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「!」

頬に僅かな痛みを感じて振り向けば、彼のパートナーであるロトムがふわふわと宙に漂っていた。静電気での挨拶に、私もこんにちは、と言葉で返す。
そう、この村に住んでいるのは、人間だけではない。私達人間は、ポケモンと協力し合って暮らしている。

そうしてある程度の年頃になると、自分だけのパートナーを連れて暮らすことが許されるのだ。
大人から譲り受けたり、野生のポケモンを捕まえたり、タマゴを見つけて孵したりと、出会う方法は様々だ。
私のズバットは、村の外れの洞窟で捕まえた。今ではクロバットに進化している。物凄い速さで空を飛ぶ彼は、私の自慢のパートナーだ。
体が少し大きいので、屋内に連れ歩けないのが少し悲しいところだけれど、いつもモンスターボールに入れて一緒にいる。

「そう言えば、シアさんとはポケモンバトルをしたことがありませんでしたね」

服の裾を引っ張るロトムを窘めながら、彼はそんなことを口にした。
ポケモンバトルとは、互いの連れているポケモンと戦わせる競技のことだ。都会の町で流行しているらしく、この村でも数年前から行われるようになった。
アクロマさんのロトムは、30cm程の小柄ながらかなり強い。少なくとも、私は彼のロトムが負けたところを見たことがない。
けれど、彼が強いことと、私のクロバットが負けることとはまた別の話だ。私のクロバットだって、ここ数か月は無敗を記録している。

「今度、やってみましょうか。シアさんがどんな戦い方をするのか、わたしも興味があります。勿論、バトルをするからには全力を出させて頂きますよ」

「私だって、負けませんよ。私のクロバットに先制を取ったポケモンはいないんですから」

そんな勝気な台詞を口にして笑ってみせる。彼はこんな大口を叩く私のことを許してくれる。ただひたすらに心地良いこの時間を私は愛していた。

けれど、いつまでも此処にいる訳にはいかない。夕食の支度をしなければいけないし、彼も研究の続きに取り掛かる頃だろう。
「また来てもいいですか?」と尋ねれば、彼は何も言わずに微笑んで私の頭を撫でてくれる。
それは彼の優しすぎる無言の肯定だった。彼に対するこのふわふわした感情は、憧憬と尊敬と愛着から成り立っていると知っていた。
その先の思いがあることは知っていた。私の年齢ならばそうした想いに進むことは当然のことだったのかもしれない。
けれど私はこの距離で満たされていた。決して遠くはないけれど、近過ぎない。この優しい距離が好きだった。それでよかった。それがよかったのだ。

パタン、と頑丈な木の扉が閉まる音。これは私のユートピアと現実とを跨ぐ合図だ。
私は大きく息を吸い込んで、木々の生い茂る小道を駆ける。木漏れ日が眩しくて思わず目を細める。さわさわと葉が擦れる音が心地いい。
夢を見ていられるのはここまで。人通りの多い通りに差し掛かれば、私は真に一人なのだ。
心臓が不安気に揺れている。変なの、何も怖がることなどないのに。そう言い聞かせながら私は大きな一歩を踏み出す。

膝より少し長い丈のワンピースを揺らして、石段を駆け下りる。
流行りの膨らんだ袖をしている訳でも、布が何枚も重ねられている訳でもない、シンプルな1枚のリネンで出来た水色のワンピースだ。
そのワンピースのポケットから、モンスターボールを取り出し、宙に投げる。現れた闇色の体が低空を旋回し、空を飛ぶ。
私はクロバットに手を振りながら、家までの道を歩き始める。

パンを売る人、野菜を買う人、井戸の傍で集まる婦人、先日の大雨で崩れた屋根を直す男性、縄跳びを楽しむ子供、そんな何もかもが秩序立って構成されていた。
私はきっと、この秩序だった世界の限りなく端っこにいる。けれどそれでいい。構わない。アクロマさんに貰った本をぎゅっと抱きしめて、速足で歩を進めた。

シア、こんにちは!今日もいい天気だねえ」

「こんにちは、お姉さん」

けれど、この静かな村の気さくな住人は、こんな私にも声を掛ける。
有り体な挨拶を交わし、その場を去ろうとした私だが、当然のようにそれだけでこの会話が終わる筈がなかった。
彼女は私の持っていた分厚い本に視線を落とし、わざとらしく肩を竦めてみせる。

「また本を読んでいるの?本の恋人も程々にしないと、妻になり損ねて、あっという間に行き遅れちゃうわよ」

この小さな村で、20を過ぎて独身でいるということは、女性の価値をひどく損なわせるらしい。
故に15歳になれば、女性はいつでも家庭に入れるように、料理や裁縫、掃除といった家事全般を学び始める。
更には男性に見初められるために、歌やダンスといった華やかなレッスンを受ける者もいるのだ。……というか、事実、そうした女性が殆どを占める。
15歳にもなって、ドレスの一着も持っていない。ダンスのレッスンもお化粧もせず、本を片手に走り回っている。そんな人間は私くらいだ。

「ふふ、そうですね。気を付けます」

妻になり損ねる。その言葉は何よりも深く女性の心を抉る言葉だったのだろう。
けれど私にとって、その言葉はまだダメージが少ない方だった。結婚に興味がなかったし、何より堂々とした非難は好感が持てた。
寧ろ、道端の婦人が、私の方をちらちらと見て小さな声で「また本ばかり」「ほら、あの子」と紡ぐ、そちらの方が余程、心臓に刺さる。
このお姉さんのように、こうして面と向かって堂々とそういうことを口にしてくれた方が楽だ。こちらにも、笑ってあしらうだけのチャンスが与えられているから。
貴方達の言葉で私は傷付かないのよ、と、私の笑顔をもって知らしめることができるから。
それがたとえ、私の下手な嘘だったとしても、そうする他なかったのだ。そうすることでしか、私の矜持は保てそうになかったのだ。

村の人は総じて、噂好きで、飽きっぽく、他人のことを好き勝手に吹聴する。だからそんな彼等に付き合う必要は全くない。
私のことを理解してくれている人は他にいる。私を肯定し、認めてくれる人を私は知っている。だから大丈夫なのだ。
たとえ彼等の言葉に身を切るような痛みを感じたとしても。

シア!」

村の人が私を呼ぶ、その声には、8割のからかいと冷やかし、そして2割の非難が含まれている。
そんな中、明るいソプラノで私の名前を呼ぶ人物と言えば、「彼女」を置いて他にいないだろう。
この村一番の美少女が、大通りの向こうで大きく手を振っている。私も小さく手を振り返せば、彼女は屈託のない笑顔を浮かべて駆け寄ってきた。
そのすぐ後ろを、少女よりも少し背の高いポケモンが追いかけている。彼女のパートナー、サーナイトだ。

「探していたのよ。またあのお屋敷で本を選んでいたの?」

「そうよ。見て、アクロマさんに貰ったの!」

弾けるような笑みを向ければ、彼女は困ったように肩を竦めてそのソプラノを震わせる。
差し出した本をまじまじと見ながら、小さく首を傾げる。ストロベリーブロンドの長い髪が宙にキラキラと波打つ。
本のタイトルを呟くその整った唇も、すっと通った鼻筋も、マッチ棒を余裕で置くことができそうな長い睫毛も、薄く染まった頬も、全てが驚く程に綺麗だ。
思わず息を飲んでしまうような美しさを、私と同い年のこの少女は持っていた。
かといってそれを鼻に掛ける様子を微塵も見せない。
彼女は寧ろ、自分に自信がないのだ。人並み以上の繊細さと臆病さをその華奢な肩に背負い込んでいる。怖がりで臆病で、少し卑屈なところもある。
村の女の子が欲しいものを、彼女は全て持っている筈なのに、これ以上ない程に自分に自信を持つ要素を兼ね揃えている筈なのに、彼女はいつだって不安そうに笑っている。

シアは本当に本が好きなのね。私も、そんな風に夢中になれる何かが欲しいなあ」

普段は決して向けられることのない羨望の言葉を、他でもないシェリーに向けられていることに気付いた私は、あまりの驚きに言葉を失ってしまう。
この、村一番の美少女は、あろうことかこんな変わり者の私に羨望の視線を向けるのだ。
彼女は本が好きな私を蔑まない。皆の前でダンスをすることが嫌いな私を窘めない。私を肯定し、認めてくれる。そんな稀有な人間はアクロマさんを除けば彼女だけだ。

「ダンスは好きじゃないの?」

「いいえ、好きよ。とても楽しいもの。でも夢中になれるかと言われれば、きっとそうじゃないの。
シアは違うのよね。だって楽しい本を見つけたら、時間を忘れて、夜が明けるまでずっと読んでいるものね」

本の続きを読み進めたいがために、徹夜をしたのは一度や二度ではない。
そのことを指摘してクスクスと笑う彼女の右手から、野菜の入った重そうなバッグをそっと奪い取れば、彼女は驚いたようにそのライトグレーの目を見開く。

「……ふふ、こんな風に気配りの上手なシアの良さに、どうして村の人は気が付かないのかしら?」

「そんなことを言うのはシェリーくらいよ」

私は困ったように笑って肩を竦める。彼女は私に向けられる奇異と非難の視線に気が付いていないのだろうか。
けれど、私の隣にシェリーが並ぶことで、その奇異と非難の視線がぱっと消え失せてしまうことを私は知っていた。
代わりに、村一番の美少女に対する、女性からの羨望と憧憬の視線、そして男性からの熱い好意めいた視線が、隣の彼女に雨のように降り注ぐのだ。
成る程、シェリーが私に向けられる好奇の視線に気付かないのもやむを得ない。

他愛もない会話をしながら、私達は家への道を歩く。彼女は綺麗なピンクのドレスで、私は麻の水色のワンピースで。
私達に血の繋がりはないけれど、両親が都会に働きに出ていることもあって、数年前から私とシェリーは二人で暮らしているのだ。

……ああ、でも、彼女はあと1年か2年くらいしたら、何処かの家へ嫁いでしまうのかもしれない。
少し寂しいけれど、それがこの村では普通のことなのだろう。私が、普通ではないだけの話だ。


2015.5.13

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