声のない少女に声をかけ続ける生活も今日で4日目だ。10時を過ぎた頃に「おやすみ」を告げてから、少女がベッドに潜り込んだのを見届けてそっとドアを閉めた。
雨はあれから止むことを知らず、強い風が窓をひっきりなしに叩いていた。
当然、この雨と風の強さでは船も出せる筈がなく、ミオシティの船頭から「食べ物は足りているかい?」と電話が掛かってきた。
大丈夫だと返して受話器を下ろしたが、寧ろ食べ物よりも、彼女の無機質な部屋に必要な家具や衣服を揃えに行けないことの方に申し訳なさを感じていたため、
別段雨を苦手としていない筈のゲンも、今回ばかりはこの雨に多少の恨めしさを抱いていたのだ。
自室に戻ったゲンは椅子を手繰り寄せて座った。
全身を吊るしていた糸が切れたかのように、彼は足を床に投げ出し、手をふらふらと宙に泳がせて苦笑した。これではまるで彼女のようだ。
しかしまだ眠る訳にはいかなかった。今日一日の彼女の様子を、彼は朝から少しずつ時を追って思い出すという作業がまだ、残っていたからだ。
二人とも一日中、家にいた。それだけだ。特に大きな変化などある筈がないようにも思えたが、それでもゲンが拾い上げることの叶う情報は山のようにあった。
それを全て手元のメモ帳に書き留めてから、3日分のメモをもう一度読み返した。彼女が見せた奇妙な行動の数々が、男性特有の少しばかり荒っぽい字で綴られていた。
ミオシティで橋から海へと飛び出し、真っ逆さまに落ちていった。その目は虚ろで、その口は一言も声を発しなかった。
フローリングに転がったスプーンを拾おうとして、その手が不自然に何度も空を切った。
何もない平らな床の上で突然、糸が切れたようにコトンと倒れた。けれど苦しんでいる様子はなく、寧ろ平然としていた。
雨をとても珍しいもののように見つめ、窓を開けて手を外へと伸ばした。
ここまでが1日目だが、彼女の奇行はそれだけに留まらなかった。
洗濯を手伝ってもらうために、2階のベランダに向かったその帰り、階段で足を大胆に踏み外して4段ほど転げ落ちた。
おやつにと差し出したゼリーの蓋を開けず、持ち上げては膝の上に落とすということを繰り返していた。
スプーンをテーブルの端に起き、指先で軽く突いて落とした。真っ直ぐに落ちてカランと音を立てるそれに、困ったように眉を下げた。
一歩進んでは振り返り、足元を見つめていた。自分の歩幅を確かめるように、何度もそれを繰り返しながらリビングを歩き回った。
何もないところで倒れたり、落ちたものを拾おうとして手が空振りしたりする所作は2日目、3日目にも見られた。
まるで重力を忘れているかのようだった。
加えて、彼女は出された食事を殆ど口にしていなかった。
自分の作る食事はそこまで味の悪いものなのだろうかとゲンは不安になったが、既製品のプリンにさえ一口しか食べていないところを見ると、料理に問題がある訳ではないようだ。
1日にどれくらい食べれば生きていけるのか、そうした医学的な知識はゲンにはないが、
明らかに彼女が生きるために、また子供から大人へと成長していくために、今の食事量では足りていないことは明白だった。
3日もそんな状況が続けば当然のようにエネルギー不足になる。彼女の足取りは益々覚束なくなり、椅子から立ち上がっただけでふらふらと眩暈を覚えているような所作を見せた。
この子は、食べなければどうなってしまうかを解っていないのかもしれない。食べることの重要性というものを、理解していないように思える。
また、彼女の言葉はゲンが買い与えたA5サイズのノートに綴られていたのだが、
ゲンがどれだけ促しても、一向にペンを取ろうとしない質問というものがあり、それはここ数日でかなりの数に及んだ。
「何時に眠り、何時に起きているのか」「好きな食べ物は何か、嫌いなものは何か」「何か月前から旅を始めたのか」等々……。
彼は少女が答えることを拒否した質問をできるだけ心に留めておき、これも夜、眠る前に自室のメモ帳へと書き記していた。
そうした作業を3日続けて、解ってきたことがある。
彼女は「時間」が絡む質問には全て困ったように首を振るだけで、一向に答えようとしてくれなかった。また、食べ物に絡む話題もあまり好きではないようだった。
けれど「君のエンペルトはどこで進化したのか」「これまでどんなポケモンと出会ってきたのか」等の質問には、
彼女はノートにその時のことを綴ったり、ポケモンの入ったボールを差し出したりするなどして答えを示そうと努めてくれていた。
答えられない話題に関する共通項を見つけることは叶ったが、しかし「時間」の絡む質問に答えられない理由、食べ物の質問に首を振る理由にはまだ思い至ることができない。
けれど「時間」に関しては、2日目の夜にゲンは気になるものを見つけていた。
彼女の鞄に付けられたキーホルダー式の時計、それの示す時刻が、現在の時刻と大きく異なっていたのだ。
夜の9時過ぎであるにも関わらず、そのキーホルダーウォッチは4時30分を示していた。
しかもよく見るとその秒針は1を過ぎたところで小刻みに震えるばかりで、長針と短針も全く動いていないのだ。
彼女は壊れた時計を直さないままに旅をしていたのだろうか。だから時間の概念が希薄なのだろうか。
けれど時計など、今の時代なら町に赴けば何処にだって売っている。
壊れた時計のままでは不便を極めることなど分かっていた筈なのに、何故彼女は新しいものを買わなかったのだろう。
確か「母親が旅に出る際に買ってくれたお気に入り」と1ヶ月前の彼女は言っていた。愛着のある時計であったから、買い替えるのが躊躇われたのだろうか。
仮にそうだとして、では目立った外傷もないあの新しい時計は何故「壊れた」のだろう。何より彼女は何故「時計がないと不便だ」と思わなかったのだろう。
解らない。少女なら知っているのかもしれないが、彼女は答えてはくれない。答えが得られないから、推し量るしかない。
質量のあるものは下に落ちる。人は空を飛べない。お腹が空くと体が重くなり、力が出なくなる。時間は起きている間も眠っている間も平等に流れ続けている。
そんなことは10歳の子供なら、感覚的に知っていて当然のことであるように思えた。だからこそ、解せなかった。
彼女はこの世界における「当然の理」を忘れてしまっている。ゲンにはそんな風に思えたのだ。
「階段は一段ずつ降りなければいけないよ。踏み外したり飛び出したりすれば、硬い床に叩き付けられてしまうからね」
「ものは下に落ちるんだよ。上に浮かび上がったり、勝手に右や左へ飛んでいったりすることはないんだ」
「人間は食べ物から力を貰って生きているから、ある程度食べておかないと、疲れやすくなったり、力が出なくなったりしてしまうよ」
だからこそ、彼は事あるごとにそうした内容のことを、当然のことであるが今の彼女に悉く欠落していると思われることを、言い聞かせるように、諭すように口にした。
その度に彼女は驚いたような、困惑したような、けれど何処かで彼の言葉を完全には受け入れていないかのような目で緩慢に瞬きを繰り返してから、そっと目を伏せた。
彼女の心はどうなっているのだろう?まだ解らない。まだ彼は少女の虚ろな目の色を紐解けない。
*
その夜、ゲンは夢を見た。空を飛ぶ夢だった。
それはまるで水の中で平泳ぎをする感覚だった。宙を両手で掻けばどこまでも先へと進んでいった。
床を強く蹴ってジャンプするように踏み出せば、そのまま自分の身体はどこまでも高く浮かび上がり、決して重力に足を取られることなく空を漂い続けていた。
地面を蹴る自分の一歩がこの上なく大きなものに感じられた。
勿論、それは夢である。目を開いたゲンの体はもう夢の中にはない。
彼は空を飛べない。平泳ぎで宙を進める筈がない。人の一歩はこの上なく小さなもので、だからこそ我々は歩みを止めないのだ。
そんなことは解っている。空を飛べないこちらの世界が現実で、どこまでも飛んでいけたあの世界は夢なのだと、理解している。
けれど、彼女は?
彼女はもしかして、彼女は夢と現の区別がついていないのだろうか?あの虚ろな目の色は、この現実を見ることを止めた、拒絶と否定の色だったのだろうか?
仮にそうだとして、では自分はどうやって彼女の目を覚まさせるべきなのだろう。此処は夢ではないのだと、どんな言葉で説けば彼女の心に届くのだろう。
悩んだ挙句、ゲンは昨日と同じように部屋を出て、廊下を歩き、彼女の部屋に通じるドアの前に立った。
彼女はゲンがノックをする前に、彼の足音を拾い上げてこちらへと歩み寄り、ドアを開けてくれた。
新しい文字で「おはよう」と書きこんだノートを、その小さく細い腕に抱いていた。彼は膝を折り、彼女の重い目を覗き込むように見つめて、紡いだ。
「おはよう、ヒカリ」
ノートを掲げる形で為される彼女の挨拶を、彼は決して欠かすまいと心に誓った。今は朝なのだと、夢の時間は終わったのだと、目を逸らさずに言い聞かせるように紡いだ。
どんな理屈よりもこの挨拶の言葉が、この少女へと真っ直ぐに届く筈だと信じていた。
だって、挨拶をする時にだけ、この虚ろな目をした少女は僅かに笑うのだ。
2016.5.15