19

「私のことを、知りたいと言ったな」

その日の夜、私が椅子に着くや否や、彼はそう口を開いて私を見据えた。
そのバリトンに頷くことで肯定の意を示せば、彼は小さな溜め息を吐いてその隻眼を伏せる。

「お前の知りたいことに答えよう」

驚きと困惑が一度に訪れ、くらくらと眩暈がした。
違う。昨日までの彼とは、何かが決定的に違っている。
先ず、彼はもっと気性の荒い人だと思っていた。出会い頭に人を侮辱し、身勝手に振舞うことしか知らないような、そうした人なのだと私は捉えていた。
こんな風に、穏やかに口を開いて言葉を紡ぐことができる人だったなんて。私は新しく見つけた彼の一面に驚きながら、確認のために一つだけ尋ねることにした。

「私は、貴方と話をしてもいいの?」

「嫌いな相手とはもう何も話したくないか?」

『付いて来ないで!私は貴方が嫌いなの。』
彼は私の言葉を覚えていたらしく、その一節を引用するようにやや大仰な言い方で私を軽く挑発した。
その言い方に不快感を覚えたけれど、屈辱は感じなかった。彼のことを嫌いだと言ったのは他でもない私だし、何よりその言葉には棘がなかった。
寧ろ私を嗤うための言葉というよりは、自嘲のための言葉であるように思えたのだ。
彼の皮肉めいた、角のある言い回しは、彼の口調に染みついた一種の癖のようなものであるのかもしれなかった。

「……いいえ、話したい」

私は慇懃無礼なあの丁寧な言葉を取り払って、自然体で彼と向き合うことを選んだ。
『彼はとても不器用な人です。人を傷付けることしか知らない、少し歪な方なのです。けれど決して、貴方を憎んでいる訳ではないのですよ。』
バーベナさんの言葉を思い出し、私は深く息を吸って心を落ち着けた。
彼が人を傷付けることしかできないのなら、私は彼の言葉や態度に傷付かなければいい。いつものことだと受け流していればいい。
そうした技量も、この場で彼と向き合うには必要なものなのかもしれなかった。

「貴方は10年間、ずっとこのお城で暮らしているのよね。10年前から、貴方も、お城の皆も、今の姿のままだったの?」

「そうだ」

運ばれてきた前菜に口を付けながら、私は次の質問を考える。
10年前から、このお城には動く家具や食器、楽器たちが住んでいたのだ。そして、彼もその時からずっと此処にいた。
ひとりでに動き、自我を持つ彼等について詳しく尋ねようと思ったけれど、私は喉まで出かかった質問を寸でのところで飲み込んだ。
『……申し訳ないが、オレからはそれ以上のことを口にすることはできない。それが我々にかけられた魔法のルールだからね。』
燭台のダークさんの言葉が脳裏で反響していた。彼等の秘密について深く知ることは許されていないのだと、私はあの言葉で理解していた。
深く追求しないことが、私を今ももてなしてくれる彼等への誠意になるような気がして、私は別の質問を選んだ。

「私以外の誰かが、このお城で暮らしたことはなかったの?」

「城に迷い込んだ人間なら、何十人もいた。だが直ぐに逃げ帰った。お前が来るまで、この城に住んだ人間はいなかった」

「一人も?」

「そう言った筈だが」

10年間、このお城にはただの一人も人が住んだことがなかったのだ。15年しか生きたことのない私には、10年という月日でも途方もない長さに感じられた。
だから彼等は、私が此処に暮らすことになってあんなに喜んでくれたのだ。
誰かのために食事を振舞うことも、誰かのために掃除をすることも、この10年間、ただの一度もなかったのだ。
この、気難しい主に仕え続けながら、彼等は静かすぎる城の中で10年を過ごしてきた。
『お前に、この城の孤独が解るか?』
彼の言葉の重みを、私はようやく理解するに至ったのだ。

「貴方は寂しかったの?」

スープに手を付けようとしていた彼の手が止まる。

「だから、私をこのお城へ置いたの?」

私はスプーンをスープの中へと沈めた。ずっと知りたかったことを、彼の口からようやくきくことができるかもしれないからだ。
心臓が大きな音を立てて揺れていた。どこまでも人間らしくない彼の姿の中にある、確かな臆病さと繊細さを、私は真っ直ぐに見据えて、彼の言葉を待った。
長い沈黙の後で、彼はそのバリトンを絞り出すように紡いだ。

「そうだと言えば、お前は私を許すのか」

それは、人を傷付けることしか知らない彼の、彼らしい、皮肉めいた肯定の仕方だった。
そうだと解っていたから、私はゆっくりと首を振った。

「いいえ、だからこそ許せない」

彼は伏せていた顔を上げ、その目を鋭くさせて私を視線で射抜いた。
その目には、私への非難と困惑の色が渦を巻いていた。私はなるべく声を荒げないようにして、穏やかに、けれど屹然とした態度で言葉を組み立てる。
彼の気分を害してしまうかもしれない。彼の機嫌を取りたいのなら、正直に答えるべきではなかったのかもしれない。
けれど彼が嘘を吐かなかった以上、私もそれと同じ誠実さで彼の問いに応えたかった。それが彼を傷付けることになると知っていながら、どうしても止められなかったのだ。

「人間の話し相手が欲しかったのなら、私に、また来てくれと言えばいいだけのことだったと思うの。そうすれば、私はまた此処へやって来たわ」

「解ったような口を利くな。誰が好き好んで、こんな醜い獣のいる城へもう一度赴くというんだ」

「だからって、どうして相手を閉じ込めてしまえばいいなんて発想に至るの?
迷い込んだ人間を捉えて、牢屋に閉じ込めるようなことをすれば、その段階で貴方を恐れて、まともに会話なんてできなくなってしまうじゃない」

シェリーが、その典型的な例だ。
地下に閉じ込められたシェリーは、泣きながら私の名前を繰り返し呼び続けるだけで、既に人としての正気を失いかけていた。
彼が圧倒的な力で彼女を捻じ伏せ、あの牢屋に放り込んだことは明白だった。そんなことをして恐れられない方がどうかしている。
下手をすればその溝は一生、埋まらないだろう。そんなやり方で、どうしてまともに彼と会話をすることができよう。
彼の取った行動は、最初から間違っていたのだ。

私は自分の声音に非難の色を含ませないように気を付けながら、ただ事実を淡々と告げた。
彼は呆れたように大きく溜め息を吐いて、私をその隻眼で見据えた。

「……どちらにせよ同じことだ。普通の人間は私の姿だけで怯え、逃げ出す」

「それじゃあ、私が普通じゃないのね」

困ったように笑いながら肩を竦める。自嘲めいた言葉を紡いだけれど、私は特に傷付いてはいなかった。
私が普通ではないことなんて、ずっと前から解りきっていたのだから。
ダンスも歌も、料理も裁縫も習わずに、本ばかり読んでいる私のことを、普通だという人間など、あの村にはいなかった。私はずっと「変わり者」だったのだ。

そんな風に非難されることがずっと屈辱だった。けれどどうしても普通になることはできなかった。
普通になるために、私の一番好きなものを捨ててしまいたくはなかったのだ。
だってそれを捨ててしまえば私は私ではなくなるから。普通の人間として生きるためには私を捨てるしかなかったから。
だから私は私の自由を貫くために、「変わり者」で在ることを選んだのだ。

けれど、今はそんな曰くつきの称号が少しだけ誇らしい。
だって「変わり者」だから、彼と話ができた。恐れることなくこうして向き合えた。
私が普通ではないから、こうして彼の前で笑えている。

「貴方がこの10年間、迷い込んだ人間にどんな反応をされたのかを私は知らないけれど、」

私はもう一度、スプーンを手に取る。料理は冷めてしまっていたけれど、それすらも少しだけ愛おしかった。
湯気の消えてしまったスープを一口だけ運んでから、私はそっと口を開く。

「今、貴方と一緒に食事をしているのは、その「普通の人間」じゃないわ。私よ」

普通とは程遠い、変わり者。自分の意志を貫くために、普通を諦めた愚かな子。
私はそうした人間だった。村に住んでいた頃は、そんな自分を卑下したりもしたけれど、今はただ穏やかに、あの日のことを振り返ることができる。
私は彼の隻眼に懇願する。


「私を見て」


私を見てください。貴方を嫌っている私を、それでも貴方と共に夕食を共にすることを選んだ私を見てください。
貴方を知りたいと思っている、普通じゃない、変わり者の私を。自分の意志を貫くために、「普通」を諦めた愚かな私を。

「貴方が羨ましい。冷めてもこんなに美味しい料理を、10年間、ずっと作ってもらっていたなんて」

空になったスープのお皿を両手で掴み、軽く掲げてみせる。
彼は茫然とした表情で、クスクスと微笑む私を見つめていた。


2015.5.16

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