W 秋ー5

Nはレシラムに乗って、ワカバタウンに向かっていた。
コトネもNに会いたがっているから、たまにはワカバタウンにも遊びに来い」とシルバーに言われたことがきっかけだった。
トキワの森を抜けたトキワシティのポケモンセンターで一泊してから、Nはカントーを去ることにした。
もう十分に、ポケモンと人との関わりに触れることができたと感じていたからだ。

ジョウトとカントーの間にそびえ立つポケモンリーグを越え、白銀山という大きな山に差し掛かると、雪が激しく振りつけてきた。
あまりの風圧にNは目を閉じる。すると、何処からか声が聞こえてきた。

「……レシラム、この山で降ろしてくれないか」

レシラムは激しい吹雪に戸惑いながらも、ゆっくりとその山頂へと降り立った。
……確かに、此処から声が聞こえたのだ。小さな、けれども強い声音。覚悟の裏に少しの寂しさを滲ませる呟き。

「!」

吹雪の中、駆け寄ってきたのは小さな黄色いポケモンだった。

「こんにちは。寒くないのかい?」

「ぴか」

Nはそのポケモンを抱き上げようとしたが、カレはNの手をすり抜けて奥へと駆けて行ってしまった。
見失わないようにと慌ててNがその後を追うと、そこには一人のポケモントレーナーがいた。
こんなにも吹雪が険しい山頂に人がいること自体も信じられないことだが、更に驚くべきことに、彼は半袖のシャツを着ていて、しかも全く寒そうな素振りを見せないのだ。
それは、彼の元へと駆け寄ったポケモンも同様のようで、声からも、寒さに苦しんでいるという言葉は聞き取れなかった。
そのポケモンが自分に向けているのが戦意だということに気付くのに、Nは少しだけ時間が掛かった。

「……」

赤い帽子を被った半袖の少年は、ボールを構えてこちらを見据える。
ポケモンバトルを申し込まれているらしいことは分かったが、こんなにも悪天候の中でポケモンを戦わせることをNは好まなかった。
それに何よりも、

「ごめん、寒くてそれどころじゃないんだ」

「……」

すると少年は、黙って近くの洞窟を指差す。
Nはこの少年と、少しの間、雨宿りならぬ雪宿りをすることにした。

その小さな洞窟の中には、寝袋や電球など、旅の道具が無造作に並べられていた。
少年はボールからポケモンを出し、その炎でコップの中身を温め始める。

「君の名前は?」

「……レッド」

「ずっと、此処にいるのかい?」

彼は頷いて、温まったコップをNに渡した。甘い香りがするところからして、ココアだろう。口へ運ぶ前に両手でそれを抱き、暖を取ることにした。
すると、あの黄色いポケモンがこちらへと駆け寄ってくる。ピカチュウと名乗ったカレはNをじっと見上げる。その声をNは聞き逃さない。
レッドは不思議そうにNとピカチュウを見つめていたが、やがて自分の分のココアを温め終えると、毛布を肩まで被って沈黙してしまった。

「……」

そしてNはようやく、レシラムの背中で聞いた声の違和感に納得する。小さな、けれども強い声音。覚悟の裏に少しの寂しさを滲ませる呟き。
こういう事だったのだ。Nはここにもポケモンと人とが心を通わせ合う姿を見た。

「どうしたの?」

ふいに笑い出したNに、レッドがそう尋ねる。Nはピカチュウを抱き上げ、彼の元へと渡した。

「この子の声を聞いていたんだ。キミのことを話していたよ」

「え……」

「この子はキミのことが大好きだ。けれど、キミのことを好きなのは自分だけじゃないから、と言っていた。
キミの母親や、幼馴染がキミに会いたがっているだろうから、一度、山を下りてほしいと。
何より、キミの身体が心配だから、こんな寒い場所でいつまでも無理をしてほしくないと、……そう、言っているよ」

キミは沢山の人やポケモンに愛されているんだね。

レッドは沈黙した。彼の言葉をゆっくりと噛みしめ、そしてぎこちなく、微笑んだ。
ポケモンと話ができるらしい彼が、どうしてこんな場所を訪れたのかは分からない。今、彼が話したことも、真実かどうかは分からない。
しかしレッドはその言葉が真実だと確信していた。彼は今、出会ったばかりのNのことを信用できずとも、長年一緒に居たピカチュウのことは誰よりも信じられたからだ。
そんなピカチュウが自分を案じている。自分を取り巻く人のことまで考えている。その事実があまりにも眩しすぎて、少年はぎこちなく笑うしかなかったのだ。
自分の腕の中で「ぴか」と返事をするように声をあげるピカチュウを、彼はそっと撫でていた。

「待っていてくれる人がいるのは、素敵なことだと思うよ」

「うん。……声、教えてくれてありがとう」

Nが発したその言葉の重みを、少年は知らない。
帰る場所を持たないNのその言葉に含まれた、少しの憧憬と羨望を、彼が理解することは決してない。
そして、だからこそ少年は、その言葉を紡いだのだ。

「君にもいるでしょ?待ってくれている人」

Nは力なく微笑む筈だった。微笑んで、その問いを誤魔化すつもりだった。
しかし、彼の脳裏にはとある人物の姿が浮かんだのだ。

『気が済んだら、イッシュに戻って来て。あんたと話したいことが、まだ沢山あるの。』
「彼女」は自分を嫌いだと繰り返し、自分の持つ力を狡いと僻みながらも、自分を特別視することなく、彼女とNとをいつだって「同じでしょう?何も変わらないわ」と称していた。
誰よりもポケモンに愛され、ポケモンを愛していた彼女。誰よりもNが執着し、誰よりもNを嫌い、誰よりも真剣にNと向き合った彼女。
彼女は、今でもボクに戻って来てほしいと思ってくれているのだろうか。Nにはその確証が無かった。それ故に、不安気に口を開く。

「そうであってほしいとは思うけれど、待っていないかもしれない」

すると少年は笑った。先程のようなぎこちなさを感じさせない、とても自然な笑顔だった。
そして、その言葉はNの背中を強く押す。

「……ぼくもそう思っていたから、大丈夫。君が会いたいと思うなら、きっと、その人も君に会いたいと思っている」

「!」

「そのための勇気を、君がぼくにくれたんだろう?」

それからNは、大きな赤いポケモンの背中に乗って山を下りるレッドを見送ってから、自分もレシラムに乗ってワカバタウンを目指した。
出迎えてくれたコトネとシルバーに簡単な挨拶を交わし、暫く会えない旨を伝えた。
「また、必ず顔を見せに来る」という約束をシルバーと交わし、「お姉さんにも、宜しく伝えてほしい」とコトネに告げた。
自分に沢山のことを教えてくれた二人と別れ、Nは、とある場所に向かっていた。

彼の心臓の高鳴りを読み取ったかのように、レシラムは物凄いスピードで空を駆ける。

新しい世界は、Nに沢山のことを教えてくれた。
ポケモンと人との関わりのこと、傲慢になりがちな正義のこと、生きていることの本質や、いきものにおくる愛の形について。
しかし、数字では表すことのできない人の心については、まだ解明できていないことが多すぎた。
『どうして、返事をさせてくれないままいなくなっちゃうのよ……!』
あの時、彼女が泣いていた理由が未だに理解できないのは、きっとそれが原因なのだろう。

人の喜びは、互いの質量を無視した膨らみ方をし、人の悲しみは相手へと分けた途端に弾けて消えてしまう。
それはきっと、生きているからだ。人間はいきものだからだ。いきものは独りでは存在し得ない。それ故に、その心もきっと一人の中には収まりきらないのだろう。
人の心も世界も複雑で、しかしそれ故に美しいのだ。

2つの季節を跨ぎ、様々なことを知った今なら、「彼女」を理解できるかもしれないと、少しだけ思ったのだ。

……しかし本当は、それすら建前に過ぎない。
Nは彼女に会いたかった。ただそれだけだったのだ。その結論を出す為に、2つの季節を跨がなければならなかった。それ程に彼は純粋で不器用で、そして少しだけ臆病だった。

カノコタウンの上空には雪が僅かにちらついていた。吐く息は既に白く、冬の訪れを予感させた。
時を渡り、小さな彼女と出会った時に見た家のドアを、Nは少しの躊躇いの後に、小さく叩く。
それは、彼が初めて踏み出した、小さくて大きな一歩だった。


2014.11.9
N編(秋)完結

© 2024 雨袱紗