ひゅう、ひゅうと、吸っているのか吐いているのか解らないような息の音が、静かなリビングに奏でられていた。
やがて呼吸に喘鳴のようなものが混じり始めたので、骨の形がはっきりと分かる程に細い背に触れながら「あまり吸ってはいけないよ、落ち着いて」と促した。
何度もそう繰り返すことで、少女の肩の震えは少しずつ、少しずつ収まってきた。苦しそうな喘鳴はもう聞こえなかった。
おそらく、涙を流すことで精一杯であった彼女には、彼の「泣きたいだけ泣きなさい」「落ち着いて」といった言葉や、抱き締めたり背に触れたりといった行動は、
ひどく落ち着いた、頼れるものに思われていたのだろう。そうして少女は彼への信頼を益々深めていくのだろう。
しかし彼の真実はそうではなかった。
彼女が泣き出した時も、嗚咽を噛み殺すように努めていた時も、途中で異様な呼吸音が混じり始めた時も、泣き止み始めている今だって、彼は常に恐ろしかった。
彼の心臓は、張り裂けそうになっていたのだ。
……あの虚ろな目や、感情を映さない静かな表情は、これまでの底知れぬ恐怖や孤独に追い詰められ続けてきた彼女の、彼女なりの装甲だったのではなかろうか。
今、その虚ろな目や無表情といった装甲が剥がされ、彼女を支配していた恐怖や孤独が剥き出しになったからこそ、彼女は何もかもを吐き出すように泣いているのではなかろうか。
傷付かないようにと纏っていた装甲を失った今、彼女は最も危ういところにいるのではなかろうか。
だからこそ、彼に縋る手には驚く程に強い力が込められているのではなかったか。離さないでと、この手は訴えているのではなかったか。
この子がようやく外に下ろすことの叶った「荷物」を、果たして自分はどれほど引き取ることができるのだろう。
今、正に自分はそれを試されているのだと、解っていたからこそ彼はひどく緊張していた。
自分は彼女の荷物を受け取るに相応しい人間ではないのだと、心得ていたからこそ、恐ろしかった。
彼女のお母さんならもっと上手に君を落ち着かせることができただろう。
シロナならもっと器用に楽しく彼女を笑わせることができただろう。
彼女がずっと探していたアカギがこの場に現れさえしてくれれば、彼女が泣き続ける理由など一瞬のうちに消え失せるだろう。
そうした、彼女に相応しい人間は他に大勢いるにもかかわらず、今、その誰しもがここにはいない。
ここには、人と接することを苦手としていた、ただの無力な男しかいない。けれど、そんなただの、何の力もない筈の一人の男に、この少女は全てを打ち明けてしまった。
彼女は彼に全てを打ち明けた。故に彼の手には、彼女を支えるための何もかもが揃っている。それなのに彼はこの少女にかけるべき言葉の最善が、取るべき最良の行動が、解らない。
そうしてぐるぐると巡らせていた思考を、しかし紙の乾いた音が遮った。
いつの間にか、彼女は緩められたゲンの腕からするりと抜け出し、その華奢な手でノートとペンを構えていたのだ。
ノートを捲る音は、耳鳴りのようにいつまでも残るかと思われた。先程までの喘鳴と嗚咽をなかったことにするかのような、しっかりとした筆圧で少女は言葉を綴った。
頬に残る涙の筋が反射する、蛍光灯の光がひどく眩しい。
『わたしはことばがないとあなたに何も伝えられないけれど、あなたはことばにしなくても、いつもたくさんのことをわたしにくれるね。』
頭を殴られた気がした。その瞬間、彼を支配したのは歓喜などではなく、何を言っているんだと声を荒げたくなる程の衝動的な憤りだった。
それ程までに少女のその文字は、彼の真実と乖離し過ぎていたのだ。
『だから、あなたともっと話がしたい。あなたに言いたいこと、たくさんあるけれど、文字じゃおいつかない。声があればいいのに。』
「私は!」
とうとう大声を出してしまったゲンに、少女はびくりと肩を跳ねさせて彼を見つめた。
どうしたの、と口の形だけで尋ねるその表情は不安そうでこそあったものの、こちらへの恐れは微塵も感じられなかった。
その、ただただ困惑した顔色にも、少女の彼への信頼を見ることができる。この子は、自分がただの一度だけ声を荒げた程度で、こちらを警戒したりなどしないのだ。
そんなことさえも私は気付けなかった。こんな不甲斐ない私が、一体君に何をあげられたというんだ。
「……私は、君に何をあげられた?」
驚いたようにその目が見開かれたが、それは一瞬だった。彼女は嬉々としてペンを取り、次のページに記し始めた。
走り書きのような雑な字は、彼女の、内から湧き出る言葉の量に、書くスピードを追い付かせようとした結果の産物だろう。
『あなたはいつもおはようって言ってくれる。いっしょにごはんを食べてくれる。
あなたがちょっとしたことでわらってくれるのがうれしいし、あなたにあたまをなでてもらえると、すぐに元気になれる。
それに、あなたの作ってくれるごはんは、わたしだって、今まで食べたどんなものよりもおいしいっておもっているよ。カレーは、少しからかったけど。』
「……」
『わたし、あなたとおはなしする時間が、いちばんすきだよ。』
そこまで書いた少女はぴたりと手を止め、ゲンの方を見た。困ったように笑いながらペンをノートの上に置き、ひらひらと、疲れた手をほぐすように何度か振った。
そしてもう一度ペンを握った少女は、やはりゲンの予想できない言葉を綴る。
『やっぱり足りない。もっといっぱいあるけれど、かききれない。それに、手がいたくなってきた。』
おかしい、と思った。同じ時間と空間を共有していた筈なのに、互いの真実がここまで大きくかけ離れているという事実に彼は目眩さえ覚えた。
彼はこの少女に何もあげられていない筈だ。そうした、悉く無力な男であった筈だ。
けれど少女はそうした男にあらゆるものを見出し、彼を誰よりも信頼し、慕っている。
そうした彼女の認識を、おそらくはひどく歪なその認識を、しかし彼は「間違っている」と糾弾することができなかった。
互いが持つ真実の齟齬に頭を痛めたところで、眩暈を覚えて憤ったところで、この身を浸す歓喜と安堵の海はどうしようもない。
彼は安堵していた。よかった、と泣きそうになった。
君がそんな風に笑えるまで傍に寄り添えたのが私でよかった。こんな不甲斐ない私を許してくれたのが君でよかった。
心が驚く程に凪いでいた。嵐のように吹き荒れていた彼の激情をなかったことにしたのもまた、彼女の無垢で真摯な言葉だったのだ。
そんな言葉を書き過ぎて手が痛いと零す少女は、しかしまだペンを置くことをしなかった。
『わたしの声、もどるかな?』
そのたった一文は、彼を「最初の日」に引き戻した。この不思議な生活が始まったあの日、シロナが自分にこの少女を託したあの昼下がり。
あの時、彼は確かにこう思ったのだ。「私には無理だ」と、「自分には彼女の声を取り戻す術などない」と。
何もかもが変わってしまった彼女の、その何もかもがあの頃は恐ろしかった。
けれど今は心から、その力が他の誰でもない自分に在ってほしいと、そのためならどんなことだって惜しまないと、そう思えるのだ。
「戻るよ、必ず戻る」と、自分に言い聞かせるようにはっきりと告げた。彼女の夜色の目は変わらず眩しかったが、彼は決して視線を逸らさず、その夜に彼の誠意を刻んだ。
「君の声も、アカギさんも、一緒に探そう」
この少女の声を在るべき場所に戻さなければいけない。
そうして初めて、彼女は帰るべきところへ帰れる気がした。そうして初めて、彼女は声のなかった頃のことを忘れられる気がした。
そう、いくら少女が彼を慕っても、いくら彼が少女に許されても、この大前提だけは最初のあの日から変わらない。少女は彼を忘れるべきだ。彼もまた頑なで、幼かった。
少女がふわりと安心したように笑ったが、それは一瞬だった。テーブルに置いていた携帯電話がけたたましい音でこの時間を破り取ったからだ。
誰からだろうと思いながら立ち上がり、その通話ボタンを押せば、こちらの挨拶よりも先にその言葉が飛び込んできた。
『すぐに来て、お願い。』
その声がシロナのものであると確信したゲンは、何故かひどく焦っている様子の彼女を落ち着かせようとしたが、次の言葉で彼さえも、その平静を奪われてしまうことになる。
『アカギさんが見つかったの。ナギサシティにあの子と一緒に来て。』
新雪の地に放り込まれたかのように、頭の中が一瞬にして真っ白になった。
「解った、すぐに向かう」と告げて電話を切りながらも、一体何が「解っている」のか、向かってどうするのか、といったことの一切が解らなかった。
茫然と立ち竦むゲンを、駆け寄って来た少女が心配そうに見上げている。
透き通った夜の目を覗き込むように屈んで「外に出よう」と簡潔に告げれば、その目が大きく見開かれ、詳細を問うようにぱちぱちと恣意的な瞬きが為された。
「君に会わせたい人がいるそうだ。……大丈夫、今日も曇っているから影は落ちないし、私も一緒に付いていく。君にも君の大切な人にも、危ない目には遭わせないよ」
アカギさんに会いに行こう、と彼は口にすることができなかった。
その名前を出せば彼女が激しく狼狽するだろうことが解っていたからこそ、その単語を押し留めたのだ。
装甲の剥がれた彼女を襲うあらゆる感情、その波の全てを鎮められると誓える程、彼は利口でも勇敢でもなかったのだ。
けれどこの場でアカギの名前を出せなかった点については、他にもっと利己的な、醜い理由があるように思われてならなかった。
おそらく彼は恐ろしかったのだろう。
アカギの名前に彼女が反応すること、彼女の平静を奪い続けてきた彼という存在、その彼に酷い言葉を投げてしまうかもしれないと彼は思い始めていた。
彼女の前で無遠慮かつ乱暴な言葉を紡ぐことになるかもしれない自分が恐ろしかった。
だから今、彼女には落ち着いていてもらわなければいけなかったのだ。先に自分の方を落ち着かせなければと躍起にならざるを得なかったのだ。
自分が無力かつ矮小な人間であることを解っていた。彼は弁えていたからこそ、勇敢になることができなかった。
そんな彼を責めるように、少女は訝しげに首を小さく捻った。ゲンは彼女に「すまない」と謝りながら、それでも最後まで、彼の名を出すことができなかった。
2016.8.23