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潮風が一人の少女をこの島に運んできた。まだ肌寒さの残る5月の頃だった。

白いニット帽の下に見える髪留めは、彼女の頬に似たピンク色をしていた。
早朝にもかかわらず元気に鋼鉄島の坂を駆け上がってきた彼女は、しかし洞窟の入り口で佇んでいる青年を見かけると少しばかりその歩幅を小さくした。
大きな藍色の目がぱち、ぱちと、そこに青年が「いる」ことを確かめるように瞬いた。
深い、夜のような目をしていた。朝日がその目に差し込むと、まるでその小さな両の目の夜に星がキラキラと舞っているようにさえ見えた。

「お兄さん、こんにちは」

少しばかり躊躇うようにその目は泳いだが、しかし直ぐにその迷いをなかったことにするような真摯な、それでいて陽気な子供らしい眼差しが青年に向けられた。
夜がすっと三日月型に細められた。その細い目に太陽の光は差さなかった。
ああ、星が隠れてしまった。そんなことを思いながら青年はぎこちなく微笑んだ。

「こんにちは」

別に子供が嫌いだったわけではない。ただ、子供と関わる機会が無さ過ぎたのだ。
ポケモンの修行を重ねたり、ミオシティのジムリーダーであるトウガンの手伝いをしたりと、そうした生活柄、シンオウ地方の各地を巡ることは多分にあったのだが、
如何せん、それらは人と会話をせずとも何ら不自由なく事の運ぶものばかりであったのだ。
仮に会話をすることがあるにせよ、このような幼く小さな子供と話をする機会など、この青年に訪れる筈もなかった。

故に彼は、この少女を直視することを躊躇っていた。こんにちは、と挨拶をするだけの声も何処か頼りないものだった。
今すぐにでもこの島から逃げるように立ち去ってしまおうかとまで考え始めていた。
彼女がこの青年に話し掛けるのを躊躇ったのは、彼女が内気だからでは決してなかったのだろう。彼女はそうした、青年の側に生じた躊躇いを読み取ったのだろう。
子供というのはそうした、不思議なものを見ることの叶う目を持つのだと、関わる機会がなくともそう心得ていた彼は、自然とこの少女に対して身構えてしまっていた。
けれど少女の方は、自らの挨拶に「こんにちは」と返してくれたこの男にすっかり心を許したのか、何ら緊張の色を見せることなく嬉しそうに言葉を続けた。

「ここ、海の匂いがするね」

「え?……ああ、そうだね。君はミオシティの子ではないのかな?」

「うん、フタバタウンから来たの。エンペルトやレントラーと一緒に旅をしているんだよ」

彼女のコートのポケットは不自然に膨らんでいた。どうやらモンスターボールがそこに入っているらしい。
エンペルトを連れているということは、ナナカマド博士からポケモンを貰って旅に出たのだろう。
すなわち10歳の誕生日は確実に迎えている筈だが、しかしそんな年齢よりもずっと彼女は幼く見えた。
8歳や7歳だと言われても頷いてしまいそうな、そうしたあどけなさがまだ残されている。
そう思ってしまうのは、この青年がそうした子供達と関わってこなかったからだろうか。
彼女が「幼い」のは、果たして青年の目に映ったからそうであったのか、それともただ彼女の真実としてそこに在ったのか。

「お兄さんはここで何をしているの?」

「ポケモンと一緒に修行をしているんだ。鋼鉄山は険しいところだから、キミが挑戦するのは難しいかもしれないよ」

そう告げれば、しかし少女は得意気に鞄からバッジケースを取り出した。8つの窪みのうちの6つが、既にキラキラと光るバッジにより埋められていた。
それらが子供にありがちな、段ボールを切り抜いたりガラスの欠片に装飾を加えたりした紛い物ではなく、彼女の力を示す「本物」のバッジであるのだと、
他の大人が信じずとも、青年には解っていた。解っていたからこそ驚愕に目を見開き、信じられないような心地で少女を見下ろした。
彼は膝を折り、同じ目線に顔を下げてから真っ直ぐに彼女の、煌めく藍色の目を見つめた。

「凄いじゃないか、頑張ったんだね」

「うん、皆はいつだって頑張ってくれるんだよ。皆がどんどん強くなっていくから、私ももっと強くならなきゃいけないんだ」

ポケモンに成長を委ねるのでも、ポケモンの成長は自身の成長だと認識するのでもなく、
ポケモンが頑張っているのだから自分も同じように頑張らなければいけないのだと、当然のように口にする。
そうした子供らしい、あまりにも真っ直ぐに真摯に誠実に、ポケモンへの想いを声に出し示す彼女は、彼の目にとても眩しく映った。
彼女の夜色をした目に星が映らずとも、その夜はやはり眩しかったのだ。

「それじゃあ、私も一緒に行こう。それだけ頼もしかったら、私が君に助けられてしまうかもしれないな」

「うん、いいよ!それじゃあ私がお兄さんを守ってあげるね!」

微塵の迷いも見せず頼もしいことを口にした彼女は、行こう、と満面の笑みを湛えて男の手を取った。
子供の体温というのはこんなにも温かいものなのかと思いながら、小さいその手を握り潰してしまわないかと彼は躊躇い、しかし一瞬の逡巡の後で力強く握り返した。
彼女の手は当然のように潰れることなどあり得ず、寧ろこちらが潰されてしまいそうな程の力強さで彼女は再び握り返し、笑った。

エンペルトは6つのバッジに違わぬ強さで洞窟のポケモン達と対峙していた。
ポケモンが強いことも勿論だが、彼女の「強くならなきゃいけない」という言葉に違わず、彼女自身にも青年は相応に感心していたのだ。
彼女は周りをよく見ている。手当たり次第にポケモンに勝負を挑むことなどせず、敵意を見せて襲ってくる野生のポケモンに背後を取られまいと、慎重に歩みを進めている。
それでいて一度対峙することを覚悟した相手には、遠慮も躊躇いも見せることなく最善の一手を絶妙なタイミングで指示している。
それらは子供らしい荒削りな面を多分に含んでいたのだが、それでも彼女は強かった。
自分の手助けなど要らないのでは、寧ろ自分が足を引っ張っているのではと疑う程度には、彼女は彼女の望んだ「強さ」を既に手に入れているように思われたのだ。

けれどそうしたことを、彼は決して口に出さなかった。
君はもう十分に強いのだからこれ以上頑張らなくてもいいのではないか、などということは、思っていたとしてもどうしても紡ぐ気になれなかったのだ。
彼女はまだ子供だ。自らの限界を予め敷いておき、楽な道を行く癖を身に着けた大人とは全く別の世界に生きている、無垢で真っ直ぐな人間なのだ。
触れれば汚してしまうと恐れる程に、崇高な眩しい原石が今、自分の隣を歩いている。彼にはそんな風に思えてならなかった。

それに、彼女はそうした「強くならなきゃいけない」という言葉を、自分を縛る鎖のようだとは微塵も考えていない。その強さは誰かに強いられたものでは決してない。
彼女は強くならなければいけない。それは他でもない、彼女がそう在りたいと心から願っているからだ。
そうした真っ直ぐな理由がはっきりと見えてしまったからこそ、彼は余計な言葉を挟んで彼女の世界を揺らしたくはなかったのだ。
そのまま真っ直ぐに進んでいってほしいと思った。その隣に自分はいない方がいいのではないかと思ったけれど、今だけならそれも許されるのではないかと思ってしまった。

実のところ、青年がこの洞窟に潜ったのは一度や二度では決してなかった。
もう道など完璧に覚えてしまったし、彼の手持ちであるルカリオも、この洞窟にいるポケモン程度なら一匹で対峙できるだけの強さを備えていた。
故に彼女のポケモンが青年のルカリオに匹敵するだけの強さを備えていると判断した段階で、彼が彼女の洞窟探検に同行する意味は最早なくなってしまっていたのだ。
それでも彼は翌日も、その翌日も彼女に同行した。早朝の船で鋼鉄島に訪れる彼女を、彼はいつだって洞窟の入り口で出迎えた。
それは最早彼女のためではなくなっていた。自分のためだった。彼が、彼女と一緒にポケモンバトルをしたかったのだ。彼が、彼女と話をしたかったのだ。

「君の言葉は真っ直ぐで、真摯で、聞いていて元気が出るよ。私のような人間には少し眩しいくらいだ」

数えきれない程に言葉を交わした。こちらが一を問えば三にして返してくれる彼女に、旅の話を尋ねながら洞窟を奥へ奥へと進んだ。
少女の鞄に付けられた星形のキーホルダーウォッチが正午を示せば、彼女は探索を中断してお昼を食べようと青年を促した。
旅に出る時に母親が新しく買ってくれたというその時計を、彼女は「お気に入り」と称してどこまでも無邪気に、しかし少しだけ得意気に笑っていた。
二人で持ってきていたカップラーメンにお湯を注いで食べた。箸の持ち方が子供っぽい歪みを呈していることさえも微笑ましかった。
小さなカップラーメンを食べる速度も、大人と子供では当然のように異なる。一口の大きさに生まれる違いを見比べて少女は笑った。
早く大人になりたい、と告げる彼女に、子供も悪くないものだよと常套句を告げて彼も笑った。

人とろくに関わってこなかった自分が、思いの外、適切な言葉を紡げている。気まずい沈黙を作ることなく楽しく会話を為せている。そのことに少しばかり浮かれていたのだ。
少女と過ごした数日間はあまりにも鮮やかで楽しく、充実したものだった。

洞窟を隅々まで探索し終えた少女に、彼はポケモンのタマゴを預けた。
その子に外の世界を見せてあげてほしい、と告げれば、彼女は「いいの?」と一度だけ確認を取ってからそのタマゴを両腕でしかと抱き締め、満面の笑みでお礼の言葉を紡いだ。

「お兄さん、また会えるかなあ?」

「そうだね、私は当分の間ここにいるつもりだから、またいつでも来るといいよ」

「ありがとう!今度は私のポケモンとバトルをしようね!」

負けないよ、と付け足すと同時にくるりと踵を返す。軽快な足音が船へと向かう。
ぴょんと跳ねるように乗り込んだその姿を、おそらくもう見ることはないのだろう。
少女にとってこの青年は、旅の途中で数え切れない程に出会う人々の中のたった一人に過ぎない。不意に思い出してくれることもあるかもしれないが、それだけだ。
彼女はきっともう二度とこの場所を訪れない。二度と彼に会うことはない。そして、それでいい。

彼女はもっと広いところに羽ばたくだろう。その隣に在るべき相応しい存在はきっと他にいるのだろう。
そこに自分を含んでほしい、などとは言わない。ただ、あのタマゴから孵ったポケモンが彼女の力になってくれさえすればいい。

「お兄さん!」

けれどそうした「思い出」にすべき人物に、彼女は最後の最後で自らの名前を告げた。

「私、ヒカリっていうの!お兄さんの名前を教えて!」

教えない。君は私を忘れるべきだ。
そうした思いを裏切って、彼は自分の名前を口にした。彼女は遠ざかる船の上から何度も彼の名を呼び、しきりに手を振った。彼はしばらく迷った後で、振り返した。


2016.5.1

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