彼の最愛のパートナーは、アシレーヌの一撃を食らうや否や、ボールの中へと逃げ帰っていった。
別のボールから出てきたのは、おそらく色合いからしてアリアドスだろう。
だろう、としたのは本当に、そのポケモンがアリアドスであるかを解りかねていたからだ。
ボールを構えたグズマさんがどんな顔をしていたのか、私に背中を預けたアシレーヌがどんな表情をしていたのか、解らなかった。
この、ゆらゆらと水に揺らめく視界では、そうしたことさえも解らなかった。雨は私にだけ降っていた。彼は、全く濡れていなかったのだ。
「アシレーヌ、うたかたのアリア!」
虫タイプと毒タイプにおける有効打を持たないアシレーヌは、けれど技の強さでアリアドスを圧倒した。倒れたポケモンを彼はボールに仕舞って、次のポケモンを繰り出した。
相手のポケモンが何なのかも解らないまま、私は同じ技をアシレーヌに指示した。彼のかっこいい水しぶきさえ見えないままに、私は、馬鹿だなあ、と思っていた。
どうして私は、こんなにもみっともなく泣きながら、それでも戦わなければならないのだろう。どうして私は強くならなければいけなかったのだろう。
私は何にしがみついていたのだろう。こんなに苦しい思いをしてしがみつくステージに、どれ程の価値があったというのだろう。
どうすれば私は、私の大好きな人達の前で心から笑うことが叶ったのだろう。
『お前みたいなぶっ壊れた奴の代わりなんざ誰もできねえよ!』
彼の言葉が鼓膜にべっとりと焼き付いて離れなかった。
その言葉はもっと前に聞きたかった。私の何もかもを満たしてくれた筈のその言葉は、しかし私のところにやって来た頃にはもう、その価値をとうに失ってしまっていたのだ。
私の代わりがいない。私はアローラに不可欠な役者だった。端役じゃなかった。私は、輝いていた。少なくとも貴方にとって、私は宝石に等しい輝きを持つ人間だった。
……そんな筈がない。それは貴方の幻想だ。だって私と貴方はこんなにも似ている。おかしくならなければ自らの価値を手に入れられないところなんか、そっくりだ。
だから、貴方は特別だった。小石でも、私にとってはかけがえがなかった。貴方が輝いていてもそうでなくてもよかった。私は、貴方が貴方でいてくれるだけでよかった。
そんな貴方のことが少しだけ心配だったけれど、もういい。構わない。だって私はもう戻れない。私が輝くための儀式はもう、粗方済ませてしまっている。
朝、ハウオリシティのポケモンセンターを出た頃には鞄から溢れかえる程に詰め込まれていた白い小箱は、もう貴方とザオボーさんの分しか残っていない。
最後のポケモンをアブリボンが倒したその瞬間、私は労いの言葉の代わりに一つの技を指示した。
彼女は慌てて振り返り、一瞬の迷いを見せたけれど、私が笑顔で頷いたのを確認すると、
まるで私の躊躇いのなさを反映したかのように、素早く彼の周りを飛んで、「しびれごな」を彼に浴びせた。
ありがとう、と告げて彼女をボールへと戻した。戻して、そして彼の元へと歩み寄った。
鞄から白い小箱を取り出して、アブリボンの入ったモンスターボールをその中に詰めて、蓋をして、リボンをかけて、
「てめえ、何しやがる、」
「受け取って」
崩れ落ちるように椅子へと座った彼の胸に、押し付けた。
椅子の背に彼の背中がぴたりと付くまで、私は彼に詰め寄り続けた。私が小箱を押し付けた手を引かないから、彼もそうした私の強情を真似るように、小箱を受け取らなかった。
「……おい、どうしたってんだ。本当にぶっ壊れちまったのか?」
「……」
「それに、どうして手持ちのポケモンが2匹しかいねえんだ。あの庭園でオレ様をぶちのめしたキテルグマやガラガラ、ヤトウモリは、」
「皆にあげたの」
彼の言葉に続けてそう発した。彼ははっと息を飲んだ。私は息を飲むことさえ忘れていた。
イリマさんにはデカグースの入った白い小箱を渡した。
ハラさんにはキテルグマを、ライチさんにはルガルガンを、ハウにはロコンを、同じように白い小箱に入れて、リボンをかけて渡した。
カキさんにはガラガラを、スイレンさんにはヨワシを、マオさんにはラランテスを、マーマネにはライチュウを、マーレインさんにはトゲデマルを、アセロラにはミミッキュを。
さっき、霧雨に濡れていたプルメリさんに渡した小箱の中には、ヤトウモリが入っている。そしてグズマさんの胸に突き付けた小箱の中には、アブリボンがいる。
どの子のことだって大好きだった。私が島巡りをする中で出会った、私のかけがえのないポケモン達だった。
だからこそ、馬鹿な私にこれ以上、付き合わせたくなかったのだ。大好きな皆に、感謝と餞別の意を込めて渡した。きっと彼等のところにいる方が、皆もずっと楽しい筈だ。
それに、彼等は馬鹿なことをしなくたって十分に輝いている。アローラのポケモン達は皆、それぞれ眩い輝きを持っているのだ。最後まで輝けなかったのは私だけだった。
ようやく私に光を見出してくれた貴方と出会えた時、私はもう、私が輝くための仲間をほとんど手放してしまった後だった。きっと遅すぎたのだ、貴方に出会うのが。
「グズマさん、受け取って。この子を大事にしてあげて。虫タイプが大好きな貴方なら、アブリボンのことだって大好きになってくれるよね」
「お前、これ以上ぶっ壊れたことを言うつもりなら本当に容赦しねえぞ」
「私はもうぶっ壊れているよ。だってそうしないと輝けなかったんだもの。誰からも価値を貰えなかったんだもの。私は、排斥されるだけだったんだもの」
彼の声音に段々と覇気がなくなってきていた。きっとアブリボンが撒いてくれた粉が効き始めているのだろう。
罪悪感など微塵もなかった。そんな普通のもの、持っていたって舞台には立てない。誰も私を覚えてくれない。
小さくなっていく彼の声の代わりに、耳元で嗚咽がどんどん大きくなっていった。私の喉にとてもよく馴染むその声は、けれど私のものではなかった。
カントー地方の船着き場に置き捨ててきた、寂しがり屋で平凡で、誰からも忘れ去られていた、昔の、みっともない私の嗚咽だ。
誰も私を見送りに来てくれなかった。誰も私を覚えていてくれなかった。私が平凡だから、何の取り得もないから、輝いていないから、宝石じゃないから。
だから私は今度こそ、排斥されてはいけなかったのだ。もうあんな悲しい思いはしたくなかったから、そのためなら何だってやった。
皆ができないことをした。皆が言えないことを言った。皆が困れば私は笑い、皆が赤と言えば私は黒と言った。私は、私にしかできないことが欲しかった。
端役でもいい。舞台に立ちたい。降ろされたくない。奪われたくない。
そうした小石の拙い足掻きは、けれどここにきてようやく意味を持ち始めていた。私はそれがどうしようもなく嬉しかった。
だって、誰も私を探しに来なかったのだ。私が大事な大事なポケモン達を手放したことを、グズマさん以外の誰も知らない。
彼等は私の「一生のお願い」を忠実に守り、あの白い小箱を、きっと明日の朝まで開けない。
だから、私の「大好き」にはきっと意味があったのだろう。
排斥されたくない、忘れ去られたくないという一心で振り撒き続けてきた歪な笑顔と歪な「大好き」は、けれど確かに彼等に届いていたのだろう。
少なくとも、小石からの「明日の朝まで開けないで」などというくだらないお願いを守ってくれる程度には、私は皆と仲良くなれていたのだろう。
皆は私の約束を守ってくれる。私が島巡りをして出会った誰彼もを手放したことを、きっと皆は明日の朝まで気付かない。
そして、明日の朝には、既に私はいない。
「私、眠りに行くんだよ」
小石の私、端役の私はいなくなる。そして私は宝石になるのだ。
私では手に入らない何もかもを、あの子の代わりに与えてくれた彼女のために、眠るのだ。
『わたくしが美しくないことを知っている人は、貴方とグズマの他には誰もいない。』
あの氷の部屋を見たことがあるこの人なら、私のこの言葉だけで解ってくれると信じていた。そうしたささやかな傲慢が楽しくて私は笑った。
決意してしまえば、実に呆気なかった。失うものなど何もなかったのだから、心残りなど全くなかった。必要なのは覚悟だけだった。それだって、既に私の手の中に在った。
だって、ねえ、私を宝石にしてくれようとしているあの人を、どうして恐れることができるというの。そうでしょう?
「グズマさん、貴方もあの人のことを慕っているなら、たとえ誰かの代わりだとしても、あの人に名前を呼ばれることがどれだけ幸福なことか、解るよね。
宝石になりたい私の気持ち、生き残るためにおかしくならなきゃいけなかった私の気持ち、きっと解ってくれるよね」
壊れることさえ忘れた彼に、小さな声音で言い聞かせるように紡いだ。力なくだらりと垂れ下がった彼の手に、白い小箱をそっと握らせた。
彼はもう、拒むこともできないだろう。解っていた。私がおかしいことだって、十分に解っていた。
仕方ない、仕方ないのだ。だって私は宝石ではない。私は彼等と同じものを食べられない。宝石を噛み砕けないし、銀色を飲み込めない。
私が宝石になるには、呼吸を殺して温度を忘れるしかなかったのだ。
「……私、ちゃんと言うよ、私で最後にしてくださいって、ルザミーネさんに言う。だから貴方は眠らないでね、私みたいなことを考えないでね」
「……」
「貴方は壊れてなんかいないよ。出会った頃からずっと、子供みたいで、怖がりで寂しがり屋で悲しそうで、そんな貴方のことが大好きだったよ」
たとえ世界が貴方を宝石だとしなくても、私にとって貴方は宝石だった。私はそれが許せない。そんな事実に喜ぼうとしている私が、許せない。
そうした価値に意味がないことなど、ママのあの下らない言葉で十分すぎる程によく解っていた。解っていた筈だった。
それでも嬉しさを覚えたのだから、私もいよいよおかしくなっているのだろう。
大好きだったと、私にとっては当たり前の言葉に特別な意味を込めて発したくなる程に、私は悉く純な歪を呈していたのだろう。
早く行かなきゃ。でないと自分が何になりたかったのか解らなくなってしまう。眠ることを喜べなくなってしまう。この人に、縋りたくなってしまう。
そんな弱いこと、小石には許されない。解っている。解っているから逃げなければいけなかった。そうした弱さを許すこの人の前から、立ち去らなければならなかった。
「ミヅキ!!」
貴方が私の名前を呼ぶ。都合のいい幻聴だと、知っていたから私は振り向かずに部屋を出る。
割れた窓ガラスから外に飛び出した。雨はその細さを忘れたかのように強くなり、小石を叩き潰さんとするかのように降っていた。
2016.12.25