一歩

解せない。

「おかえり」

その音は、私の血を分けた兄のものではなかった。
ずっと、探していた人物の声音。思い出を辿り、記憶を噛みしめ、想い続けた相手の、その言葉。
その人物は、私の定位置である椅子に座り、トウヤが出したのであろうホットミルクをさも当然のように飲んでいた。
喉の奥で渦巻く数多の感情は、叫び出したくなる程に強いそれぞれの思いは、複雑に絡み合って、底へと沈んでいった。
故に吐き出した言葉は、

「トウヤ、知らない人を勝手に家に上げるなって前にも言ったわよね?」

という、なんとも素っ気なく、冷淡で、私らしいものにしかならなかったのだ。

私はNの手に握られていたホットミルクを取り上げ、テーブルへ乱暴に置いた。
そして彼の腕を取り、強く引く。階段を駆け上がり、自分の部屋のドアを開ける。
Nをその中に押し込めて、私も中に入る。旅ばかりで最近はろくに使っていなかった自分の部屋は、酷く殺風景で、物が少なかった。
抵抗を一切しない彼を、閉めたドアに追い詰める。私は片手をドアに貼り付けて彼の逃げ道を奪った。

「此処がキミの世界なのかい?綺麗に片付けているんだね」

彼が述べた部屋の感想を完全に無視して、私はNを睨み上げた。
私の部屋に彼がいるという現実。あんなにも待ち望んだ再会。それを何故か、冷めた目で見ている自分がいる。
積み重ねて来た2つの季節が、一気に崩れ落ちそうになる。

「何をしに来たの」

そう紡いだ言葉が、自分でも驚く程に低く、冷たい。
それによって、私は一つの仮説を立てる。自分の中に渦巻く、一つの感情を導き出す。

怒っているのか、と。

ああ、そうだ。怒っていたのだ。私は怒っていた。
勝手に私の中に踏み込んできて、勝手に私の心を掻き回して、勝手に居なくなって、最後にあんなことを言って、私の返事を許さないまま消えてしまうなんて、許さない。
確かにそう思っていたのではなかったか。だからあの時、Nがプラズマ団の城からレシラムに乗って飛び去ったあの時、私は怒りに任せて涙を零したのではなかったか。
許さない、許さないと、憤りを持て余していたのではなかったか。

彼もまた、私が嫌う狡い人間の一人だったのだ。

……本当は、気付いている。けれどまだ、認めたくはない。
あの涙は憤りなどではなく、もっと愚直で臆病な涙なのだと、まだ認めたくはない。寂しさ故のものなのだと、認める訳にはいかない。

ちらりと、私の脳裏にとても素晴らしいアイデアが浮かんだ。
今から私がこの部屋の窓を開けて、そこからゼクロムに乗って飛び去ったら、こいつはどんな顔をするかしら?
きっと彼は私を追い掛けるだろう。しかし私は捕まらない。捕まってなんかやらない。Nに私は捕まえられない。
そうやって彼の前から姿を消して、絶望を突き付けてやろうか。もどかしさと憤りと寂しさにぼろぼろと涙を零させてやろうか。

私が、そうだったように。

そこまで考えて私は息を飲んだ。Nが考え込む素振りをしていたからだ。
「何と説明すればいいかな……」と、悩んでいる。Nが言葉を、選んでいる。
人の心に土足で踏み入り、滅茶苦茶に荒らしていくことを何とも思わなかった筈の彼が、私の為に言葉を選んでいる。私を傷付けないようにと、言葉を組み立てている。
心臓が大きく跳ねた。苦しい、と思った。その理由は解りきっていたけれど、私の心はその結論を出すことを拒んだ。

暫くして、彼が紡いだ言葉は、そのために悩んだ時間にそぐわない、とても短くてシンプルな、しかしそれ故に私の心を深く抉るものだった。

「キミに会いに来た」

「……」

「キミに、会いたくなったんだ。会いに行こうかどうか迷っていたけれど、キミもボクに会いたいと思っていると、そうであってほしいと思いながら、此処へ来た」

その時、私の中の何かが音を立てて弾けた。私はNの胸倉を掴んで叫んだ。

「いい加減にして!私があんたに会いたがっているだなんて、思い上がりもいいところだわ!私はあんたのことが大嫌いなのよ、あんたもよく知っているでしょう?」

「……うん、そうだね」

「大嫌いよ、あんたなんか大嫌い!」

しかし私の言葉は止まる。彼の目に映る私が、あまりの怒りに顔を赤らめて激昂している筈の私が、ぼろぼろと涙を零していたからだ。
そして先程、弾けた「何か」は、きっと私が、彼の前で積み重ねてきた嘘の心なのだと、知る。
旅が与えた私の変化は、これ以上、私の心に嘘を吐くことを許してはくれないらしい。

それは遠く離れたシンオウの地で、私よりも臆病で、私よりも素直な彼女の、とても真っ直ぐな懇願を聞いてしまったからだろうか。
『ずっと会いたかった、寂しかった。』そんな彼女の正直な言葉の記憶が、私の嘘を暴いていく。
ずっと彼に唱え続けてきた「嫌い」の文句は、きっと私自身への暗示だったのだ。それは決して、Nに向けられたものではなかった。そのことに私は気付き始めていた。

大嫌い、と唱え続ければ、いつかは嫌いになれると思っていたのだ。
それがたとえ嘘だとしても、繰り返せばそれは真実になると信じていたのだ。

しかしそれは、叶わなかった。その願いは許されなかった。
だから私は、最後の嘘を吐くことにした。

「私はあんたを許さないわ。
勝手に私の中に踏み込んできて、私の心を掻き回して、最後にあんなことを言って、私の返事を許さないまま居なくなったあんたのことを、絶対に許さない。
あんたのせいで、私の旅は後悔だらけよ。どうしてくれるの?」

貴方がいてくれたから、私は誰かに自分を知ってほしいと願えるようになりました。
貴方が私の存在を求めてくれたから、私も貴方のことを求められるようになりました。
私の旅に貴方が立ち塞がってくれたから、私はより一層、ポケモンと心を通わせることができました。
私が英雄に選ばれてしまったから、貴方を救うことができました。
貴方が私を好きだと言ってくれたから、私は貴方を好きになることができました。
何一つ、後悔なんてしていません。

「私の旅を台無しにしたあんたのことを絶対に許さない。これからも、ずっとよ。だから、」

私は彼に、ようやく縋ることが許されたのだ。


「だから、もう、いなくならないで!」


私はいつだって愚かで、それでいて酷く臆病だった。

2つの季節を跨いだ旅の中で、私は自分の感情に気が付いていた。
嫌いだと言い聞かせながら、それでも抗えない彼への引力に気付いていた。それを認める心の準備だって出来ていた。
それでもやはり、彼が目の前に現れたら、途端に臆病になるのだ。私は何も変わっていない。変わったと信じていたけれど、やはり彼の前ではそれもあまり意味を為さないらしい。
だって、変わる必要などなかったのだ。私は彼の前では自分を偽ることをしなかったからだ。

虚言を吐く私も、泣いている私も、みっともない私も全て、曝け出せたから。
臆病を隠して気丈に振舞う私も、大嫌いだと喚く私も、受け入れられると知ってしまったから。
私が私で在れるその場所を、私が愛してしまったから。

「ボクはずっと、キミが解らなかったんだ」

Nは縋り付いた私を咎めないまま、引き剥がすこともしないまま、私の背中にそっと手を回し、徐に口を開いた。

「キミのことが知りたくて、理解しようとしたけれど、どうにも上手くいかなかった。キミの言葉には真実と虚構とが混ざり過ぎていて、どれが本物かよく解らなかったからね。
けれど、嘘を吐くキミも、本音を訴えるキミも、ボクは好きだったよ」

「!」

「だから、泣いているキミを置いて行きたくはない。それに、ボクもキミと話をしたいんだ。伝えたいこと、知ってほしいことが、沢山出来たからね」

馬鹿にしないで、私がいつ泣いたっていうのよ。
そんな文句も、目に涙を溜め、頬にその跡を作った自分にはみっともない喚きにしかならないことを知っている。
だから私は、何も言わずにNの頼りなく細い腕の中で、しおらしく泣いてみることにした。透明な血はさらさらと私の頬を伝い、Nの白い手の甲へと落ちた。

「ただいま」

こいつの一言、たった一言、それだけで、私の血はその手で拭われてしまうのだ。
つまりはそうした距離に、私達はいたのだろう。

Nは少しだけ乱暴に、泣いている私の頭を撫で、もう片方の手で私の血を、拭うのではなく掬い上げるようにして、取り去った。
私はNに縋り付いたまま、やっとの思いでその一言を紡いだ。

「おかえり」

やっと会えた。

どれくらいそうしていただろうか。どちらからともなく、言葉が零れる。

観覧車に乗りたい。
……いいね。明日は晴れるみたいだから、朝一番に行こうか。
泊まっていくでしょ?
まさか、外で寝るよ。
ふざけないで。もうお母さんがあんたの分のご飯も作っているんだから。
……敵わないな。

そんな他愛もない会話を積み重ねる。彼が此処に在るのだと、私は彼の声で、彼の腕で、彼の体温で、証明しようとする。彼はもういなくならないのだと、言い聞かせている。
好きよ、とそんな会話に紛れて呟けば、Nはとても驚いた顔をして私を見た。

「キミはボクのことが嫌いなのではなかったのかい?」

「あはは、そうよね。大嫌いだったわ。今だって、大嫌いよ」

そう紡いで、私はやっと辿り着いた答えに、笑った。
きっと、嫌いだと紡いだ私もまた、正しいのだろう。今だってそんなことを平気で口にする彼が気に食わない。彼のことは、嫌いだ。
けれど、いなくなってほしくない。嫌いな彼と、話したいことが沢山、沢山あるのだ。

この人が、愛しい。

勿論、私がやっとの思いで辿り着いたその答えを、彼に教えてやるつもりは更々ないのだけれど。


そうして二人の踏み出した一歩は、同じ場所へと戻って来る。


2014.11.9

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