15

ヤングースは、ポータウンにやって来た赤い目のおじさんに預けた。私はそのままリザードンを呼んで、アーカラ島のいつもの場所へと飛んだ。
雨は、ポータウンから南下して、真っ赤な花畑を超えた辺りですっかり止んでしまった。

ハノハノリゾートには既に船が停まっていて、笑顔で駆け寄った私に、彼は驚いたようにその目を見開いた。
遅れてしまってごめんなさい、と申し訳なさそうに告げれば、彼は暫く呆気に取られたように沈黙した後で、「……まったくですよ!」といつもの調子に戻ってくれた。

「1時間も遅刻するとはどういうことです!何かあったのかと心配してしまったではないですか!」

ああ、この人までおかしなことを言う!貴方のような、自分が輝くための努力を惜しまない人間にとっては、私のような小石など、案ずる価値もないようなものなのではなかったの?
そんなことを思いながら、「私のことを心配してくれていたんですか?ありがとうございます!」とやはり笑顔で告げた。
彼はわざとらしい溜め息を吐いて、私の頭をとても軽く、こつんと叩いた。まるで私の頭を撫でているようなその、叱責らしからぬ叱責の手に私は少しばかり動揺した。
もしかして、本当に心配してくれていたのかしら。貴方が出世するための、輝かしい肩書きを得るための社交辞令ではなく、貴方は、本当に?

「さあ、早く乗りなさい。代表が首を長くして貴方を待っていますよ」

彼は私を歓迎してくれる。それは私がルザミーネさんのお気に入りだからだ。私に優しくした方が、ルザミーネさんの機嫌がよくなるからだ。
彼が私の不在を案じていたのだって、私を乗せずにエーテルパラダイスへと帰れば、彼女がひどく機嫌を損ねることを知っているからだ。
この男性はそうした利害の一致で私に優しいのだ。私に価値がなくとも、私に価値を見出した宝石のために、私を大事にしてくれている。私を覚えてくれている。構わない。
私も狂っている。彼も狂っている。ルザミーネさんだって狂っている。そして、それでいい。異常なことは喜ばしい個性なのだ。貴方が、私にそう教えてくれたのだ。

「ザオボーさんにプレゼントがあるんですよ」

「わたしに?」

どうぞ、と最後の小箱を差し出せば、彼はにわかに機嫌をよくして、にやりと得意気に笑いながら受け取ってくれた。
彼には何を預けるべきか最後まで悩んだけれど、私はポケマメの入ったケースを渡すことにした。彼の黄緑色のサングラスは、どうにもポケマメの形によく似ているのだ。
ポケマメをカフェのマスターに貰う度、私はすぐにポケモン達にあげてしまっていたから、今、そのケースの中にポケマメは1つしか入っていない。
ザオボーさんのサングラスの色にそっくりな、黄緑色のシンプルなポケマメだ。彼はそのマメを食べるかしら。それともポケモンにあげてくれるのかしら。
彼がポケモントレーナーであるのかさえ、私は知らない。そうした距離だった。それがよかった。

「では、気が向いたら開けてみることにしましょう」

「ふふ、ありがとうございます。気に入ってくれるといいなあ」

「おや、おかしなことを言うのですねえ。君はわたしが君のことをどう思おうと、わたしのことを好きでいるのではなかったのですか?」

そんなことを当然のように言われてしまい、私は声を上げて笑った。私の甲高い笑い声は夕方の赤い海が飲み込んだ。
「勿論です。ザオボーさんのこと、大好きですよ!」とにこやかに微笑みながらそう告げた。けれど、それだけだった。私は笑っていた。笑えていた。
笑えなかったのは、私にとてもよく似た彼の前でだけだった。

そんなことを考えながら、私は機嫌のよくなったザオボーさんと、些末な、下らない話を沢山した。彼は小石の私の言葉に本気で憤ったり、呆れたり、笑ったりしてくれた。
それがどうしようもなく嬉しかったけれど、ずっと此処に甘んじていては二人とも、輝けずに排斥されていくだけだと解っていたから、この距離でいいのだと思うことにした。
私とこの人との関係はそうした、少し奇妙なものだった。それがよかった。心から楽しかった。貴方と話をしていると、私は私が小石であることを忘れそうになった。

そうした楽しい時間ほどあっという間に過ぎるもので、気付けば夕日に照らされた白い島がすぐ傍に来ていた。
ザオボーさんにお礼を言って、手すりに足をかけて、船着き場へと飛び降りた。
それとほぼ同じくらいに、三角形のエレベータからルザミーネさんとビッケさんが下りてきた。ただそれだけのことに私はとても驚き、困惑した。
彼女はいつもあの大きな白い屋敷の奥で、私が来るのを待っていてくれたから、今日もそうだと思っていたのだ。彼女の方から来てくれるなんて、思いもしなかった。
彼女は私を見つけるや否や、高いヒールをカツカツと鳴らして、大きな歩幅で私へと駆け寄り、長く細く白い腕を伸ばして私を思いきり強く、抱き締めた。

「何をしていたの!」

「え……」

「どうしてこんなに遅くなったの!どうして時間通りに来てくれなかったの!」

傷など付かないと思っていた宝石が、今にも泣きだしそうなエメラルドの目をいっぱいに見開いて、喉をめいっぱい枯らして、私を叱責している。遅刻したことを責めている。
私も驚いていたけれど、傍にいたザオボーさんも、彼女を追いかけてきたらしいビッケさんも、通りがかった職員さんも驚いていた。
彼女だけがその驚きに気付かないまま、私を責め立て、私を叱った。それが一頻り終わると、今度は私に、こんな小石に縋り始めたのだ。

何処にも行かないでって言ったじゃない。逃げていかないでって言ったじゃない。
わたくしが怖くなった?恐ろしくなった?それとも呆れてしまった?飽きてしまった?

彼女がらしからぬ一言を紡ぐ度に、彼女はキラキラと煌めいた。宝石は、傷付いた姿さえ美しいのだ。
そんなことありませんよと彼女の細い背中に手を回した。ちょっと用事が長引いてしまっただけなんですと、言い訳を紡ぎながらあやすようにその背を撫でた。
それに、もう何処にも行きませんよと、挨拶を紡ぐかのような気軽さで告げれば、彼女はその冷たい手に込めていた力をふわりと緩めて、驚いたように私を見た。
彼女が笑うことを止めたから、私は笑った。今日はそのための準備をしていたんです、と笑顔のままに告げれば彼女は益々狼狽えた。私はにっこりと笑って彼女の手を引いた。
私を叱責するために歩み寄ってきたときのヒールの音はあんなにもかっこよかったのに、小石に手を引かれて歩く彼女の靴音はどうにもぎこちなく、頼りなかった。

いつものように1枚のブランケットを分け合って、氷のように冷たい床へと膝を折った。
にこにこと笑みを絶やさない私をまるで恐れるように、彼女は恐る恐る、口を開いた。
「……貴方は今日、何をしていたの?」と、まるで私の出方を窺うように、拒まれることを恐れる子供のように、舞台から突き通されることに怯える端役のように、尋ねた。

「皆さんに、私のポケモンを預けていたんです。アシレーヌだけは私から離れてくれなかったけれど、他のポケモン達は皆、素敵なポケモントレーナーのところへ行きました。
私、ちゃんと準備をしてきたんです。リーリエに指輪も返したから、彼女はいつかきっとルザミーネさんのところへ戻ってきます。私にできること、全部やってきたんです」

だからもう大丈夫ですよと言外に含ませれば、彼女は益々泣きそうに顔を歪める。変なの、と思いながら、私は冷たくなっていく手を握ったり開いたりしてクスクスと笑う。
私が笑えば、やはり彼女は困るのだ。私達は相容れない。今はまだ、相容れない。

「……ねえ、貴方はどうしてわたくしのところへ来たの?アローラには、他にも素敵な人がいたのではないの?貴方の大事なポケモン達を託せる程に、素敵な人が、沢山」

「勿論です。皆さん、とっても素敵な人でした!皆さんのこと、大好きでした!
でも、あの人達は誰もに愛されているから、私が「大好き」を言い続けなくてもいいんです。あの人達に「大好き」を言うのは、私じゃなくてもいいんです」

排斥されたくなかったから、大好きだと縋りついた。愛を振り撒いて、媚びを売った。笑顔で彼等を慕えば彼等は笑顔になった。私が本当に笑っていなくとも、構わなかったのだ。
媚びを売れば、大好きだと謳えば、彼等は私に目をかけてくれた。私が彼等を慕った分だけ、彼等は私に優しくしてくれた。
そうして皆に覚えてもらえた私は、このアローラで主人公になれる筈だったのだ。スポットライトを浴びて、キラキラと輝ける筈だったのだ。
けれど、違った。媚びを売っても、「大好き」を繰り返しても、笑っても、何故か虚しかった。小石はどう足掻いても、どう磨いても、自ら光を放つことはしないのだ。

「あの橋の上でオニスズメからポケモンを守ったのは私じゃなくてもよかった。不思議な石を受け取ったのだって、きっと守り神さんの気紛れです。
このアローラを巡りたいリーリエにとって、強いトレーナーなら誰だってよかった。ハウは楽しくバトルができさえすれば、その相手は私じゃなくても構わなかった。
皆が私に優しくしてくれたのは、私が皆に優しかったからで、私のことが大好きだからそうしてくれた訳じゃなかった。私じゃなきゃいけなかったことなんか、一度もなかった」

自らが宝石になれないことを認めてしまうことがどうしても恐ろしくて、私はずっと、逃げ続けていた。いつか、私が宝石になるための術が見つかる筈だと信じていた。
そして、やっと見つけたのだ。

「でも!此処に来るのは私じゃなきゃいけなかったような気がするんです!」

やけになっていたのかもしれない。これは私が何もかもを諦めてしまった結果であるのかもしれない。
自暴自棄になって、どうにでもなってしまえという気持ちになっているのかもしれない。
構わない。私は愚かでも構わない。賢くなったって、強くなったって、小石は小石のままなのだから、そんなものに何の意味もない。
何かを棄てることで宝石になれるのなら、私はこのなけなしの知性も、鍛えた強さも、出会えた仲間も、人肌の温度だって、捨てられる。

「銀色が大好きで、この白と金のワンピースを着られて、リーリエの代わりができて、プリンの作り方をまるで知らなくて、この氷の中で眠る皆を恐れなくて、
……そして、恐ろしいと思っていた貴方を大好きになれて、貴方に大好きになってもらえた私。そんな私じゃなきゃできないことが此処にはあったんです。
最初はそれが何なのかよく解らなかったけれど、やっと見つけました。私にしかできないこと、私が貴方のためだけにできること!」

舞台から降ろされることを恐れる端役には、どれだけ磨いても輝けない小石には、そうした覚悟が必要だったのだ。
この悲しい宝石の、冷たく震えた手を握り返し、その温度と同じように染まるだけの、覚悟。

「貴方のために眠ります」

私にスポットライトをくれるなら、舞台の真ん中に立たせてくれるなら、私はどんな努力だって、勇気だって、犠牲だって、惜しまない。


2016.12.26

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