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「お前の話が聞けてよかった、ありがとな」

そう告げて乗船場へと歩き始めたグズマに、少女は両手を強く握り締めて、その細い喉から美しい声音を絞り出した。

「……貴方はミヅキさんを、助けてくださるのですか?」

「はあ?」

グズマの性分がどうしようもないまま、容易には変化し得ないのと同じように、
この少女の性分もまた、エーテルパラダイスという箱庭を衝動的に飛び出したくらいで、どうにも変わるものではなかったのだ。
閉鎖的ではあったが至極恵まれたところで息をしていられた彼女は、やはり恵まれた思考で美しく優しい推測をする。
グズマが「彼女」を助けるために、わざわざカントーにまで足を運び、自分の話を聞きに来てくれたのだと、
確固たる情報の得られた今、いよいよグズマは「彼女」を助けに行こうとしているのだと、この少女は本気でそう、思っている。

けれどグズマは違う。彼はそうした美しい思考とは、どこまでも相容れないところを生きている。
だから彼は笑いながら、少女の問いを馬鹿にしたように否定する。少女の美しい言葉を、彼の淀んだ言葉で塗り替える。

「助ける?馬鹿言っちゃいけねえなあ、オレはスカル団ボスのグズマ様だぜ?人助けなんてやってられっかよ。オレはな、ぶっ壊しに行くんだ」

「彼女」を助けに行く。「彼女」をぶっ壊しに行く。
助けに行くためにポケモンリーグを勝ち抜く。ぶっ壊しに行くためにラナキラマウンテンを登る。
その本質はどこまでも同じところにあるのだと、解っていながら互いは互いにとっての真実に相応しい言葉を選ぶのだ。相容れなくても、譲らないのだ。

「そういやお前、タマムシシティの黒蜜プリンって知ってるか?」

「くろみつ……?いいえ、初めて聞きました」

不思議そうに「そのプディングがどうかなさったのですか?」と尋ねる彼女は、おそらく「彼女」の故郷が此処であることを知らないのだろう。
その黒蜜という未知の食べ物を、「彼女」がこの上なく愛していたことも知らないのだろう。言わなかったのだ。伝えなかったのだ。
だからこそ「あいつの好きなものだったらしい」と伝えることがどうにも憚られてしまった。

『わたしの知らないミヅキさんの好物を、どうして貴方が知っているのか』

そうした絶望の心地を、この美しい少女が抱いてしまうことなど簡単に読めた。
故にグズマは「さっきの煩い子供が教えてくれたんだ、美味いらしいぜ」と、告げるだけに留めておく他になかったのだ。
それが、子供のままにその背を高く伸ばした彼の為せる、最上の気遣いであったのだ。彼はもうこの少女を傷付けることができなかった。傷付けてはいけないと、思っていたのだ。

「じゃあな」

ヒラヒラと片手を振って、グズマは少女に背を向ける。
視線を逸らす直前、深く深く俯いて、あの写真を握り締める少女の姿を視界の端に捉えながらグズマは思った。

この少女こそ主人公だったのではなかったか。
主人公がこのように傷付き絶望することなど、決してあってはならないのではなかったか。

アローラの島を遠くの海に認めた瞬間、グズマの胸を占めたどうしようもない安堵の心地は、どうにも言葉にすることの難しい、複雑で混沌としたものだった。
いい思い出と悪い思い出を数えれば、確実に悪い思い出の方が多い場所であった。彼は自らの手で自らの故郷を汚していた。そうすることでしか生き残れなかった。
だからこの島を出ることが叶うとすれば、それはそれはせいせいした、爽快な心地になって然るべきであった。
けれどそうしたグズマの予測を裏切り、グズマの心はどこまでも凪いでいた。安心していたのだ。帰ってきた、此処が自分の帰る場所だと、心からそう思えた。思ってしまった。

『大好きですよ!』

「彼女」の言葉はアローラの全てに向けられていた。あの煩い子供はいつだって「大好き」「大好き」と、媚びを売るように、縋るように生きていた。
けれどきっと、彼女の安息の地は此処ではなかったに違いない。彼女にとっては、あの冷たい潮風の吹く土地こそが「帰る場所」であったに違いない。
どんなにアローラを愛しても、その住人やポケモンに受け入れられたとしても、愛されたとしても、やはり此処ではなかったのだ。
そのことを、グズマはようやく推し量るに至ったのだ。

クチバシティを不快な、気味の悪い町であるとは微塵も思わなかったが、やはり「此処ではない」という違和感は、あの船着き場に足を下ろした時からずっと、ずっと続いていた。
大人のなりをした彼でさえ、たった半日しかアローラを離れていなかった彼でさえ、そうだったのだ。
まだ11歳の、見た目も心も子供のかたちをしたあの少女にとって、見知らぬ土地に放り込まれることへの、拒絶や不安の心地は計り知れないものであったのだろう。

けれど彼女は、そうした不安や拒絶の心地を、アローラへの博愛でものの見事に塗り替えていた。大好き、と呪文のように唱えながら、彼女は自らの郷愁に蓋をしていた。
その証拠に、彼女の口から「カントー」という言葉が飛び出したことは、グズマの知る限りではただの一度もない。
誰よりも長く彼女の傍にいた筈の、あの少女でさえ知らなかった。彼女は頑なに、自らが「余所者」であることを隠していた。

彼女の強すぎる意思は、自らが余所者であることを否定していた。アローラに溶けようと必死だった。
けれど彼女の心は、あの冷たい潮風の土地を捨てきれてはいなかった。グズマはそれを知っていた。あの少女が知らずとも、グズマは知ってしまっていたのだ。
白波が飲み込んだマラサダの鮮やかなピンク色を、グズマは今でも覚えていた。

なあ、お前は寂しかったのか?

そう尋ねたくなって、彼はラナキラマウンテンへと足を運んだ。
彼女を助ける、彼女をぶっ壊す。そうしたクチバシティでの誓いがなかったとしても、グズマの足はきっと此処へ向かったのだろうと思われた。
歪に共鳴することは、少なくとも彼にとっては驚く程に容易く、自然なことであったのだ。

「おや、珍しい客ですな。ふむ……ラナキラマウンテンの白い嵐はお前を拒まなかったか」

四天王の一人であるハラは、かつての弟子がこの挑戦の舞台に現れたことに気付くと、素直な驚きを露わにしつつそう零した。
「オレはあんなもんに押し負ける程、ヤワじゃねえよ」と吐き捨てるように口にしながら、グズマはバトルフィールドの向こうに立つハラを真っ直ぐに視線で射貫く。
勿論、ハラがその視線に動じることはない。大人は子供の叫びに振り回されてはいけないのだ。毅然と在るべきなのだ。子供と共に揺れてはいけないのだ。

「アンタ、なんでチャンピオンをそのままにしていやがる!」

「知ったような口を聞いてくれますな、大馬鹿者め」

かつては自分を師と仰いだ青年が、そして自分を見限った青年が、今、こうして自分を真っ直ぐに、決意の瞳をもって見据えている。
ハラはその事実を淡々と受け止めなければいけなかったのだ。たとえどんなに感慨深かったとしても、そうした感情は隠しておくべきなのだ。
その名状し難い複雑な感銘は、目頭を押さえたくなる程に激しく、彼の心に吹き荒れる感情の発露は、しかし子供のいないところで為されるべきなのだ。
そして幸いにも、そうした大人の複雑な事情を、グズマという男は理解しない。それでいい。

「お前は我々が此処にいる意味を分かっていない。彼女はチャンピオンであり、我々はその下に立つ四天王。立場も実力も彼女には遠く及ばない。
四天王がチャンピオンに勝つことはできない。我々を倒した猛者たちも、今まで誰も、彼女をあの場所から連れ出すことなどできていない」

「……島キングやキャプテンが、揃いも揃って情けねえなあ!」

「グズマよ、力なき者の遠吠えに我々の心は動きませんぞ。自らの実力を弁えていないのであれば、今一度、此処で思い知っていくといい」

ハリテヤマの入ったボールを取り出せば、ちっ、と舌打ちの音がフィールドに響いた。
眉を寄せてハラを睨むその顔は、数年前の彼と何ら変わっていない。姿は、変わっていない。故にハラは今の彼に、かつての彼の叫びを重ねることが叶ってしまう。

強くなりたい、認めてもらいたい。かつての青年のそうした祈りがハラの脳裏で木霊する。痛烈な祈りは今も色褪せないままハラの中に在った。彼の小さな心残りであった。
その「心残り」は、けれどまたしても強くなろうとしている。強くなるためにこの場所を訪れている。
……いや、彼が強くなろうとしなかったことなどただの一度もなかった。彼はいつだって必死だった。懸命だった。
けれど今回は「違う」のだと、ハラは彼の瞳を見た瞬間、確信していた。

「それともグズマ、お前ならできるというのか?」

彼の願いは昔も今も変わらなかった。彼は強くならなければならなかった。
けれど今の彼はもう、その力を彼自身のために使わない。彼はもう、彼のために強くなることを選ばない。

「いいぜ、てめえ等ができねえならオレがやってやる!やってやらあ!」

グズマは祈るように、右手を首元でぎゅっと握り締めた。

大きく頷き、ハラはボールをポケットへと仕舞った。フィールドを大きな歩幅でゆったりと縦断し、背ばかりが大きくなってしまった、幼く寂しい子供を見上げて、豪快に笑った。
なんだよ、とバツの悪そうに顔を背ける彼の覚悟は、……今すぐ尋ねることをせずとも、きっといずれ、知ることが叶う筈だ。
そう確信していたからハラは何も訊かなかった。ただ、彼の決意を肯定するだけでよかったのだ。

「しかと、聞き届けましたぞ」

伸ばされた手をグズマは握った。込められた力の、老体のものとは思えない強さに思わず苦笑した。
見た目に似合わない中身を持ち合わせているのは、何もグズマや「彼女」に限ったことではなかったのだと、思い知ったからだ。
歪であることが示す「個性」に、彼は気付き始めていた。


2017.1.29

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