3

サイコソーダの缶は、気が付けば空になっていた。
彼の空になった缶も受け取り、海水浴場に設けられた大きなゴミ箱に放り投げる。カコン、と小気味よい音を立てて二つの缶は中に入る。
少しマナーが悪いだろうかと思いながら、けれどこうでもしなければ今の心臓に収まりが付かないことなど解っていたから、私は私の愚行をそっと許した。

日差しを吸って暑くなった砂浜を歩きながら、私は周りを見渡していた。
私と彼が会うようになったあの季節は、一面が真っ白で、ただ寒く、静かだった。けれど今では少し煩いと感じる程に、様々な色が、音が溢れている。
私の頭はそれら全てを雑音ではなく、何かしらの声として、「文字」として処理をする。
意味を為さない音であったとしてもそれらは立派に言葉であり、だからこそ、少し疲れてしまう。
文字を当然のように使う私でさえこうなるのだ。つい数か月前にその術を得た彼が、このように砂浜で欠伸を噛み殺していたとして、それは仕方のないことだったのだろう。

……そう思っていたのだが、彼は思いの外、元気だった。
私と彼の体力と気力を並列に捉えてはいけないのだと、解っていたつもりではあったけれど少し、驚いてしまった。
「疲れていませんか?」と海の方へと歩き始めた彼の隣に追い付き、そう尋ねれば彼は「何故?」と短く疑問を呈した。

「えっと、……此処には「言葉」が多すぎるから」

「ああそうだ、だから私は嬉しい」

「!」

「人は重要なことも些末なことも、喜びや悲しみといった感情でさえ、次々と音に変えることを止めない、物好きで忙しない生き物なのだな。
私が格別おかしな存在である、という訳ではなかったようだ」

うれしい。
他でもない彼からそのような言葉が出てきたことに驚いていると、彼は私を置いてざぶざぶと海へ入っていってしまった。
私が付いて来ていないことに気付くと、くるりと顔をこちらに向け、小さく首を傾げながら「どうした」と問うてくれる。だから私はその驚きをなかったことにして砂を蹴る。
伸ばされた手を取れば、当然のように握り返された。腕が海に埋もれるまでその手は解かれなかった。彼がやがて手を緩めれば、私も当然のように離した。

空を飛んでいたクロバットが私を見つけたらしく、こちらへとあっという間に下降してきた。
大きく手を振ったけれど彼はそのまま私の真横を素通りし、暫く飛んだ後でまたUターンして戻ってくる。
4枚ある翼の2枚で器用に私の髪を摘まみ、からかうように上へと引っ張った。
笑いながら窘めれば彼はすぐに髪を離したけれど、空いた翼で今度は海の水を掬い上げ、ばしゃばしゃと私に向けてかけ始めた。
私も負けじと海を投げつけていたのだが、暫くしてその水量が多くなった。
至極真面目な顔でクロバットへの援護射撃を開始する彼がおかしくて、どうにも笑い止むことができなかった。

やがてクロバットは水の投げ合いに飽きてしまったのか、大きく羽ばたいて気ままに飛び去っていく。
他のトレーナーさんにちょっかい出しちゃ駄目だよ、と釘を刺して見送り、彼に視線を移してクスクスと笑う。
貴方もこういう風に遊んだりするんですね、とは言わなかった。言ってはいけないような気がしたのだ。

『私が格別おかしな存在である、という訳ではなかったようだ。』

解っている。彼は饒舌ではない。確実に寡黙な部類に入るだろう。
けれど彼は自分のことを、この砂浜ではしゃぐ数多の人々と同じように考えている。自らもこの賑やかな存在の中の一人なのだという風に捉えている。
その微妙な差が、実は私を少しばかり混乱させていた。彼がこの数か月を経て特に饒舌になった、という訳でもなかったからだ。

こうして二人で会うようになるずっと前だって、彼は私に言葉を投げていた。沈黙を貫いていたのは寧ろその後ろにいる二人の方だった。
同じ格好をしたダークさんが三人揃えば、一番に口火を切るのは必ずと言っていい程に、アブソルを手持ちに加えたこのダークさんだった。

『だからお前を許さない、私達と戦え!』
『お前に勝つ!それこそがあの方の失われた心を取り戻す、たった一つの術!』
『与えられたポケモンが泣こうとも、私達に痛みはない。』
あの頃に比べれば、彼が私に示す言葉は確実に減った。ぽつり、ぽつりと少しずつ紡がれる言葉を、私は宝石のように抱きかかえて今日まで過ごしてきた。
きっと、あの頃の饒舌な彼の言葉は、しかし「彼の」言葉ではなかったのだろう。
あれは「ダークトリニティ」としての言葉であったのだ。だから彼はその役割に課せられた言葉を饒舌に紡いだのだ。私に伝えなければいけなかったから、それが責務であったから。

『人は重要なことも些末なことも、喜びや悲しみといった感情でさえ、次々と音に変えることを止めない、物好きで忙しない生き物なのだな。』

この人はきっとつい数か月前まで、その音を自分のものにすることなく生きていた。
あの三人の中で誰よりも饒舌だった彼は、実は誰よりも寡黙だった。

「ダークさん!」

遠くを泳ぎ始めていた彼を呼んだ。振り返った彼に「楽しいですか?」と尋ねれば、その眉が僅かにひそめられる気配がした。
離れた彼の眉の動きなど解る筈がない。けれど私には見えるのだ。私は彼の表情をこんなに遠くからでも読むことが叶うのだ。
だって私が大仰な言葉で言い表した「祝福」を、私が信じないでどうするの。……ねえ、そうでしょう。

「私は楽しい!貴方と一緒だとこんなにも楽しい!」

言い終えるや否や、ざばんと海に潜った。足先をバタつかせて涼しい海の奥へ進めば、私の頬に走った熱はあっという間になかったことになった。
もっと、もっと深く。そう唱えながら足で水を蹴った。文字のない世界へと潜っていけば、この、焦燥なのか歓喜なのか分からない、嵐のような感情も鎮まると信じていた。
けれどやはり私は、自らと彼の身体能力の差を計り間違えていたようで、思いの外、あっという間に腕を掴まれ引き留められてしまった。
水面に顔を出せば、冷えていた筈の頬がまたしても熱くなったような気がした。陽が私達を照らしているから、暑いから、仕方のないことなのだと思うことにした。

私の腕を掴んだままの彼は何も言わなかった。それがおかしくてクスクスと笑った。
変なの。私に何か言いたいことがあったから、こうして追い掛けてきたんじゃなかったんですか?
けれど沈黙が続いたところで、その沈黙の裏には無数の言葉が泳いでいることが解っていたから、私は次の音を促すことなくただ微笑んだ。
彼は言葉を紡ぐための前準備として、彼の、彼のための時間をたっぷりと取った後で、口を開いた。

「……お前は大層、海が好きなようだからな」

「え?……はい、大好きです」

「だから見張っておかなければいけないと思った。取られてしまうと困る、海に」

そして私は海に潜る。それは殆ど反射的な行動だった。ぶくぶくと息を吐きながら、目の前を泡で覆った。私を見ないで、と祈っていた。

見境無く何処までも潜る私に危険を感じたのだろう。それはきっとそういうことなのだろう。だから心配してくれたのだ。彼が案じたのは私の健康だ。そういうことだ。
何度も何度も言い聞かせる。しかしもう一つの可能性が私の頬の温度を下げてくれない。
俗な言葉を使ってそれを表現するのは簡単だった。しかしその言葉は、感情は、悉く彼に似合わなかった。
けれどそれを「似合わない」とする私こそ、本当はきっと間違っていたのだ。

彼は無機質な美しさを纏う人。文字を覚えたばかりの、やっと同じ世界を見ることが叶った異次元の人。
そんな彼に自由を、と望んだのは他でもない私だった。私がそれを選んだのだ。
だから彼がこうして自由を手にした今、文字と言葉を自由に操ることを覚えた今、その教え手である私は、もう不要なものとして切り捨てられるべきではなかったのか。

私は貴方の手を離さなければいけないのではなかったか。貴方はそれを、見届けなければならないのではなかったか。

けれども彼は追ってくる。私の腕を掴んで引き留める。私を真っ直ぐに見て、私のために言葉を紡ぐ。
これが彼の選択だと、解ってしまったからこそ平静ではいられなかった。

……ああ、けれどどうして彼が「変わってしまう」などと思ったのだろう?
そんなことは在り得ないと、私があの人に説いたのに。自由になったその場所から、彼はやはり同じ人に仕えることを選んだのに。
誰に強いられたものでもなく、彼の意思として、彼は変わらないことを望んだのに。

『きっと、ダークさんも貴方を選びます。自由になった場所から、また貴方に仕えることを選びます。だから大丈夫です。』
私は、他者に説いた筈の自由の本質に、逆に驚かされているのだ。何故変わらないの、と自らの言葉を棚に上げて狼狽しているのだ。
それはひどく滑稽なことであるように思われたけれど、仕方のないことなのではないかと思ってしまった。だって私の言葉はこんなにも拙いのだ。彼の声はあんなにも力強いのだ。

腕を掴んで引き上げられた私は、否応なしに彼と目を合わせることになってしまう。
やはり沈黙するしか能のない私に、彼はおそらく計算などしていないのだろうけれど、至極真面目な顔をして、最上のタイミングで最悪な爆弾を落とす。

「お前が楽しそうなことは喜ばしいことである筈なのに、そこに私がいないことがひどく不安を煽るんだ。これは何故か、きっとお前なら、」

分かるのだろう、という言葉が続くことが解っていたから、それを遮る形で「私にそんなこと訊かないでください!」と叫び、彼の顔に勢いよく海水を浴びせた。
ゴーグルを外していたためか、目に染みるそれに小さな悲鳴が上がる。これ幸いと踵を返して水を蹴る。なるべく速く、もっと速くと唱えながら海を掻く。
どうせ追い付かれるのだろう。それは解っていた。解っていたから逃げられたのだ。
つまりはそうした距離に私達はいたのだから、追い付かれたとして、この顔を見られたとして、照れを隠すように笑わなければならなくなったとして、構わなかったのだ。

貴方は何か大きな勘違いをしている。私はそこまで出来た人間ではないのだ。
どんな質問にも顔色を変えず、丁寧に説明してあげられるような、器の大きな人間では決してないのだ。私にだって「答えたくない質問」というものがある。

彼は今も私の隣にいてくれる。けれどそれは、私が彼に文字を教えたからでは決してない。


2013.8.5
2016.8.27(修正)

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