少女がやって来てからずっと雨が降っていた雨も、少しずつ弱くなり始めていた。
梅雨はまだしばらく続くようだが、今日の昼過ぎには晴れ間が覗くだろうと、天気予報がいつもの声でそう告げていた。
「ヒカリ、外に出てみないかい?」
部屋の中で彼女が起こす不思議な出来事は一向に止む素振りを見せない。
しかし階段から落ちる少女をルカリオが受け止めたり、リビングの床に分厚いカーペットを敷いたりするなどして、できる限りの対処をしてきたつもりだった。
しかしいつまでもこの家の中に彼女を閉じ込めておくのも酷な話であるように思われたし、ここ数日は大雨のせいで家に留まる理由もあったのだが、今日はそうもいかないだろう。
何より、彼女がこれから歩むべきは屋内ではない。野生のポケモンが当然のように飛び出してくる屋外なのだ。少なくとも、ゲンはそう信じていた。
君はバッジケースに残されたたった一つの空欄、あれを埋めなければいけないのではなかったのかい?
そう、声に出さずに彼は促した。彼女は重たげな瞬きをした後で小さく頷いた。
彼女の部屋からコートを取ってきて、その華奢な肩にかけた。ドアを開ければ雨と海の匂いが二人の鼻をくすぐった。傘を広げて天にかざし、少女をその中へと招いた。
家に出てすぐのところにできていた大きな水溜まりで少女は立ち止まり、その水が自分の姿を映す様を、瞬きすら忘れて食い入るように眺めていた。
そうかと思えば家の西に面した崖の方へと躊躇なく足を踏み出し、危うく岩山を転げ落ちそうになってしまう。
この数日で反射的に手を伸べる能力が鍛えられでもしたのか、傍にいたゲンはすかさず彼女の肩を掴んでこちらへと引き戻した。
彼女は驚いたようにその虚ろな目を見開く。ゲンは呆れを隠すように、恐れを誤魔化すように微笑む。何度経験しても、彼女が危ういことをする瞬間というのは肝が冷える。
「……ヒカリ、私達は空を飛べないんだよ」
「……」
「重力って、解るかい?ものは全て「下」に落ちるんだ。この世界はそんな風に出来ていて、君はそうした世界で生きているんだ。
君は確かに空を飛ぶことができるのかもしれない。けれどそれは君の夢の中の話だ。此処は現実なんだよ。夢はもう終わったんだ」
『下』
そのたった一文字だけを、彼女は新しいページに書き込んだ。
その単語が何を問おうとしているのかを彼は解することができず、さてどんな風に言葉を続けるべきだろうかと迷い、しばらくして口を開いた。
「君の足がある方向だよ。試しに何か落としてごらん」
彼女は持っていた青いボールペンを落とした。重力に従ってそのペンは真っ直ぐに少女の足元へと落ちていき、雨に濡れた土に落ちて止まった。
ちゃんと下に落ちただろう、と確認するように紡いだ。彼女は足元に転がったペンを拾い上げることもせず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
彼女の代わりにペンを拾い上げ、その小さな手にそっと握らせた。
「だから私達を支えるものがない空中に、簡単に身を投げてはいけないんだ。それはとても危ないことなんだよ」
長い沈黙が降りた。彼女は頷かなかった。ゲンは恐れと焦りを隠すようにもう一度笑った。
君はこの世界での常識を何処に置き忘れてしまったんだ。君は何処に行こうとしているんだ。
しかし決してそのように糾弾することは許されなかった。少しでも傷付く言葉を掛ければ、この少女はいなくなってしまいそうだった。
沈黙が重いものになったように思われて、ゲンは思わず空を見上げた。雨が止んでいたのだ。沈黙を埋めてくれていた雨音は、もう聞こえなかった。
分厚い雲の隙間から、久し振りに見る太陽が光を勢いよく落とし始めた。二人の下にある濃い色の濡れた土に、黒い影が差した。
「何」がきっかけとなったのか、と問われればおそらく、その青いペンが再び彼女の指を離れた瞬間がそれに相当したのであろう。
小さな水溜まりに落ちたポールペン、その「ぽちゃん」というささやかな水音が、彼女が為した恐ろしい行為の幕開けを暗示していたのだろう。
瞬間、彼女は傘を取り落とし、金属を擦り合わせるように痛烈な叫びの息を、おそらくは悲鳴であった筈のそれを口から吐き出したのだ。
ゲンの姿など彼女の視界には入っていなかったのだろう。彼女はゲンよりも近い位置にいる「何か」を恐れるように、掠れた悲鳴らしきものを上げて逃げ出した。
脚をもつれさせながら、彼女は何度も転び、何度も起き上がっては振り返り、ゲンに向かって何度も「来ないで」「嫌」という風に口を動かして、ぼろぼろと涙を零した。
家の壁に「追い詰められた」少女は、しかし背後にあるドアを、彼女の手が砕けてしまうのではないかと思う程に強く、叩いた。
ドアの開け方を忘れてしまったかのように、彼女は何度も強くそれを叩いた。いよいよ扉が開かれないと解ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔を自分の足元に向けた。
そして地面に膝を折り、石と岩だらけの固い地面に両手を突き立て、あまりにも強い力で引っ掻き始めた。何度も何度も繰り返し、彼女は地を手で掻いていたのだ。
ゲンには「そこ」に、彼女の影が落ちているだけの硬い地面に何があるのか全く解らなかった。どんなに目を凝らしても、そこには石と岩と土があるだけだった。
けれど少女にとっては確かに「何か」が存在しているのだろう。
それは彼女の失われていたと思っていた声を、あのような壮絶な悲鳴という形で引き出させる程のものだったのだろう。
感情の類がごっそりと抜け落ちてしまったかのような、静かで寡黙で一切の音を発することを忘れたかに見えた彼女が、
これ程に明白かつ強烈な恐怖をその顔に滲ませ、枯れた喉を駆使して悲鳴を上げなければならない程の、そうまでして、拒絶しなければならない程の存在だったのだろう。
けれど何も見えないゲンにとっては、彼女がこんなにも恐怖している「何か」よりも、何もない地面を狂ったように引っ掻き続ける彼女の方がずっと、恐ろしかったのだ。
故に彼は傘を取り落とし、その場に縫い付けられたまま、しばらく動くことができなかった。衝撃と恐怖は鎖となってゲンの足を縛っていた。一歩が鉛のように重かった。
その行為を制止する者の現れない状況下で、彼女はいつまでも土を掻き続けていた。掻いても掻いても、雨と涙に濡れた土と石が出てくるだけであった。
そのあまりにも虚しく恐ろしい、どこまでも静かな行為を、少女の小さな影が照らしていた。
「やめるんだ」
ようやく彼女の両腕を掴んで制止することが叶った時には、しかし全てが遅すぎたのだ。
「……此処には何もいない。君が怖がる必要など、何処にもないんだ」
あまりにも強い力で地面を掻き続けたからであろう、彼女の指からは血がぽたぽたと垂れ落ちていた。地面を濡らす赤の上から、更に落ちた涙がそれを滲ませた。
血だらけになった彼女の指では、もうペンを持つこともできなかった。
ハンカチを取り出して少女の両手をそっと包んだ。血を吸って紺色のハンカチは黒く染まったけれど、涙は拭われることなく落ち続け、少女の影を濡らしていた。
「……」
洗わなければ、と思った。血と土に濡れた少女の手を洗わなければいけなかった。
張り裂けてしまいそうな程に大きな音を立てる心臓、それに気付かない振りをして、少女の肩に、自らの震える手をそっと添えた。
「痛かったね」
「……」
「菌が入ってしまうといけないから、水で土を洗い流しておこうか」
涙でぐしょぐしょに濡れた顔をそのままに、少女は茫然と俯いていた。
彼はその隣をゆっくりと、あまりにもゆっくりと歩いた。彼女の小さな足が取る一歩は残酷な程にささやかで、家までの僅かな道が永遠に感じられた。
ゲンは空を見上げた。先程の日差しは雲間が与えた気紛れだったのか、今はまたしても分厚い雲が空の青を塞ぎ、二人の足元に落ちるべき影を奪っていた。
家に入り、靴を脱いで手洗い場に向かった。蛇口を捻る音が静かな家に反響した。
白い洗面器に水を満たしてから、両手を出してごらんと少女に促した。彼女は全く反抗する素振りを見せずに、その赤と黒の手を洗面器へと差し入れた。
傷口に水をかければ当然のように染みる。それは痛みとなって彼女を苦しませる筈であったのだが、少女は水から手を引かなかった。
ぱしゃぱしゃと波を作る水がじわじわと赤黒くなっていく。粗方、泥を落とせたと判断したところでゲンは一度水を捨て、もう一度洗面器に水を浸した。
少女はその虚ろな目に水を溜めながら、けれど決して水から手を引かなかった。水はゆっくりと、けれど確かに赤くなっていった。
血の滲む両手で、淡く赤色に染まる美しい色をした水を掬い上げ、落とした。何度も何度も繰り返していた。その規則正しい水音はまるで木霊のようだった。
赤い波紋の音が飽きる程に繰り返された後で、ゲンはその水を同じように片手で掬い取り、指に僅かな隙間を作って、ぱしゃんと落とした。
再び赤い水の中に沈められた彼女の手を、取った。
水は下に落ちるんだよ。
そう、告げるべきところだったのだろう。しかしその言葉は音にならなかった。何故なら彼の口は別の音で塞がれていたからだ。
少女は慌てたように鞄の中のペンを取ろうとしたけれど、血の滲む指ではペンを握ることもできないのだと気付いたらしく、彼を覗き込むように見据えて口を動かした。
何度も何度も繰り返したたった一言だけを、その小さな口は紡ごうとしていた。音にならずとも、聞こえていた。
『どうしてあなたがなくの。』
2016.6.5