13

「城の中なら何処へ行ってもいいし、何をしても構わないが、一つだけ」

彼はその鋭い目で私を見据えた。
出会い際に私の腕を切りつけ、シェリーを問答無用で牢屋に押し込んだ人物にしては、あまりにも寛大すぎるその許可に私は驚く。
てっきり、勝手に城を歩き回るなと言われるのかと身構えていたのだが、それ故に、その「一つだけ」の後に続く言葉が不安で仕方がない。
私は刑を執行される囚人のように、冷たい汗をかいた両手をぎゅっと握り締め、目を伏せて彼の言葉を待った。

けれどあの人が私に要求したことは、呆気に取られる程に簡単なことだった。

「夜の7時に食卓に着き、共に食事をすること」

食卓は1階にある、とだけ説明して、彼は元来た階段を再び1段ずつ登り始めた。
どういうことだろう。私はダークさんの言葉の意図が解らずにその場で立ち竦み、沈黙する。
あの人と一緒に食事をする。それはとても簡単なことだ。おそらく、私が何もしなくても、厨房にいた彼等が食事を用意してくれる。私はただそれを座って食べればいい。
そんな造作もないことを、どうして彼は命じたのだろう。何より、どうして彼はそんな命令を下してまで、私と一緒に食事をしようとしているのだろう。

「バーベナさん」

「はい、何でしょう?」

「私は、あの人……ゲーチスさんに嫌われているんですよね?」

確認のために尋ねたその問いに、あろうことか彼女は慌てて顔を横に振る素振りを見せたではないか。
とんでもありません、と続けた彼女は、困ったように笑いながら言葉を重ねる。

「ゲーチス様は、その、気難しいところがあるお方ですから、シアさんがそう感じるのも無理はないと思います。けれど、どうかご気分を悪くなさらないで。
彼はとても不器用な人です。人を傷付けることしか知らない、少し歪な方なのです。けれど決して、貴方を憎んでいる訳ではないのですよ」

穏やかなバーベナさんのその声音はまるで聖母のようで、誰もの心を鎮めて笑顔にする響きを持っていたのかもしれない。
現に私も、肩を竦めて微笑むことができたけれど、それと彼のやり方が許せないのとはまた別の話だ。

「ごめんなさい、バーベナさん。私はまだ、彼を許せそうにありません」

夕食には出ますから、と告げれば、彼女はほっとしたように微笑んでくれた。
この城の人は皆、ゲーチスさんの命令に逆らえない。どんな命令でも聞き入れる。
それは彼がこの城での絶対的な位置にいるからだと思っていたけれど、彼等は彼等なりに、ゲーチスさんのことを案じているのだ。
その不思議な関係を、少しだけ悲しいと思ってしまった。彼等はゲーチスさんの歪さに気が付いているというのに、それを正す権利を持たないのだ。

『けれど決して、貴方を憎んでいる訳ではないのですよ。』
それは、解る。
本当に私を憎んでいるなら、昨日のあの時、その鋭い爪で私の喉を切り裂いてしまえばよかったのだ。
私はあの場で殺されていてもおかしくなかった。それなのに今、こうして生きていて、上流貴族のような畏れ多い待遇まで受けているのだ。
加えて、嫌いな人と会えて夕食を共にしようなどという発想は先ず浮かばないだろう。彼は私に興味があるのか、それとも、他の理由があるのか。

……いずれにせよ、私は彼のことをどうしても許せそうにない。
置時計のダークさんを介して自分の言葉を伝えに来るそのやり方も、夕食を共にすることを「命じる」その姿勢も、とても不愉快だ。
言いたいことがあるなら、私に直接言いに来ればいいのに。私はこの城を随分と見て回ったけれど、ゲーチスさんの姿は一度も目にしていない。
まるで、私から隠れているようだ。

城の中を歩き回り、皆に挨拶をした。
主要の仕事、料理や洗濯といった仕事は主に1階で行われているようで、2階や3階は殆どが客室や展示室になっていた。
絵を描くための部屋や、楽器を演奏するための部屋まであったのには流石に驚いた。この広いお城には、どんなことをするにも専用の部屋があるのかもしれない。
本を読む部屋はありますか、と尋ねれば、バーベナさんは困ったように微笑んで「残念ながら、その部屋には鍵が掛かっていますので」と教えてくれた。
4階より上には、そうした鍵のかかった部屋が幾つかあった。見るところがないので早々に階段を降りたけれど、もしかしたら、まだ見ていない場所もあるのかもしれない。

用意された部屋に戻り、バーベナさんが運んできてくれた軽食を食べた。
厨房の皆が作ってくれる料理は、驚く程に美味しい。もう少し親しくなったら作り方を教えてもらおう、と画策しながら、私はそのサンドイッチを味わった。

それから、お風呂場に向かった。あまりにも広い浴槽に眩暈を覚えながら、いつもより熱いそのお湯に、火傷をしないように気を付けながら入った。
その後、タオルで長い髪を乾かしてから自室の隣へ行って、Nさんのピアノを少しだけ引かせてもらった。
片手で音を追い掛けるのがやっとで、両手を使ったりペダルを踏んだりといったことはまだできない。
おまけに何度も間違えて、とてもではないがメロディと呼べるような代物を奏でることはできなかった。
みっともない曲をずっと聞かされていた筈なのに、Nさんや他の皆は嫌な顔ひとつしなかった。
そんな彼等のためにも、もう少しまともに引けるようになりたいと欲を出し、練習を続けた。

楽しい時間というのはあっという間に過ぎるものだ。その後に緊張すべきことが控えていれば尚更、その時間は速度を増して私の手をすり抜けて行ってしまう。
ようやく片手でメロディを叩けるようになった頃に、大きな足音が聞こえて私の名前を呼んだ。

シア、そろそろ夕食に着ていく服を選ばないと間に合わないわよ」

……鏡台も、歩くことができるらしい。
そんな事実に驚いた後で、私は窓の外を見遣る。高く昇っていた筈の日は西の空で真っ赤に燃えていた。
私はNさんや皆にお礼を言ってから楽器の部屋を後にして、トウコさんと一緒に自室へと戻る。
「さて、あんたにはどれが似合うのかしら」と呟きながらクローゼットの中を見る彼女に、私は浮かんだ疑問をそのまま投げてみる。

「このエプロンドレスじゃ駄目なの?」

「あんたはその服が気に入っているのかもしれないけれど、それは使用人の服だからね。
あいつがあんたを誘ったのはただの夕食じゃないわ、晩餐よ。それなりの格好をするのがマナーでしょう?」

いくら相手があのゲーチスといえど、ね。
そう付け足してトウコさんはクスクスと笑った。
この屋敷に暮らす彼等は総じて、ゲーチスさんのことを主として無条件に従っているものだとばかり思っていたけれど、トウコさんの反応は他の皆と違っていた。
明らかに、ゲーチスさんに対して敵意というか、軽蔑の意を込めた言葉ばかり紡いでいるような気がする。

トウコさんは他の方みたいに、ゲーチスさんを案じたり庇ったりしないのね」

「当たり前でしょう?私はあいつが大嫌いだもの」

驚く程にあっさりと、彼女の口から「大嫌い」という言葉が零れ出たことに私は思わず笑ってしまう。
彼女の言葉はいつだって尖っている。普通なら誰かに向ける負の感情は、もう少し優しく包んで話すものだけれど、彼女はそんなことはしないらしい。

「それに、他の皆はあいつを主として慕っているのかもしれないけれど、私の直接の主はそもそもあいつじゃないの。
そりゃあ勿論、立場的にはあいつの方が上だけれど、あいつの命令に従う義理は私にはないのよ」

彼女の直接の主は、ゲーチスさんではない。
その言葉の意味するところが解らなくて首を傾げたけれど、彼女はその話題をぽいと捨て置き、私にクローゼットの中にあるドレスを取るように指示した。
ゲーチスさんが彼女の主ではないのだとして、それじゃあ、彼女の本当の主は何処にいるのだろう?もうこの城にはいないのだろうか?
そう尋ねようとしたけれど、できなかった。詳しく話すことはきっと、彼等に掛けられている魔法のルールに反するのだ。
『……申し訳ないが、オレからはそれ以上のことを口にすることはできない。それが我々にかけられた魔法のルールだからね。』
燭台のダークさんが言っていた言葉を思い出し、私はそれ以上を尋ねることを止めた。

彼女が選んだのは、モノトーンの美しい装飾が施されたドレスだった。
そのあまりの美しさと、使われている布の多さに思わず私は怯んでしまう。

「……トウコさん。このドレスはとても綺麗だけれど、私はこういうものを着たことがないの。
初めてでもそれなりに着こなせるような、布が少なくて動きやすそうなものはないかしら?」

「ふふ、難しい注文をするのね。毎日のことだから、早めに慣れてもらうのがいいんだけど、まあ初めてなら仕方ないわね」

毎日、このドレスを着ることになるのか。ずしんと重たいものが背中にのしかかったような気がした。
夕食を一緒に食べればいいだけのことだった筈なのに、まさかドレスを着なければいけないなんて。
私にドレスなんて絶対に似合わない。美しいものを着たところで顔負けしてしまう。
そんなことを思っていると、彼女は両側の鏡を使ってクローゼットの奥を探し始めた。

「あ、これならいいんじゃない?ちょっとシンプルすぎるかしら」

彼女が鏡で示したドレスを手に取ってみる。淡い青のドレスで、先程のものよりも使われている布がずっと少なく、軽い。
これにします、と即決して、私は早速その服に着替えることにした。
……背の低い私にはそのドレスの丈は長すぎて、やって来たミシンに光の速さで丈を調節してもらったのは此処だけの話だ。


2015.5.15

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