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「君に聞きたいことがあるんだ、いいかな?」

翌日の昼、ゲンはソファに身体を沈める少女の傍に屈んでそっと話し掛けた。
あの不思議な世界での4時間を経て、彼と少女の間に敷かれた大きな壁は殆ど取り除かれていた筈だった。
だからこそ、その4時間を経ても解決されなかった疑問は、こうして言葉を交わすことで解決させるべきだと心得ていた。彼はもう躊躇わなかった。

「私は一度、君のカバンに足をひっかけて、中身をばら撒いてしまったことがあってね。その時に、あのマスターボールを見ていたんだ」

少女はさっとその顔色を変えて肩を強張らせたけれど、以前のように震えて泣き出したりはしなかった。
ただ、夜色の目を動揺と困惑に揺らして、それでも健気にじっと彼を見つめていた。見上げる必要はなかった。当然のように彼が、目線を彼女に合わせていたからである。

「君はあの破れた世界でギラティナと対峙したとき、あのポケモンから逃げたと言っていたよね。君にとってギラティナは、それ程までに恐ろしいポケモンだった筈だ。
けれど君はそのポケモンを捕まえていたよね。しかも、ボールの上からガムテープでぐるぐる巻きにして。
……あれは、何故だい?どうして君はあの恐ろしいポケモンを捕まえて、自分の手持ちに加えようと思ったのか、聞かせてほしい」

ゆっくりと、言い聞かせるように告げたそれらの言葉を、少女は長い時間をかけてゆっくりと咀嚼したようであった。
膝の上に置かれていたノートとペンを構え、少し考えた後で、書き始めた。彼女の文字を書くスピードは、この数週間で確実に速く、筆圧は確実に濃くなっていた。

『ずっとあのせかいでアカギさんをさがしていたら、ギラティナがわたしに向かってとんできたの。
にげようとしたけれど、目の前がまっくらになって、こわくて、でも気がついたら外のせかいにいたの。ギラティナにおい出されたんだって、すぐに分かった。
それから、ギラティナはまだわたしをじっと見ていて、わたしもアカギさんみたいに食べられるんじゃないかとおもって、ひっしで、ボールをなげた。』

10歳の幼い、拙い文字が綴る壮絶な告白を聞きながら、ゲンはあの大きなポケモンの姿を思い出していた。
彼女は優秀なポケモントレーナーだ。あのポケモンに自らのエンペルトやレントラーが太刀打ちできないことを、きっと心得ていたのだろう。
何より優しい彼女は、あのポケモンに自らの大好きなポケモンが傷付けられることを危惧した筈だ。
彼女はギラティナと対峙したあの一瞬の間に、自らのポケモンを傷付けることなく、ギラティナとの対峙を最も早く終わらせることのできる、最善の一手を選び取ったのだ。
その結果があの、ぐるぐる巻きにされたマスターボールだったのだ。

『ギラティナがボールから出て来られないように、ガムテープで何回もまいた。
万が一、出てきたときに、ポケモンバトルができない人が近くにいると食べられてしまうかもしれないから、町にも家にも行かなかった。
シロナさんはポケモンバトルがとても強いってきいていたし、あなたも強いルカリオをつれていたから、もしかしたらだいじょうぶかもしれないって、おもって。
本当は、外に出るのもかいものに出かけるにもこわかったけれど、あなたがいたから、あなたは強いから、きっとだいじょうぶって。』

彼女が家に帰らなかったのは、やはり自らの家庭を嫌っているからではなかったのだ。頑なに帰宅を拒んだのも、彼女の優しさによるものだったのだ。
『家族の元へ帰してあげれば、あの子も一番落ち着けると思うのだけれど。』
『それが、どうしても戻りたくないらしくて、泣いて嫌がるのよ。』
シロナのあの言葉はそういうことだったのだ。やや狂気めいた頑なな拒絶さえも、ギラティナという得体の知れないポケモンから、彼女の大切な人を守るための行動だったのだ。

そうしたことを、やはり彼は推し量ることができなかった。言葉にされなければ、彼は何も解ることができなかった。
「あなたは強いから、きっとだいじょうぶ」と、彼女にそうした強すぎる信頼を向けられていたこと、それさえも彼はたった今、気付いたのだ。
自分は彼女の信頼に気付けなかった。恥ずかしい、と思ったが、少女はそうした彼の後悔を許さないかのように、文字を綴る手を緩めるところか、更に速度を増して書き続けた。

『くろいものや暗いところがこわかった。ギラティナはまっくらなところから出てきて、アカギさんを引きずりこんでいったから、また、出てくるんじゃないかって。
夜もこわかったから、でんきをつけたままねむった。晴れた日のくろいかげもこわかった。あなたがこがしたまっくろなトーストも、本当は、少しだけ。』

そこまで書いてから、慌てたように、焦ったように物凄いスピードで動き続けていたペンがピタリと止まった。
そうしてゆっくりと顔を上げ、困ったようにふわりと笑った。ゲンは笑えなかった。

よく晴れた日の、彼女の足元に落ちていたであろう影に、あまりにも凄惨な反応を示したことが、昨日のことのように思い起こされた。
何もない筈のあの濃い影に、彼女はギラティナを見ていたのだ。狂ったように土を掻き毟っていたのは、あの黒い影を消し去りたいが故の衝動的な振る舞いだったのだ。

他にも沢山のことを思い出した。
買い物などの外出を躊躇う素振りを見せていたこと。肌身離さず大きな鞄を抱えて、入浴時や自室にいる時以外は、決して離そうとしなかったこと。
ここに来てすぐの頃は、食べ物に殆ど口をつけなかったこと。時間に関する質問全てに、困ったように眉を下げて答えようとしなかったこと。
覚えているけれど今まで解らなかった、解りようのなかったその全てが、彼女の、少し濃くなった筆圧で書かれた文字によって、紐解かれていく。

君は、暗いところからギラティナが現れてくることを恐れていたんだね。
君は頑なにカバンを離そうとしなかったけれど、あれはその中に君が最も恐れるものが入っていて、他の人にもその恐怖を伝染させてはいけないと思うが故の行動だったんだね。

心休まる場所である筈の家に戻りたくなかったのは、いつ牙を剥くかも解らないギラティナから、君の大切な人を守るためで、
そんなにも恐ろしいポケモンを捕まえたのは、君なりの精一杯の抵抗だったのであると同時に、あの世界に置き忘れた何もかもを、ギラティナを経由して探し出すためで、
その世界に永く留まり過ぎたからこそ、君は重力を忘れ、食事と睡眠を忘れ、上に落ちる水のことを忘れ、時計を壊してしまったのであって、
……つまるところ、君は何もおかしくなんてなかったんだね。

そんな、この星の降りた目を湛える少女にとって当然であった全てのことを、けれど今、彼女がこうして言葉にしなければ知ることのできなかった全てを、噛み締めた。
噛み締めるようにその華奢な身体を抱き締めて、笑った。

「私の真っ黒に焦がしたトースト、怖かったんだね。けれどあの中からあんなに大きなギラティナが出てくると、本気で思っていたのかい?」

おどけたようにそう尋ねてみせる。そうした考えに見出すべき面白さを、もう少女は解っている。そんなことは在り得ないと心得ている。だからこそ、その肩は震えていたのだろう。
クスクスと笑うように肩が揺れていた。夜のような髪を撫でればふう、と落ち着いたように息が長く吐かれた。

「話してくれてありがとう。ようやく君のことを知ることができた」

そう告げながら彼はその髪に触れ続けた。
彼女が忘れていたもの、恐れていたもの、その何もかもに辿り着くことの叶った、という喜びを、噛み締めるように腕へと力を込めた。
……けれど、その真実を、彼女にとっての真実が紐解かれた今、僅かながら新しい疑問が顔を出していた。彼は今、それをどうしても確かめなければならなかった。

ヒカリ、君の、」

君の連れているギラティナは、本当に人を傷付けるポケモンだったのかな。

彼女はアカギがギラティナに食べられてしまったと思っていたようだが、実際はそうではなかった。
ギラティナは恐ろしい様相でゲンや少女に向かって来たけれど、その姿が常軌を逸し過ぎて恐ろしいだけで、彼自身は我々に何も危害を加えなかった。
何より、ギラティナはポケモンだ。彼女の連れているエンペルトやレントラーと、本質的には何も変わらない筈である。そして彼女は、ポケモントレーナーなのだ。

彼女は恐怖に目が眩むあまり、肝心なところを見落としていたのではないだろうか。
彼女がギラティナに見出して悲劇的な恐怖は、拍子抜けする程に呆気ない勘違いが生んだものであったのではないか。
この子は恐怖に目が眩むあまり、とても重要なことをまだ忘れているのではないか。

そう告げようとした瞬間、少女の肩が再び震え始めた。
この沈黙にどこかおかしなところがあっただろうかと首を捻るより先に、少女の喉がひきつった音を立て始めた。
あまりにも弱々しい音だった。ささやかな嗚咽すらも噛み殺そうと努めるように、口を固く引き結んでいることなど、視線を落とさずとも解っていた。

ヒカリ、止めようとしなくていい。無理に押し殺すといつまでも苦しいままだからね」

「……」

「今は泣きたいだけ泣きなさい。そのための場所なら、いつまでだって私が作るから」

君が私のことを嫌いになるまで、ずっと。そう声に出すことなく付け足して笑った。


2016.8.23

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