ボーマンダに少女を乗せ、ナギサシティへと向かった。
この間、戻りの洞窟へと向かった際には陽が沈みかけていたため、シンオウの全景を見渡すことはできなかったが、今回は曇っているとはいえ、昼間である。
日中に在るべき明るさがシンオウの町並みを照らしていたため、ゲンは今の状況を一瞬だけ忘れて、少しばかり、嬉しくなった。
何歳になっても、やはりポケモンに乗って空を飛び、自分の暮らす町並みを俯瞰するというのは、心躍るものなのだ。
「綺麗だね」
そう零せば、前に乗っていた少女は少し遅れて頷いてくれた。
この町並みが空へと落ちてくることはない。噴水の水が高く噴き上げられて、そのまま落ちて来ない、などということもあり得ない。
眼下に映る、正しいものが正しい形で正しい場所に在る景色を、ゲンはあの破れた世界に行かなければ、ここまで美しいと思うことなどできなかった。
そうしてノモセシティの上空を飛び、リゾートホテルから更に東へと向かったところで、少女は大きく身を乗り出した。
どうしたんだいと尋ねても、ノートもペンも構えられない彼女は、首を小さく振ることでしか意思表示ができない。伝えられないのだから、こちらが推し量るしかない。
何か気になるものがあったのだろうかと思ったが、どうにもそうではなさそうだ。そこにあるものが珍しいのではなく、おそらく彼女にとってはこの土地自体が珍しいのだろう。
彼女のバッジケースにはたった一つだけ、空欄があった。この先の道路や町を、まだ彼女は見たことがなかったのだ。
ナギサシティがどのような町であるのか、その町のジムリーダーがどれだけ破天荒な人であるのか、その町に面した海の向こうに何があるのか、彼女は知らない。今は知らない。
だからこそ、新鮮な景色が気になって身を乗り出したのだろうと、彼はそうした結論を出し、眼下の景色を指差して一つずつ説明をするために口を開いた。
「君がいずれ、訪れることになる道だ。君の旅の続きは此処に在るんだよ」
ボーマンダがナギサシティへと降下を始めた。
かなり広い町であったが、ボーマンダはこの町の中で降りるべき場所を既に知っているかのように、真っ直ぐ、迷いなく降下した。
「さっき通った海沿いの道は222番道路で、今、見えてきた町がナギサシティだ。その向こうは、……君の目で確かめてくるといい」
少女は不思議そうに男を見上げた。「その向こう」を気にしていることは知っていたけれど、だからこそ、ゲンの口からはこれ以上を話すことができなかった。
この道も、次の町も、その先にあるあの場所だって、この少女が旅を再開すれば彼女の、彼女自身のものになるのだ。それを今、事細かく告げる必要などきっとない。
それに彼女は、……「本来の」彼女は、こんな一介の男の助けなど必要としないような、強く賢いポケモントレーナーである筈なのだから。
しかし、今は違う。
今はまだこの少女は、あの世界での重力を完全に忘れることのできない、そんなほんの少しの歪さを持った子共であり、
町の入り口にシロナと、その隣に立つ別の男を認めた瞬間、ボーマンダがアスファルトに足を着けるのを待たずにその背中から飛び降りるような、危なっかしい子供であり、
着地に失敗しアスファルトに尻餅をつきながらも、続けざまに立ち上がり、よろけた頼りない足で彼の元へ駆け寄ろうとする痛々しい子供であり、
シンオウ地方を聞きに追い遣り神話のポケモンを苦しめた張本人さえも驚き、狼狽える程の凄惨さと弱々しさで、その腕に縋りぼろぼろと大粒の涙を零すような子供であり、
それでいて、何かを伝えようとして懸命に口を開いても、その言葉を音として紡ぐことすら叶わないような、ひゅうという頼りない息を零すのみの、そうした、子供なのだ。
そしてこのアカギという男は、そうした少女を何も知らなかったのであって、
彼ではなく、その二人から少し離れたところに立ち、彼等を見守るこの青年こそ、そうした少女の全てを見てきた人物なのであって。
「……」
駆け寄りたい。肩に手を置きたい。「落ち着いて」と言い聞かせて、彼女の涙が下に落ちなくなるまで、傍で見守っていたい。けれど、……けれど。
背中を冷たいものがすっと伝っていった。憤りの冷たさではない。彼が彼自身を律するためのどこまでの冷静で残酷な冷たさだった。
こちらにはこのアカギという男を責め立てるべき理由の何もかもが揃っている筈であった。彼にかけるべき手酷い言葉は、それこそ湯水のように湧き出てきた。
……けれどそうではない、そうではないのだ。私はこの男を責められない。彼を責めては、いけない。
「ヒカリ、こっちにいらっしゃい」
微動だにせず、声すら発することのできなかったゲンの代わりに、シロナが彼女を優しく呼んだ。
泣き腫らした赤い目で振り返りこそしたが、アカギの腕を離そうとしない少女に、シロナは苦笑しながらも、彼女に相応しい言葉でその激情を宥める。
「大丈夫よ、もうアカギさんはいなくならないわ。どこにも行かない。悪いことをしないように、あたしがこれからは見張ってあげる」
「……」
「ここからは大人の仕事よ。貴方の頑張る時間はもう、おしまい。……頑張ったわね、ヒカリ」
すとん、と力が抜けたように、アカギの腕を掴んでいた小さな手が宙にぶらりと投げ出された。
彼女のどの言葉が少女の手を彼から離させるに至ったのか、今のゲンには推し量る術がない。けれど結果としてシロナの言葉はヒカリを動かしたのだ。
こちらにゆっくりと、覚束ない足取りで向かって来た少女の目線、それに合わせるように膝を折り、シロナは華奢な身体を包むように、その笑顔のままに抱きしめた。
「頑張ったね」と、「もういいのよ」と、繰り返しながら何度もあやすように背中をさすった。少女は何もかもを吐き出すように大きく肩を震わせて泣き始めた。
それでも、シロナは笑っていた。彼女も釣られて泣き出しそうになりながら、それでも決して笑みを崩さないのだ。
『あたしもできる限り此処に来る。もう逃げない。ちゃんとあの子と向き合うわ。だからお願い、一緒に……。』
何度も両手で目元を拭いながら、震える声でそう告げた彼女の言葉が思い起こされた。今の彼女の笑みは、あの時の覚悟と決意の顕れであるように思えた。
ゲンはどうにも笑うことができなかった。彼女のように笑う振りをすることさえできなかった。
大きく息を吸い込み、細く長く吐きながら、彼はようやく、自分からほんの少しだけ離れたところで立っている男を正面から見据えた。
色素を忘れた灰色の髪と、射るような目が印象的な人物だった。
こちらを臆することなく見据え続けるその姿に抱く「おそれ」は、
見る人全てが畏縮してしまうような、他者を威圧する、上に立つ者として当然のように他者に抱かせるべき「畏れ」にも
あるいはいつ訪れるか分からない反抗の機会を窺うべく、息を殺して今にもこちらへ噛み付かんとするような、子供の危うさに抱くような「恐れ」にも、似ているような気がした。
「言いたいことがあるなら、言うといい」
そうした二つの「おそれ」をその身に纏う彼の口から、抑揚のない淡々とした言葉が紡がれた。
自分より遥かに年上であるのだろうとその見た目から見積もっていただけに、
その彼の口から、ゲンと同じくらいの年数の経過しか感じさせない、若い音が零れ出たことに彼は少なからず驚いた。
だからその直後に乾いた笑いが零れ出たのは、その意外性に愉快さを見出したが故の笑いであるということにしておいた。
その笑みに自嘲の色が込められていたことは、きっと彼自身しか知らないことであったのだろう。
「貴方はすぐに、あの世界からギラティナによって追い出されてしまったようだけれど、」
この男に対するあらゆるおそれを噛み締めるように、そしてそのまま自身の惨さを噛み殺すように、彼は重い音で言葉を紡いだ。
「貴方が造りたいと望んでいた全く新しいあの世界で、あの子は気が遠くなる程の長い時間を過ごしていたこと、どうか覚えていてほしい」
ゲンの背後で少女の微かな、声にならない嗚咽が規則正しく彼の鼓膜を震わせていた。
おそらくその音は目の前の男にも届いているのだろう。彼の鼓膜も震えているのだろう。彼はきっと、あのように弱々しい姿をした彼女に驚いているのだろう。
そう想像して、ゲンは思わず振り返った。シロナの腕に抱かれたまま泣き続ける少女は、しかしもうゲンにとって「珍しい」ものではなくなっていた。
彼は少女の涙を何度も見てきた。
けれどこの男は違う。だからゲンは請う必要があったのだ。覚えていてほしいと、忘れないでほしいと。
「貴方は、あの子の涙が下に落ちることを知らないのでしょう?」
自分が悉く醜い生き物に成り下がっていくように思われた。
涙が下に落ちることなど当然のことだ。しかしそれが「当然」であることを、この男はきっと知らない。
彼は上に落ちる水の世界を知らない。そして「彼」もつい先日までそうだった。
そうであった筈なのに、彼はその、たった4時間のイニシアティブを振りかざさずにはいられなかったのだ。そうしなければいけなかったのだ。
自分はあの4時間を伝えるために、此処にいるのだと心得ていた。
貴方は知るべきだ。覚えておくべきだ。あの子が貴方を忘れても、貴方はあの子を覚えておかなければならない。
そういう意味で、きっとゲンとこの男は驚く程に似ていたのだろう。
2016.8.23