時が止まってしまったかのような人だった。
綺麗な金髪も、高い背も、すっきりと流れるくびれも、華奢な肩も、宝石のような緑の目も、全部、全部私にはないものだった。
この人の生きる道と私の生きる道は、きっと二度と交わることなどないのだと思われた。
けれど交わらないと思われていた私と彼女が、何故かこの真っ白な、病院のような空間で出会ってしまったから、
彼女の美しい何もかもが、ブロンドの奥で真っ直ぐに私を見つめていて、その綺麗な笑顔を一瞬だけ私に向けてくれたように思われたから、
……だから私は、もっと、と思ってしまったのだ。
「ねえビッケさん、ルザミーネさんは本当に40歳を超えているんですか?私のママと同じくらい?」
「ええ、そうですよ。驚きましたか?私も長く代表と一緒に働いていますが、あの人はずっと、何も変わらないままなのですよ。……そう、まるで、」
「まるで時が凍ってしまったみたいに?」
にやりと笑ってそんな風に言い当てれば、彼女は眼鏡の奥の目をぱちり、と見開き、そしていよいよ声を上げて笑い始めた。
この、少しだけ陰りのある女性を自分が笑わせることができた。
そうしたささやかな達成感に私がニコニコと微笑んでいると、しかし彼女は数秒前の笑い声をなかったことにするかのような、暗い声音で口を開いた。
「ミヅキさん、貴方はとても賢い子なのですね。子供はこんなにも、聡い生き物だったのですね」
賢いことはいけないことなのかしら?聡いって、大人にとっては都合の悪いことなのかしら?
そうしたことを考えながら、けれど私は謝らなかった。ビッケさんの気分を害してしまったのかもしれないと、解っていながら謝れなかった。
だって私は、私の言葉の「何」が彼女の心を陰らせたのか解らない。解らないのに謝っても、私は私の言葉を改めようがない。だからそんな謝罪に意味はきっとない。
私にとって意味などなくとも、相手のために紡ぐべき言葉だってある。そうしたことさえも知らないような11歳。それが、私だった。
大人の、特にこの不思議な白い場所に蔓延る秘密のことなど何も、何も推し量ることの叶わない子供だった。
もっとも、もし知ることが叶ったとして、きっとその全てを私は理解できなかったのだろうけれど。私はそうした、とても幼く知性に欠ける人間だったのだけれど。
「ミヅキ、行こうよー」
「うん!」
ハウの手招きに呼ばれるように、私は白い船へと乗り込んだ。ビッケさんに手を振りながら、彼女が踵を返して歩き出す瞬間を窺っていた。
まだだ、まだ動いてはいけない。まだ早すぎる。
そうして船の出発を知らせる音が鳴り終えようとしていた頃、私は船内へと入っていったハウを置いて、船の手すりに足を掛け、勢いよく飛び出した。
この不思議な白い空間は、きっともう私を歓迎していないのだろう。ザオボーさんも、ビッケさんも、きっと私を見て不快な顔をするだろう。構わなかった!
私はまだ11歳だった。幼く、知性に欠ける人間だった。そしてもう一つ付け加えることがある。私は、とんでもないやんちゃ娘で、好奇心のあり過ぎる人間だったのだ。
そうした私が模範的な人間でないことくらい、幼く知性に欠ける私にだってよくよく解っていた。解っていたからこそ私は、模範から逸した行動ばかりを選んだ。
だって危険なことをしなければ私は輝けないのだから。「普通」と違うこと、おかしなことをしなければ、私の価値は手に入らないのだから。
私は、私にしかできないことが欲しいのだから!
*
三角形の形をした不思議なエレベータに乗り込んで、彼女のいた2階へと上がった。
まだエーテル財団の職員たちは、先程、此処に現れた、ポケモンに似た不思議な存在への緊張感を消してはいないようだった。
その中の一人が私に気付いて、「おや、どうしたのですか?」と駆け寄ってきたから、私は申し訳なさそうに眉を下げて、声音を少しだけ上向きにした。
「ごめんなさい、大事なものが鞄の中に見つからないんです。もしかしたら此処で落としたのかもしれないと思って、……探してもいいですか?」
「それは大変ですね、一人で大丈夫ですか?もしよければ探すのを手伝いますよ」
「大丈夫です、私の通った道を辿っていけば見つかる筈ですから!ありがとうございます、親切で優しい職員さん!」
大きく手を振って、この施設を自由に歩く理由を得た私は、意気揚々とこの広い温室を駆けた。
天敵であるドヒドイデから守るために保護されたというサニーゴが、白い服を着ていない私を見つけて、嬉しそうに鳴いた。
もしかしたら、一度来ただけの私を覚えてくれているのかもしれない。そう思って私は手を振った。振ってから、そして思わず話しかけた。
「ねえ、此処は楽しい?」
サニーゴは答えなかった。大きく身体を揺らして否定の意を示すことも、笑顔で鳴くこともしなかった。
此処で暮らすことが幸福であるのか否かを、サニーゴ自身も判断しかねているようだった。
「そうだよね、解らないよね、自分の幸せって」
私は幸せだと思う。
自然豊かなアローラ地方にやって来て、沢山の出会いがあった。皆、とても陽気で優しくて親切な人ばかりだった。誰もがポケモンを愛していた。
出会ったポケモン、出会った人、訪れた町、手に入れた道具、全て大好きだった。毎日がキラキラしていて、宝物だった。
私はきっととても幸せだった。温かくて、心地よくて、大好きだった。
だからこそ、そこに私が入れないことがとても恐ろしいのだ。
「貴方は幸せではないの?」
弾かれたように振り返れば、焦がれていたエメラルド色の目がもう一度、私を見つめていた。
先程の不思議な、帽子を被ったような生き物を見つめていた時の、何かとんでもないことを企んでいそうな、そうした悪い表情ではなく、
その眼差しに、優しく緩められた口に、白い頬に、真の慈悲を見ることが叶うような、優しさを極めた顔をしていた。
「ふふ、ビッケは何をしているのかしら、こんなに可愛い子を船に送り届けずに、迷わせておくなんて」
「ルザミーネさん」
彼女の名前を口にした私の喉はカラカラに乾いていた。まるでその名前に、体中の水分が抜き取られてしまったかのようだった。
きっと今の私はひどく不安そうな、泣き出しそうな顔をしているのだろう。
彼女は私を案じるかのように首を傾げた。その綺麗な顔がことん、と傾けられれば、彼女を守るように長く伸びた髪も、さらさらと光のカーテンのように揺れて、煌めいた。
貴方も、宝石だ。宝石の傍が最も暗いのだ。
「ポケモン達は無事でしたか?」
「ええ、問題なかったわ。少し怯えているようだったけれど、これから時間をかけて愛してあげればきっと心の傷も癒えるでしょう」
「そうですね、……よかった」
「それで、貴方はわたくしの部下にあんな嘘まで吐いて、此処で何をしようとしているの?」
見抜かれていた。私は顔をさっと青ざめさせて、言い訳の言葉を紡ぐ筈だった。
いよいよ手詰まりになったところで、悪戯がバレた子供の笑みをすれば、長いお説教の後に見逃してもらえる筈だと解っていた。
それはこれまで私が幾度となく、カントーで、そしてこのアローラでも繰り返してきた私の悪行であり、それを大人に対して行うことに何の罪悪感も抱いていなかった。
私はそうした子供だった。それで十分に満たされており、幸せだった。幸せだ、と思うことにしていた。そしてこれからもずっとそうなのだと思っていた。
そうした「狡いこと」が許されなくなったとき、私はいよいよ大人になってしまうのだろうと心得ていた。けれど、……けれど。
「……」
声が出てこなかった。彼女を笑わせるために次々と道化めいた言葉を連ねる、といういつものことができなかった。私自身が笑うことさえ、できなかったのだ。
リーリエの瞳が脳裏を掠めた。悉く綺麗な、その優しい美しさで端役を無意識に排斥してきたあの色が、あれよりもずっと険しい形でこの女性の中に在った。
大きなエメラルドの瞳に、泣きそうな顔で立ち竦む私が映っていた。
次に彼女が瞬きをすれば、きっと私は排斥される。
この女性はリーリエのように優しくない。この人を大好きになる前に、私がこの人に見限られてしまうだろう。
此処に残ったのは間違いだったのだ。私は、逃げるべきだったのだ。
やめて、と思った。お願いだから私に正しい息をさせてほしい。私の、楽しい筈だった旅を返してほしい。私はただ、私にしかできないことが欲しい。
端役でもいい。舞台に立ちたい。降ろされたくない。奪われたくない。
この綺麗な人の前に立つと、自分のそうした、一番弱いところが曝け出されてしまうように思われた。
つい先程、出会ったばかりである筈なのに、彼女は私が無能であることを、愛される素質のないことを、主人公になれないことを知っているかのようで、とても恐ろしかったのだ。
青ざめてガタガタ震え始めた私に、彼女は驚いて腕を伸べた。パチン、とその綺麗な手を振り払ってしまい、益々青ざめた。
奇抜な青いリップの下で、唇が本当に青ざめ始めていた。
ごめんなさい、という似合わない言葉を告げて逃げ出そうと踵を返したけれど、彼女は「ミヅキさん」と私の名前を呼び、その細い腕に似合わない力で私の腕を掴んだ。
私を舞台から突き落として然るべきだと思っていたその綺麗な手は、けれど何故か私を引き留めていた。
彼女が私を見ている。私の名前を呼んでいる。私に触れている。ただそのことに私は驚いていた。恐怖を忘れて茫然と立ち竦むに十分な驚愕だったのだ。
宝石は、道端の小石なんかに目を向けないと思っていたから。
2016.11.21