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丁寧にその手紙を折り畳み、ゲンはテーブルの上に置かれた平らな箱に仕舞った。
既に20通以上の手紙がその中には入っており、少女が頻繁に近況を文字に起こして彼の元に送っているのだと、彼もそれを心待ちにしているのだと、読み取ることは容易かった。
テーブルの向かいでオレンジジュースを飲み干したシロナは、グラスの底に残った氷をカラカラと掻き混ぜながら小さく笑った。
少女からの手紙を大事そうに箱に仕舞う彼の姿は、いつか、彼があの少女に見出したそれと同じように、悉く明るく、眩しかった。

「いつもみたいに砕けた親しい言葉で書いてくれるのかと思ったのだけれど、あの子にとって手紙と会話は別物であるようだ。
便箋に書く手紙は丁寧な文体でなければいけないと、彼女は一体誰に教わったのだろうね」

「それよりもあたしは、あの子がこんなにも沢山の漢字を知っていることに驚いたわ。それに、読みやすい綺麗な字を書くのね。まるでずっと前から手紙を書いていたみたい」

手紙ではないけれど、あの子はずっと文字で私と会話をしてくれていたよ。おそらく君が想定している文字量よりも、ずっと多く。
そう告げる代わりにゲンは笑い、「元々、綺麗な字を書く子だったんじゃないかな」と小さな嘘を吐いて困ったように肩を竦めた。
シロナも「貴方が渡したノートの字はこんなにも綺麗だったの?」と尋ねることは簡単にできた筈なのに、その疑問をなかったことにして微笑む。

3週間程、何処かで行方をくらませていたシンオウの救世主は、しかし梅雨が明けると同時に、222番道路から冒険を再開した。
ナギサシティであの破天荒なジムリーダーに勝利し、チャンピオンロードを抜け、ポケモンリーグの頂点に上り詰めるまでの時間はあまりにも短く、
彼女をよく知るジムリーダーや博士などは、「ギンガ団との対峙で何か思うところがあり、人気のないところで修行をしていたのではないか」という推測を立てたようだ。

約3週間に渡り、ゲンと少女がこの家で暮らしていたこと、ノートとペンを使って言葉を交わしていたことを知る人間はほんの僅かしかいない。
声を失い、重力を忘れ、時を止めていたあの頃の彼女を知る人間は数える程しかいない。
彼女が最初に「よろしくおねがいします」と綴ったあの拙い文字が、この綺麗な文章を綴れるようになるまでに、数え切れない程の言葉を3冊のノートに綴っていたのだと、
言葉を書き慣れ過ぎたことで彼女の文字は整った美しいものへと変わり、この世界での何もかもを思い出すにつれて難しい漢字を使いこなすことも可能になったのだと、
そうした全ての経緯を、彼女のささやかな成長を知っているのは、このゲンと少女を置いて他にいない。そして、それでいい。

「でも貴方が元気そうで安心したわ。あの子がこの家を出ていった時の貴方の顔は、正直、痛々しすぎて見ていられなかったから」

「……君の言葉は正しかったよ。私はあの子を忘れられる筈がなかったんだ。二人分の食事を作ることが当たり前になっていたんだ。
もう、家族のようなものだったのだと思うよ。家族の旅立ちを喜び、その別れを惜しむのは当然のことだろう?」

「ふふ、もういっそのこと家族にしちゃえばいいのに」

至極楽しそうにそんなことを言うものだから、ゲンは眉間にしわを寄せて頭を抱えた。
「あの子が嫌い?」とからかうような声に、半ばやけになって「まさか」と吐き捨てるように返す。その答えを予想していたように、この美しい女性は益々上機嫌に微笑む。
「あの子がまだ10歳だから?」と念を押すようなその言葉に、もう言葉を返す気力さえも失った彼は大きな溜め息で返事をする。
「貴方はあの子の将来の選択肢を奪ってしまうことが怖いのね」と残酷にも彼の言葉を代弁したこの女性は、しかしクスクスと笑いながら、少しばかり常軌を逸した提案をする。

「あの子の想いが自分に留まり続けるとは限らないから、想いが離れていく時の重りに貴方はなりたくないのね。だから貴方は自らの想いに蓋をしているのね。
でもあたしは、重りを渡してあげてもいいんじゃないかと思っているの。好きだよって、君のことをずっと想っているよって、それくらい、貴方にも告げる権利があると思うの」

「……でも彼女はまだ、」

「想いに年齢なんて関係ないわよ。寧ろあの子の将来を尊重し過ぎて、今の想いをないがしろにする方が貴方もあの子も苦しむし、傷付くでしょう?
……貴方は不器用だけどとても誠実な人だわ、それってとても素敵なことよ。だからその誠意をあの子のためだけじゃなくて、自分のためにも使ってあげて」

誠意を自身に示すという難しいことを、まるで自身への褒美であるかのように示して彼女は笑う。ゲンはその言葉を上手く紐解くことができず、困ったように笑いながら首を捻る。
要するに自分に正直で在れと、自分の想いに蓋をするなと、そういった内容のことを彼女は言いたかったのであろう。
けれどそこはマイペースな彼女らしく、ややこしい言葉でゲンを悩ませ楽しんでいたのだ。二人はそうした気の置けない関係だった。

けれど彼女にとっての、彼女の誠意を示すべき「誰か」はこの空間にはいないらしく、「そろそろ帰るわね」と告げて立ち上がった。
「もうすぐあの子が来るから、ゆっくりしていったらどうだい」とゲンは引き留めて近くの紙袋を掲げる。その中にはシロナが持っていてくれた、クレープの材料が入っていた。
一緒に作らないのかという意味をも込めた引き留めだったのだが、彼女はその言葉を待っていたかのように、玄関でくるりと振り返り微笑む。
少し癖のあるブロンドは相変わらず眩しい。

「あたし、クレープも好きだけれど、今日はストロベリーのジェラートが食べたい気分なの。思い出の味なのよ」

シャカシャカという音が優しい沈黙を割き続けていた。言わずもがな、生クリームを泡立て器で掻き混ぜる音だ。生クリームを泡立ててくれる機械など要らなかった。
バナナや苺をカットしたり、クレープの生地を焼いたりと手際よく動いていた彼女は、
時折「大丈夫?」とゲンを労るように尋ねつつ、まだ液体でしかないボウルの中を覗いては困ったように笑った。

しばらくして、2人分の生地をフライパンで焼き終え、フルーツの下処理も終わった少女は再び彼の方へと駆け寄り、その、永遠とも思える試行を傍でじっと見守っていたのだが、
やがてサラサラの液体であった筈の生クリームが形を取り始め、泡立て器で掬い上げれば立派な角が立つまでになると、「わあ……!」と子供らしい歓喜の声を上げた。
ゲンは得意気にボウルを傾け、しっかりとメレンゲ状になった生クリームを少女に見せる。
「ありがとう!」と上擦った声でお礼の言葉を奏でた少女は、キッチンからゴムベラを取り出して、絞り袋にその生クリームを詰め始めた。

「ゲンさんが頑張ってくれたから、先に生クリームを使っていいよ」

出来上がった絞り袋をそう言ってこちらに渡す少女に、遠慮して受け取らないというのもおかしな話だと、快く了承の意を示して受け取った。
生クリームを生地の上に絞り出し、フルーツを箸で摘まんで盛りつける。
少女も少し遅れてフルーツの盛り付けに取り掛かったのだが、スライスされた苺を器用に摘まむ箸、その持ち方はゲンのそれと全く同じものになっていた。
以前の子供っぽい歪な箸の構えは、ゲンがたった一度、正しい持ち方を教えるだけで劇的に改善された。
勿論、その「劇的な改善」の裏には、少女が一人で持ち方の矯正を行った、類稀なる努力が隠れているのだろうと知っていた。
だから彼はその持ち方を見つける度に、少女を褒めずにはいられなかったのだ。

そうして二人分のクレープが出来上がり、席に着いて半分ほどを食べ終えた頃、少女がとんでもないことを口にすることになる。

「ゲンさん、私が大人になるまで待っていてくれる?」

「大人に?……それはどういうことだい?」

「だって、ここでは私の時間もゲンさんの時間も同じように動くでしょう?
だからゲンさんのお嫁さんにしてもらうには、私が大人になるまでの間、とても長い時間、待ってもらわなきゃいけないなあって、思って」

……これは果たしてシロナの入れ知恵だろうか。そんなことを思いながらゲンは、自らの頬が赤く染まるのを感じていた。
ああ、どうして私の周りの女性はこうも恥じることなく器用に想いを、言葉を紡ぐのだろう。
自分はこんなにも不器用だというのに。不器用ながらも大きすぎる想いを持て余しているというのに。持て余し過ぎて苦しい程である筈なのに。

『好きだよって、君のことをずっと想っているよって、それくらい、貴方にも告げる権利があると思うの。』
シロナの言葉が脳裏を過ぎる。口に出してはいけなかった筈の想いはもう、音にされる瞬間を今か今かと喉の奥で待っている。
『あなただけでした。』
少女の文字が瞼の裏を舞う。

「……ああ、待とう。君が大きくなるまで待っているよ」

「待っている時間って、不安じゃない?大丈夫?」

「大丈夫。私は待つのが好きだし、君を信じているから、時間なんか幾ら掛かったところで不安になどならないよ。だから君は焦らず、ゆっくり大人になっていいんだ」

その言葉で安堵したように微笑み、ありがとうと告げた少女は、けれどまだ不安事項をその身に隠していたらしく、
続けざまに「あと、もう一つ聞きたいことがあって、」と言いにくそうに口を開く。

「こういう気持ちが大きくなりすぎた時は、どうすればいいのかな」

「!」

「今も気持ちはいっぱいあって大きいけれど、でももっと、ずっと大きくなる気がするの。私に、収まり切らない気がするの。こういう時にどうすればいいか、ゲンさん、分かる?」

ああ、君はなんてことを言うんだ。ゲンは憤りすら忘れ、眉を下げて困ったように笑った。
けれど申し訳ない。私は君のその疑問に答えてあげることができない。私も解らないんだ。私も、こんな風にとんでもない質量の想いを抱えたのは初めてで、途方に暮れているんだ。
そう思いながら腕を伸べて少女の頭に手を乗せれば、夜色の目が嬉しそうに細められた。

「……そうだね。そうなってしまったら、どうすればいいか一緒に考えよう。一人では解らないことも、二人なら解るかもしれない。
私も今、君の言う「気持ち」が私の中に収まり切らなくて困っているところなんだ」

三日月に細められた目の中で星が瞬く。クスクスという眩しいソプラノが鼓膜をくすぐる。
少女はきっと、また一つ発見した「同じこと」に喜んでくれている。

パラパラと窓を叩き始めた雨の音に、彼女は弾かれたように立ち上がり、僅かに残ったクレープを皿に置いて窓へと駆け寄り、開け放つ。ゲンもそれに続いて窓へと歩み寄る。
外へと大きく手を伸べれば、冷たい雨が服の袖を濡らした。顔を見合わせ喉を震わせて笑う、二人分のその声は晩夏のスコールをもたらした曇天に響き続けた。


2016.8.25

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