24

離れの塔にある図書室に通うようになってから、私の一日はとても忙しくなった。
先ずは本棚や本に被った埃を全て叩き落とし、外套掛けのダークさんに借りた箒で全て掃く。それが終わってから、雑巾で床を拭き、汚れを取る。
汗をかくようなことをしたのは随分と久し振りで、私はその疲労感に心地良さすら覚えながら手を動かした。

彼はそんな私を見ながら、手元にあった本を手に取り、読もうとしていたけれど、私はすぐさま駆け寄ってその手から本を奪い取った。
何のつもりだ、と眉をひそめて尋ねる彼に、私はクスクスと笑いながらこんな提案をする。

「ねえ、貴方も本を読むのなら、このお部屋を一緒に掃除する義務があると思わない?」

「……気紛れで手に取っただけだ。本を読む気などない」

「表紙を開こうとしていたのに?」

彼の揚げ足を取るような私の言葉に、しかし彼は憤ることをしなかった。
代わりに大きく溜め息を吐いて、私と同じ箒を手に取り「何をすればいい」と尋ねてくれる。私はぱっと微笑んで彼に駆け寄った。

城の主である彼は、予想通り、掃除などしたことがなかったようで、私は彼に箒の持ち方から教えなければならなかった。
力を入れ過ぎると箒の穂が痛んでしまうことや、勢いよく掃くとかえって埃が舞い上がってしまうことなどを説明してから、私は彼の箒捌きを観察することにした。
力加減が解らずに、埃を履き飛ばしてしまうことも多々あったけれど、何度か試行錯誤を重ねるにつれてすっかり慣れてきたようだ。
思ったより難しいんだな、と零す彼がおかしくて私は笑った。彼はそんな私を見て眉をひそめ、「怠けるんじゃない」と私の頭を軽く叩いた。

そこまではよかったのだが、バケツに水を入れて持ってきてくれたダークさんが、箒を手にしている彼を見て、バケツを盛大に落としてしまった。
ガシャン!という金属の音が響き、私も彼も弾かれたようにそちらを見る。
ダークさんが何に驚いているのかを察した私は、慌てて彼に駆け寄った。

「ご、ごめんなさい!私が掃除を一緒にしませんかと誘ったんです」

ダークさんは私の言葉に沈黙し、長い時間の後で小さく溜め息を吐いた。
彼等の主にこんなことをさせて、叱られてしまうだろうか。少なくとも、不快な気分にさせてしまったかもしれない。
私は彼から箒を取り上げようと踵を返したが、ダークさんは私の手を強く掴んで引き止めた。
彼の木は、驚く程柔軟に動く。私の手に伝わるその質感は間違いなく木のそれなのに、彼はその木を腕のように動かして様々なことをこなしてみせるのだ。
この城で暮らす皆の中でも、外套掛けの形が、最も人間の形によく似ているように思える。
ヘレナさんが「窓を拭ける程に器用なものは外套掛けのダークしかいない」と言っていた、その意味が少しだけ解った気がした。

「止めなくていい」

「……は、はい」

「ゲーチス様、どうかご無理をなさいませんよう」

ダークさんはそう言って彼に頭を下げたけれど、彼はそんなダークさんの言葉を一生に付すかのように肩を竦めてみせた。

「何を馬鹿なことを。私がこいつより先に根を上げるとでも思っているのか」

その言葉にダークさんは顔を上げ、「いえ、滅相もございません」と言葉を紡いだけれど、私はおかしさに笑いを堪えるので精一杯だった。
私に張り合おうとしなくてもいいのに。掃除なんて、城の主が懸命に取り組むようなことでは決してないのに。
彼に箒を持たせたのは他でもない私なのに、彼の必死さを見て、少しだけ申し訳ない気持ちになった。
部屋を出ようとしたダークさんに「ごめんなさい」ともう一度、謝罪の言葉を紡いだけれど、彼は小さく首を振って笑ってみせた。

シア、ゲーチス様を頼むぞ」

私が頷くより先に、彼は扉を開けて出て行ってしまった。
外套掛けのダークさんが笑ったところを見たのは、この時が初めてだった。

それから私は毎日、その広い図書室の中から一冊の本を部屋へと持ち帰った。
本棚には物理学や地理学、天文学といった知識を蓄えるためのものから、図鑑や辞典、そして物語の本に至るまで、あらゆるジャンルのものが煩雑に詰め込まれていた。
この本棚も後々、整頓しなければいけない。そんなことを思いながら、私はその本の山の中から徐に一冊だけ引き抜く。
私が読んでいたのは専ら物語の本だったけれど、その本の中に出てきた解らない言葉は、辞典や図鑑を開いて調べた。
ページを捲る乾いた音が鼓膜を揺らし、古い紙の匂いが鼻先をくすぐった。その至福の時間を、私はこの上なく楽しんでいた。

「ねえ、今度は何の本を読んでいるの?」

そして何よりも、この城では、本に夢中になる私を誰も叱責しない。
本が好きなんて、変わった子だとは言われるけれど、そこに非難の温度は含まれていなかった。
私が「変わり者」であることを、寧ろ皆は喜んでいるような節さえあった。
私はそのことに少しだけ驚き、けれどすぐに皆のそうした雰囲気に馴染んでいった。
トウコさんも、私が朝に夜にと読んでいる本に興味を示し、その内容を尋ねてくれる。その本の中に開かれた物語を、こうして誰かに伝えるのはとても楽しかった。

「……へえ、箒に跨って空を飛ぶんだ。おかしな世界ね」

「杖を使って透明なポケモンを出したり、物を浮かせたり、ポケモンを小さくしたりもできるのよ」

「ふふ、でもこの城だって負けていないわよ。その本の世界に、ひとりでに動いたり、喋ったりする鏡台やピアノはいないでしょう?」

得意気に鏡台の鏡をキラリと光らせてみせた彼女に、私は相槌を打ちながら微笑む。
そう、この本の中の世界も素晴らしいけれど、このお城に住む彼等だって、同じようにとても素敵なのだ。
彼等にかけられているものが、魔法なのか、それとも呪いなのかは解らない。けれど彼等はその姿を恥じることなく、日々、誇りを持って生きている。
そんな彼等の姿はとても眩しく、私は密かに彼等のことを尊敬していた。

「それにしても、掃除をするゲーチスなんて、私も見たことがないわ。Nが聞いたらどんな顔をするかしら」

トウコさんは本のこと以外にも、私が今日、この部屋の外で経験した話を聞いてくれる。
ゲーチスさんとどんな話をしたか、今日はどんなパンを作ったか、他の家具や食器たちはどんな風に過ごしていたか、など、思いつく限りの出来事を彼女に報告していた。

お喋り好きな彼女は、私の言葉に相槌を打ちながら、時に豪快に笑い、時に辛辣な言葉を投げる。
特にゲーチスさんの話題には、彼のことをかなり馬鹿にするように笑ってみせたり、新しいことを始めたという彼に感心したりと表情豊かだ。
彼のことを呼び捨てにし、彼を敬う素振りを見せない彼女だが、彼の話には興味を示してくれる。
解りにくいけれど、彼女も彼女なりに彼のことを案じているのかもしれなかった。

「ロールパンが食べたいなあ」

そんな彼女が時折、そんな言葉を呟く。
実は、彼女からこの呟きを聞くのはこれが初めてではない。もう何度も、私は彼女のそんな言葉を聞いている。
そして彼女が求める食べ物は、決まって何故か「ロールパン」だった。「ロールパンが好きなの?」と尋ねれば、彼女は呆れたように笑って溜め息を吐く。

「……あんた、私が食べ物を口にしたことがあるように見えるの?」

「あ、ご、ごめんなさい」

人間の言葉を操り、人間のような仕草や行動をしてみせる彼等が人間ではないことを、私はたまにこうして忘れてしまいそうになる時がある。
彼等と私との差異は明らかに生じているのに、私は時折、彼等の中に人間の姿を見ることがあるのだ。
例えば、ロールパンという単語を口にして、諦めたようにその青い目を伏せる彼女は、美しい木製の鏡台ではなく、黒い髪を持った、ポニーテールの少女に見える。
そんなことを、彼女の前で口にしたことはただの一度もないのだけれど。

「あんたがゲーチスに食べさせたロールパン、あれを食べてみたいわ」

「……私の焼いたものよりも、厨房の皆が作ってくれたパンの方がずっと美味しいよ」

私の料理など、庶民が生きる糧として身に着けた簡易な手段でしかない。誰かにご馳走できる程の料理の腕は持ち合わせていないのだ。
けれど彼女はクスクスと笑い、「解っていないのね」と告げる。

「あんたの作った、美味しくないパンが食べたいのよ」

「……お、美味しくない訳じゃないわ。ゲーチスさんだって、美味しいって言ってくれたのよ」

慌ててそう訂正する私に、トウコさんは声をあげて笑った。
彼女はいつも陽気に笑ってみせるけれど、今日の笑い声は少しだけ寂しそうだった。
けれど彼女のそうした孤独に、触れることが許されていないと知っていたから、私は何も聞かなかった。彼女もそれ以上、言葉を紡がなかった。
本を閉じて枕元に置き、蝋燭の火を消しておやすみなさいと呟けば、私の目蓋が眠りに溶ける頃に優しいアルトの声音が返ってくる。

「おやすみなさい、シア


2015.5.18

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