30

ソルガレオの姿へと進化したコスモッグは、わたしの願いを聞き届けてくれました。
ずっと一緒にいたのですから、わたしの言葉が通じるかしらと不安に思う必要などまるでなかったのです。
ソルガレオさんはわたしと彼女を背中に乗せて、大きく開いたウルトラホールへと疾駆しました。ポケモンさんの背中に乗ったのは、この時が初めてでした。

ウルトラビーストの世界、わたしはそこを、とても恐ろしく禍々しいものであると想像していたのですが、
いざそこへ飛び込んでしまうと、あまりの美しさに息を飲むこととなってしまいました。
宝石のように煌めく小道も、樹木のように伸びる鉱石もとても綺麗で、上空には埃のように小さな光が、まるで意思を持つ生き物のようにふわふわと、やはり美しく漂っていました。
夢を見ているのではないかしら。そんな風に思ってしまう程の、神秘的かつ幻想的な光景が、わたしと彼女の前に現れました。

驚愕と感嘆に飲み込んだ息は、しかし吐き出すことに困難を極めました。
どうにも息苦しいのです。大きく吸い込んでも、身体に必要な何かが十分に入って来ていないように思われたのです。
そうした空虚な呼吸しかできませんでした。身体の異常は不安へと形を変えて、胸の奥にしんしんと、黒い雪のように降り積もっていきました。

ミヅキさん、ソルガレオさんと一緒にいてください。わたしが先にかあさまと話をします」

彼女はソルガレオさんの隣で頷きました。わたしは小さく一歩を踏み出して、宝石の小道をゆっくりと歩き始めました。
硬い宝石を踏んでいる筈なのに、靴音も確かに聞こえている筈なのに、足元が覚束ないように思われました。ふわふわと、宙を歩いているような心地でした。
ぎこちなく歩みを進めたわたしは、開けた場所でそっと顔を上げました。

「……かあさま、いるんでしょう?」

わたしがその場所で口を開くや否や、一斉に何匹ものウルトラビーストが現れました。
ふわふわと、まるで此処が深海であるかのように宙を漂うその生き物は、大きな鉱石の上に尊大に腰掛けた母様を、霧のようにふわりと出現させ、黒い空へと消えていきました。
たった一匹だけ残ったウルトラビーストは、母様の傍を決して離れず、こちらを威嚇するように鋭く鳴きました。
そんなビーストの傍にいる母様を見て、わたしの背中を冷たい汗が流れました。

「まあ、なんてしつこい子!誰の許しを得て、わたくしとビーストだけの美しい世界に来たのです!」

母様の目は、虚ろでした。わたしの方を見てくれている筈なのに、母様はわたしの向こうの虚空を捉えるばかりでした。
そこにいる筈の母様が、ひどく不確かな、頼りないものに思われたのです。

「な、何を言っているんですか!こちらに来たのはかあさまだけではないでしょう?グズマさんは一体、何処に……」

「グズマなら、ほら、そこにいるでしょう?」

母様の長い指の示す先、樹木のように伸びる鉱石の枝に、凭れ掛かるようにして目を閉じている男性の姿がありました。
意気消沈したその姿が、あの冷たい部屋の氷を何度もがむしゃらに叩いていた、スカル団のボスであることに、わたしはよく目を凝らさなければ気付くことができませんでした。
それ程に、彼は変わってしまっていたのです。

……もっとも、変わっていたのは彼だけではありませんでした。
この息苦しい美しさを孕んだ世界では、母様の目も、グズマさんの姿も、わたしの呼吸も、全てがおかしくなっていました。
この世界自体が悉く歪な美しさで構成されていたのですから、この世界の生き物ではないわたし達がおかしくなったとして、それはしかし、当然のことであったのかもしれません。

「でも、もういいのです。だって飽きちゃったんですもの。
こんなにも美しい世界を出たいと言って、わたくしを困らせるのですよ。愚かにも程があります!」

けれど母様の身勝手な言い分は、此処でもエーテルパラダイスでも変わりませんでした。
母様は気に入ったものを自分勝手に愛でて、興味を失えばすぐに捨ててしまうのです。美しくなければ、自分に都合がよくなければ愛せないのです。
悲しい、と思いました。母様も、そんな母様に逆らうことができずにいるグズマさんも、そんな母様のためにあの氷の中で眠った彼女も、誰もがめいめいに悲しんでいました。
悲しいままおかしくなってしまっているから、母様にも、グズマさんにも、彼女にも、誰にもわたしの言葉など届かないのです。届けないのです。

「かあさまはそうやって、ミヅキさんのことも自分勝手に愛でたんですね」

私の背後で、カツ、カツという靴音が近付いてきているのが解りました。
それまで虚ろを呈していた彼女の目が、大きく見開かれました。勢いよく立ち上がった彼女は「ミヅキ」と、信じられないものを見るかのような表情で名前を呼びました。
その靴音を聞いたグズマさんも顔を上げ、あの時を思い出させるかのような大声で彼女の名前を呼び、駆け寄ろうとしました。
けれど母様が「止まりなさい、グズマ」と、鋭い声音で彼を窘めたのです。

「……」

あと2歩。大柄な彼ならたった2歩で彼女のところへ辿り着けたでしょう。
彼女の肩をぐいと掴んで大きく揺さぶって、もしかしたら殴りさえして、彼は彼女を責めたことでしょう。
どうしてあんなところで眠った、どうしてあんな馬鹿なことをした、と、鼓膜を壊さんとするかのような大声で、彼女に叱責の言葉を浴びせたでしょう。
けれど彼は、ぴたりとその歩みを止めました。母様の声に縫い止められたかのように、あと2歩を、たった2歩を踏み出すことが叶わなかったのです。

グズマは代表に逆らえない。プルメリさんがかつて教えてくれた言葉がわたしの脳裏をよぎりました。
彼は大柄な男性です。何もかもをぶっ壊すことを信条とする男性です。力にものを言わせて、アローラの人達を恐れさせてきた側の人間である筈です。
そんな彼が、彼よりもずっと小柄な女性である母様のたった一言を恐れて、一歩たりとも動けなくなってしまっていました。
彼なら力ずくで、母様の制止を振り払うことだってできた筈なのに、そうしなかったのです。
母様にはそうした力があるのです。心を掌握し、操るように人を支配する力があるのです。

ミヅキ、貴方は此処にいてもいいわ。特別にわたくしの傍にいることを許してあげる」

ですから、そんな母様が嬉々として「ミヅキ」と彼女の名前を呼び、彼女の方へと歩みを進めるこの状況を、わたしは止めなければならない筈でした。
グズマさんが動けないのなら、わたしが動くしかないように思われました。
けれど母様を庇うように、残っていた一匹のウツロイドがわたしに威嚇をしてきたので、
わたしは彼女の方へと駆け寄ることも母様を止めることもできずに、ただその場で立ち尽くしている他になかったのです。
グズマさんのような力も、母様のような力も、彼女のような力も持たないわたしは、やはり何もできないままだったのです。

「貴方は、少し拗ねてしまっただけなのよね。
わたくしがウツロイドのことを愛してしまったから、わたくしの愛が貴方にだけ向けられなくなったことが悲しかったから、寂しかったから、あの氷から出てきてしまったのよね」

「かあさま、止めてください!」

「大丈夫よ、だって貴方はわたくしの全てを許してくれたもの。だからわたくしも貴方を許してあげる。
さあ、こっちへいらっしゃい。此処ならあの氷の中みたいに寒くないし、寂しくもないわ。貴方はもう、一人で眠らなくてもいいのよ」

わたしの声は母様に届きませんでした。唯一、振るうことのできたわたしの力、わたしの想いを届かせるための「声」という力は、けれど何の役にも立ちませんでした。
母様の手が、彼女の方へと伸びました。彼女はそのまま目を細めて、彼女を抱き締めんとする母様を受け入れようとしていました。
この場にいた誰もが、そうするだろうと確信していました。

けれど彼女は両手で母様を勢いよく突き飛ばし、母様の腕に包まれることを拒んだのです。

「……」

わたしも驚いていました。彼女と母様から2歩離れたところにいたグズマさんも、同じように大きく目を見開いていました。
母様も、信じられないようなものを見る目つきで、疑うように祈るように縋るように、彼女を見つめていました。
彼女だけが、どこまでも落ち着いた様子で目を細めて、小さく首を振りました。

「……ミヅキ、どうして拒むの?わたくしは貴方を見限ったりしないわ、だって、」

「ルザミーネさん、もういいんですよ。貴方にはもう、代わりなんか要らないんですよ」

一度は母様のために眠る覚悟までしていた彼女は、けれど再び母様のところへ戻ることを拒みました。

彼女はもう、母様のために眠りません。母様の歪んだ愛を受け取りません。
それはとても喜ばしいことである筈でした。彼女はこうしてようやく、まっとうに生きることが叶う筈でした。それが彼女にとって最善であり、そして最も幸福なことである筈でした。
ですからわたしは、彼女のその最善の選択を、その言葉を、喜ぶべきだったのです。彼女の凛とした横顔に、安心するべきだったのです。

「……」

けれど、できませんでした。
波のように勢いよく打ち寄せてきた、あまりにも濃い憂愁に、息ができなくなってしまいそうでした。

『怖い、捨てないで、私を見限らないで、つまらない子だと思わないで、舞台から突き落とさないで。私を見て、名前を呼んで、覚えて、私に気付いて。』
あの日記に書かれた彼女の叫びが脳裏を掠めました。悲しかったのです。虚しかったのです。

彼女がこの世界に訴え続けてきた「願い」は、他の誰でもない、彼女自身の手によって砕かれ、海に捨てられ、なかったことにされてしまいました。
日記を破き捨てたあの瞬間、彼女はきっと全てを諦めたのでしょう。舞台に立つことも、スポットライトを浴びることも、宝石になることも、愛されることも、全て。
ポニ島で、わたしのために道を切り開いてくれたのも、祭壇で、わたしが彼女の手を握ることを許してくれたのも、此処で、母様を突き飛ばして拒絶の意を示したのも、
全部、全部、彼女の悲しい諦念によるものだったのです。彼女はあの時、彼女であることを諦めてしまっていたのです。
……だから、どれだけ自分を肯定されようとも、どれだけ自分を求められようとも、そんなもの、もう彼女の心に響く筈がなかったのです。遅すぎたのです。

彼女はこの世界にとっての最善を選び取りました。彼女の横顔はとても眩しく、英雄と呼ぶに相応しい輝きを宿していました。
けれど「そこ」に彼女はいませんでした。彼女の心はもう、何処を探しても見つかりませんでした。


2017.1.4

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