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陽が傾き始めれば、青い海は赤くなる。白い砂浜も同様に染まり始める。
夕日が赤くなっているのだから当然のことだと解っていた。けれど私が目を細めたのは、その景色の眩しさによるものだけではなかったのだ。

「綺麗」

歩いていた足を止めてぽつりと呟く。時間にはまだ余裕があったから、私は暫く時を忘れて、海が燃えるこの瞬間を楽しんでいた。
やがてはっと我に返り、ポケモン達に集合をかけていた桟橋へと再び向かい始めたのだが、少しの違和感がもう一度だけ私の足を止めた。私は振り返り、息を飲んだ。

彼が、夕日を見ていたのだ。

私と同じように目を細めつつも、彼は海の赤から決して目を逸らさなかった。漫然と瞬きを繰り返しながら、その目の奥は果たして何を追っていたのだろう。
何か海に気になるものがあったのだろうか。何かを探しているのだろうか。
彼がただ漫然と「見て」いるという事実に慣れていない私は、彼とこの海の美しさを共有できているのだという奇跡を認識するまでに、驚く程長い時間を要した。

「あれは、どう見ればいいんだ?」

「……私は、綺麗だと思います。でもほんの少し、悲しくなる」

「文字は一通りにしか読めないのに、景色には複数の捉え方があるのか」

「そうですよ、答えは貴方の中にしかないんです、私が決められるものじゃないんです」

そうか、と相槌を打ちつつ、彼は決してその海から視線を逸らさなかった。
彼の目にはこの景色がどんな風に見えているのか、それを考え始めるとどうしようもなく喉が渇いた。
聞きたい。貴方が何を思っているのか知りたい。私と同じように夕日を見ているのなら、そのような奇跡のようなことが起きるなら、とても嬉しい。
違っていたら、全く別の見方をしているのなら、けれどそれはそれでいい。構わない。それが当然のことだと弁えている。

白い砂浜に影が長く伸びていた。
私の影と彼の影とは当然のように長さが異なっていた。海に濡れていた筈の、色素を忘れた白い髪はいつの間にか乾いていて、ふわふわとしたはためきを影にも落としていた。
私の髪はまだ乾かない。私の髪はまだあの海を忘れることができない。

「夕方になると、海に限らずいろんなものが赤くなるんですよ。アスファルトも、砂浜も、ヒウンシティの町並みだって、赤いんです。夕日の赤は、一日の終わりを示す色なんです」

そうか、と相槌を打ってくれることを予想していたけれど、彼は少しだけ首を捻った。
「……早朝に見る眩しい太陽も、赤かったように思うのだが」と怪訝な表情で語りながらも、やはり夕日から目を逸らすことはしないのだけれど。
ここまで真摯に見つめ続けていたら、貴方の目も赤くなってしまいますよ、と告げたくなったことは、けれど内緒にしておこうと思ったのだけれど。

「朝焼けですね。私、それを見たことがないんです。歌や物語の中でしか知らないけれど、やっぱり朝の太陽も赤いものなんですか?」

「私も毎日見ている訳ではないが、赤い時もある。そうでない時の方が多い。あの眩しい黄色には名前があるのか?」

「……黄金色、でしょうか?」

ああ、帰りたくないなあ。唐突にそんなことを思った。
帰りたくない。このまま日が落ちて砂浜が黒くなるまで、ずっと海を見ていたい。真っ赤な海が真っ黒になるまで、足が痛くなるまでずっと此処にいたい。
そうして時を忘れた頃に迎えた朝が、この夕日とは反対の方向から昇る朝日が、私の言葉なんかよりもずっと雄弁に証明してくれるのだ。
これが黄金色なのだと。これが、朝を告げる色なのだと。

隣で聞こえた大きな溜め息に、はっと我に返った。
弾かれたように彼を見上げる。夕日に目を奪われていた彼を微笑ましく思っていたのだが、
そんな私もまた、夕日から目を離せずにいた、この赤に魅入られた者の一人にすぎなかったのだと思い知り、少しだけ恥ずかしくなる。
彼は私に視線を落とし、困ったように笑う。

「忙しないな」

目まぐるしく変わる世界の色を指して、彼は「忙しない」と口にした。
まるで世界に魂が込められているかのような言い方をするのだと、少しばかりおかしかったけれど、
そうした「存在し得ない魂」を存在させる力が、他でもない言葉に、文字に宿っていることを私は十分すぎる程に知っていたから、彼の言葉を笑うことができなかった。
代わりに大きく頷いた。心からの同意だった。

私達は1日や2日で変われやしないのに、海や空は1日に何度もその色を変えて、その鮮やかさで私達の目を穿つ。
私達の命はこんなにも小さく呆気ないのに、海や空はこれからきっと、何百年、何千年と先まで、変わり続けながらそこに在る。
雨が、見たくなった。空と海とを繋ぐ、細く長い水の在処を追いたくなった。きっとその恵みの雨は私に、私達に沢山のことを教えてくれるだろうから。

「ご飯にしませんか」

「……唐突だな」

風情をぶち壊しにした私の発言を、けれど彼は許してくれた。それまでの会話では決して逸らされることのなかった視線がこちらに向けられ、私のそれと交わった。
彼の目は確かにオレンジ色をしていたけれど、それは夕日に染められた色ではなく夕日を映している色に過ぎないのだと、
そのように理解していたから私は綺麗だと思いこそすれ、不安になどならなかった。
彼の瞳がどんな色をしていたか、私はしっかりと覚えている。

そういえばお前は食べるのが好きだったなと、何とも不名誉な覚え方をされてしまったらしい、そんな内容を彼は呟く。
そんな素振りをいつ見せたかしら、と考えて、しかし思い当たるものなど一つしかなかった。
サイコソーダとパンの耳で文字を教えた、あの冷たい冬からもう数か月が経過していた。
しかし時の流れがあの季節をなかったことにしようと幾ら時を回し、冬の寒さを忘れ、命を芽吹かせ、温度を上げ、彩度を上げても、彼と私はしっかりと覚えている。
きっとこれが、大きすぎる世界と小さすぎる私達の決定的な差であり、儚い生き物である私達が唯一、世界にイニシアティブを取れる事象なのだろう。

私達は覚えていることができる。名残惜しいと思うことができる。私達は、貴方達が決して手に入れることのできないものを、持っている。
だから私達は小さく呆気ない生き物であることを悔いたりはしないのだと、当然のことを繰り返して笑った。
笑いながら、「何を食べましょうか?」と、また一つ、私達だけの特権を振りかざす。

「近くの売店で何か買いましょうか。それとも、何処かお店に入りますか?」

「私はどちらでもいい」

「それじゃあ折角ですし、近場のレストランに入りましょう!着替えてから、また此処に集合です」

みんなもそろそろ帰って来ますから。
そう言うや否や、背中にそのポケモンの温度を感じた私は振り返った。
皆一様に楽しそうで、しかし一日中泳ぎ回っていたからか、心地良い疲労をその表情に見ることができた。
中には小さな擦り傷を付けたポケモンもいる。野生のポケモンと一戦交えたのだろうか。
やんちゃな彼等を笑いながら窘めて、後でポケモンセンターに行こうね、と声を掛け、ボールに戻す。
荷物を押し込んだロッカーの鍵が左腕に付いていることを確認しつつ、砂浜を蹴る。途中で振り返って手を振れば、彼は大きく頷いてくれる。

シャワー室へと駆け出した私の目に、小さな麦わら帽子が飛び込んで来た。
売り物の中でも異彩を放つ、洒落た一品だった。いかにも避暑地にやって来たお嬢様が被るようなそれに、しかし私の目は釘付けとなった。
ああ、けれど私にはサンバイザーの方が似合っている。だって私は礼儀正しい淑女のような立ち振る舞いも、溢れる激情を隠して穏やかに笑える忍耐力も持ち合わせていないのだ。
私はそうした人間で、だからこそ傲慢にも彼に言葉を説くことが叶ったのだと、解っていたから今更、そうしたおしとやかさを何処かに置き忘れてきた自分を恥じたりはしなかった。

コインランドリーの乾燥機で回した直後の服というのは、温かい。けれど海で冷え切った身体にはこれくらいの温度が寧ろ、心地良かった。
服に袖を通し、鞄を回収して桟橋に再び集合した。彼は私より先に来ていて、桟橋の一番前に立っていた。
陽はもう殆ど沈んでしまっていて、夜の暗さが彼の足元をじわじわと侵食し始めていた。その暗ささえ、彼の姿を構成する一部分なのだと思えてしまった。
そう思える程に今の彼は海に、夜に溶けていた。

私は彼の世界を構成するほんの一部分でしかない。私の世界も彼を中心に回ってなどいない。
彼が手にすべき祝福は、私の手で差し出すだけでは追いつかない。私が貰える祝福の全てを、彼の手から受け取れる訳では決してない。
弁えている。だからこそ手を伸べる。

「お待たせしました」

伸ばした手はきっと緊張と恐怖で冷たくなっている。握ってくれるだろうか、握り返してくれるだろうかと不安になっている。
それでも何処かで確信している。それでも怖い。だからこそ私はこの手を引けない。

彼はその手を見ることもなく、しかし当然のように握り返して隣に並んだ。こんな一瞬のことだって、彼の選択なのだと解っていたから微笑んだ。

「……ところで、君はこれからどうするのかな?」

振り返り、ミズゴロウに笑いかける。
ぴょんと凄まじい脚力で彼の肩に飛び乗り、ニコっと笑ってみせる。その小さく愛らしい命に彼はもう片方の手を伸べる。
ぽん、ぽんと2回、ミズゴロウの頭を軽く叩く。呆れたように笑う。

「モンスターボールの中は、狭いぞ。お前がこれまで生きてきた世界よりも、ずっと窮屈だ」

そんな酷いことを、とても嬉しそうに口にする。


2013.8.5
2016.8.28(修正)

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