、しかし瞬きをしたその一瞬の後に、彼等はいつもの道具の姿に戻ってしまうのだ。
私の、都合のいい幻覚だろうか。私が、彼等に人間の面影を見過ぎているから、私の頭がそんな幻を見せているのだろうか。
けれど、そうだと切り捨ててしまうことはどうしてもできなかった。それ程に彼等の姿は鮮やかで、本当にそこにいるかのように生き生きとした表情をしていたからだ。
勿論、彼の中にも、私は何度か少年の姿を見てきた。
けれど他の皆と違って、彼の姿は深い霧に隠れたような状態で、はっきりと捉えることができないのだ。
けれどそのシルエットは紛れもなく人間のそれで、私はその霧が晴れる時が来ると、彼の生き生きとした姿を見ることができる日がやって来ると、密かに夢見ている。
その時がやってくればいい。けれどやって来ないならば、それはそれでよかったのだ。
その少年の姿がはっきりと見えたら素敵だと、彼のもう一つの姿を捉えられたらいいとは思っている。けれど、それだけだ。
その姿がなくとも、何も変わらない。私はこの時間を愛していた。彼と共有するこの時間が、どうしようもなく愛しかったのだ。
いつもの食卓に着き、運ばれて来る料理を食べる。部屋の隅で、バイオリンが曲を奏でてくれていた。
普段も驚く程に美味しい彼等の料理だけれど、今日のそれは私の目から見ても、かなり手の込んだものが作られていることが容易に見て取れた。
本の中にすら登場したことのない、手の込んだ料理の数々を、ゆっくりと口に運び、味わう。
毎晩、彼と食事を共にしていた私は、もうテーブルマナーを心得ていた。燭台のダークさんも、私の食器を取る手を安心したように見守っていてくれる。
長いテーブルの向こうに座っている彼と交わすのは、他愛もない話だ。
彼は私の言葉に皮肉めいた言い回しで返したり、呆れたように小さく微笑んだり、時に驚いたように目を見開いたり、怪訝な表情で首を傾げたりする。
そんな表情豊かな彼の姿にも、もう慣れつつあった。いつも不機嫌そうにこちらを見据えていた、あの頃の面影を今の彼に重ねることはとても難しいように思えた。
けれど、変わったのは彼だけでない。私も、臆さずに彼と話ができる。
皮肉めいた言い回しにさらりと言い返したり、驚いた様子の彼に楽しくなって微笑んだりすることができている。
彼と対等に会話をしているのだというこの状況を噛み締めるように、私は笑った。何の脈絡もなく笑みを浮かべた私に彼は呆れたような顔をしてみせたけれど、構わなかった。
「後で皆にお礼を言わなくちゃ」
その言葉に彼は怪訝そうな表情を浮かべた。
城の主である彼にとっては、皆がこんな風に私達の時間を彩ってくれることは、当然のことのように見えるのかもしれない。けれど、私はそうではなかった。
私は彼とは異なる立場にいて、彼等が私達のために何かをしてくれることに、どんな言葉を尽くしても言い表せない程の感謝を覚えていたのだ。
「だってこんなに素敵な時間を用意してくれたのは彼等だもの」
「……」
「それに、ありがとうって響きには、相手を笑顔にしてくれる魔法がかかっているの。だから私、この言葉が好きよ」
少しだけ照れたように首を傾げてそう告げれば、彼はくつくつと喉を鳴らすように笑ってみせた。
「魔法が好きだなんて、変わった奴だ」と、そんな言葉ももう私を不快にはしない。
私は「変わり者」である自分を好きになり始めていた。「変わり者」であるから彼に出会えた、そのことに、寧ろ感謝すらしていたのだ。
紅茶を飲み終えた私は、彼の方に駆け寄ってその手を引く。彼はその手に驚いたような表情を見せて尋ねる。
「踊ったことがない割には、随分と乗り気だな」
「ええ、だって貴方が私のミスを上手くフォローしてくれるんでしょう?」
『私がお前のミスをカバーできない程の中途半端な心得しかないとでも?』
いつかの彼の言葉を引き合いに出して微笑めば、彼は私の手をやや強く握って立ち上がった。
その目は少しだけ挑発的に私を見下ろしていて、けれど私はその中に、少しだけ楽しそうに赤めく色を見つける。
ああ、この人はこんな顔もするのだと、私は1階のホールに向かいながらそんなことを思う。
ホールにいた楽器たちは、私達の登場にさっと楽器を構え、小さく鳴らして音合わせを始めた。その間に彼は私の手を引いて、ホールの真ん中へと歩いていく。
私の両手が取られ、ダンスの始まりの構えで制止する。彼はグランドピアノのNさんに目配せをするように一瞥し、その直後にあの曲が奏でられ始めた。
私が何度も練習していた、緩やかなバラード調の、スローテンポな4拍子の曲だ。Nさんの演奏に合わせて、他の楽器たちも美しい音色を奏でる。
思わずその曲に聞き惚れそうになっていたけれど、私ははっと我に返って彼を見上げる。
彼は呆れたように笑っていた。その赤い隻眼が「遅れないように付いて来い」と雄弁に語っていたので、私は小さく微笑んで頷いた。
私の足は驚く程流暢に、4拍子の曲に合わせたステップを刻んだ。あれは夢の中の出来事だったけれど、私の記憶はあの時の足取りを覚えていたのだ。
あの時は3拍子のワルツだったけれど、ステップの基本はあのダンスと同じだった。大理石を滑るように、私はヒールを履いた靴で彼の足取りに付いていく。
そのことに彼は驚き、しかし直ぐにいつもの皮肉めいた笑みを浮かべる。
「踊ったことがない、なんて、謙遜もいいところだな」
「そうね、あれから一度だけ踊ったのよ。夢の中で、貴方にとてもよく似た人と」
「人だと?お前は私のこの姿を人と混同するのか?」
彼は自嘲めいた笑みでそう尋ねる。
私は少しだけ迷い、一瞬の躊躇の後でその赤い隻眼を見上げ、口を開いた。
「だって私、時折、貴方の中に人間の姿を見るのよ」
彼の足が止まった。私は驚いて彼を見上げ、息を飲む。今、まさにその彼が、不安そうに立ち竦む少年の姿をしていたからだ。
やはりその顔は、深い霧に隠れて見ることができない。けれどその肩は、腕は、紛れもなく人間のそれだった。
たった一度の瞬きで消えてしまうその少年、それは私の幻覚なのかもしれないけれど、それでも彼は存在しているのだと私は信じていた。
「……ごめんなさい、変なことを言って」
私は小さく謝罪をして、彼の手を今一度しっかりと握り直す。曲の切れ目を待って、私は彼に先導してステップを踏む。
彼はその瞬間、我に返ったように瞬きをして、ぎこちないダンスをしていた私の手を強く握り、イニシアティブをあっという間に奪ってしまう。
「貴方が誰であっても構わない。人であってもそうでなくても関係ない。私は変わらずに貴方の傍にいる」
その瞬間、私の手がさっと放された。
彼の隻眼を覗き込もうとしたけれど、彼はそれを許さなかった。緩やかなバラード調の曲に似合わないクイックターンで、私にさっと背を向ける。
そして戻って来た時には、もういつもの皮肉めいた笑みを浮かべる彼に戻っていた。そんな彼がおかしくて思わず笑った。
彼はそんな私を叱責するかのように、私の手を強く握り締め、再び続きのステップを刻む。私はその手を握り返し、時を忘れる。
2015.5.20