8

(Suffering ceases to be suffering at the moment it finds a meaning.)

知りたいと彼は言った。そのたった一言に込められた思いは、私達の関係にとてつもなく大きな変換を施した。

シアさん、貴方はまた彼等の居場所を奪いたいのですか?』
文字を知らない不自由な彼等はそこに甘んじて生きるしかない、いや寧ろ、彼等にとって不自由な支配を受ける方がいいのだと断言した、アクロマさんのあの冷たい声音は、
今も時折私の背中を鋭い爪のように引っ掻き続け、私の犯した罪を責め立てるように鈍く疼いている。
痛みは月日を経て薄れていくものだという。記憶も然りだ。しかし彼のその言葉はいつまで経っても鮮明で、私の罪の重さを忘れさせてはくれなかった。

そんな重くて深くて黒いものに飲まれそうになり、私はあれからも彼の前で幾度か涙を零した。
その度にダークさんは、割れ物に触るようにぎこちなく、けれども優しく私の頭を撫でて呟く。

「続けてくれ、私は知りたい」

その言葉が、私から罪という名の荷物を奪っていく。
重くて深くて黒い、底の知れない質量を秘めたそれを、彼はいとも簡単に彼自身の背中へと移し替える。

彼を説得しようとして、……いや、そんな利他的なものではない、私がその罪から逃れようとして投げた言葉だったのだが、それが彼に未知なる感情を与えてしまった。
今までの自分を根底からひっくり返される心地が待ち受けていると知りながら、それでも手を伸ばさすには居られないという辛辣な二律背反。
彼が不安に駆られていない筈が無かった。私の言葉があろうことか、彼に不安という、決して喜ばしくない感情さえも教えてしまったのだ。
私の思い上がった行為は、彼を苦しめることしかしていないように思われてならなかった。

にもかかわらず、優しい彼は私の荷物まで背負ってくれる。
おそらく無意識であるのだろうその言葉は、しかし確実に私を救い、そして彼を蝕んでいく。

「もう直ぐ、春になるな」

彼は徐に呟く。その背中に縋りつく。「どうした」と少しばかり戸惑ったように尋ねる彼の背に隠れて、私は嗚咽を噛み殺す。
彼は優しい。だから怖い。

私はこの人を自由にすることなどできない。

「できるよ、一応」

間髪入れずに返って来た、識字の能力を肯定する返事に面食らう。観覧車は最も高いところに差し掛かろうとしていた。
窓に張り付くようにして景色を眺めていたNさんは、その視線を外さないまま、こちらが投げる質問に淡々と答えていく。

「誰から教わったんですか?」

「ゲーチスだよ。彼が教えてくれたのは専ら歴史や数学、物理だったけれど、人並み程度には文字も読めるし書くことだってできる」

この観覧車も古くなったね、と彼は呟く。おそらく二年前を思い出しているのだろう。
私はそれに相槌を打つことすらせず、「それは、」と尋ねて、しかし何と問い掛ければいいのかと少しばかり、迷った。
不自然に途切れた言葉に、「何だい?」と窓を向いたまま、彼は優しく催促をくれる。
私は一息でそれを吐き出した。

「文字は、貴方を自由にしましたか?貴方を幸せにしましたか?」

彼は二回ほど、ぱちぱちと不自然な瞬きをしてからこちらに向き直った。窓に肘を付いて考える素振りを見せる。
その沈黙は長かった。観覧車が二周目に差し掛かり、再び同じ景色を上り始めた頃、彼は困ったように笑って口を開いた。

「ああ、キミはダークトリニティの一人と会っているんだね」

「!」

「大丈夫だよ。キミが恐れるような未来にはならない。キミの選択がカレを不幸にするなどということは、あり得ない」

未来を見る、という稀有な力を持った彼は、この沈黙の間に私の未来を見たのだろうか。だからこその確信を持った響きがそこにあったのだろうか。
けれど私は、それだけではどうにも納得できなかった。もしそうした未来が見えたとして、何故その未来が選ばれたのかを私自身の言葉で考えたかった。

「ボクも2年前のプラズマ団解散を経て、自由の身になったけれど、でも、必ずしも自由がヒトを幸せにする訳ではなかったよ」

その口調はいつかのアクロマさんが発した声のように冷たく、けれど優しい。
ボクは最近になってようやく自由を知った身だからこんなことが言えるのかもしれないけれど、と彼は続けた。

「自由はそれ単独では在れない。そして自由が単独でヒトを幸せにする訳でもない。
ボクにとって、その教え手はトウコだった。だからこそボクは今、こうして笑っていられるのだと思う」

まるで、教え手により自由の色はどんな風にも変わり得るのだ、というような言い方をしてNさんは笑う。
私は彼の言葉の意味を、まだ完全に理解することができない。

「文字や自由はそうした可塑性のものだ。知り方、教え手によって如何様にも姿を変える。
キミがもし、カレを不自由にしたいのであれば、そういう風に文字を教えることだって可能だ。けれどキミはそうしない。それならば、カレが不自由になる道理などない」

「……でも、その自由が、ダークさんの居場所を奪ってしまうかもしれない」

「居場所を?……それはまた唐突な話だね。どうしてそう思うんだい?」

「文字を知ることは、権利を知ることだから。……そうしたらダークさんは、ゲーチスさんに付き従う理由を失くしてしまうから」

ああ、成る程。と彼は呟いて笑った。
実のところ、これはアクロマさんが私に投げた言葉、そのままの解釈を私の言葉で言い直したものに過ぎなかった。
それ程に彼のあの言葉は私の中で大きく膨れ上がり過ぎていた。彼の淡々とした語り口には得も言われぬ説得力があった。
彼がそう言うのなら、そうであるのだろうと思わせてしまうような引力があった。私はその言葉に飲まれる形で思考を失い、絶望し、彼との時間をただ恐れた。

けれど私はそこから更に、考えるべきだったのかもしれない。ダークさんの居場所を奪われ得ないような考えを、私が編み出すべきだったのかもしれない。
自由の教え手であった筈の私が、その自由な思考を使いこなせていなかったのだと、その情けない事実を私は今、ようやく噛み締めるに至ったのだ。

「じゃあ聞くけれど、シアはダークから離れることができると知れば、カレから直ぐにでも離れていくのかい?」

「そんなことありません。だって私は、」

他でもない、彼の傍に在りたいと望んだのだから。
そう口にするまでもなかった。

自由とは人を孤独にする力ではなく、人に選択を与える力なのだ。
彼が文字を知り、自由を知ったとして、そのことによってゲーチスさんの下を去らなければいけなくなってしまう、などということは全くなかったのだ。
だって彼等はゲーチスさんに忠誠を誓っているから。第三者から見れば少しばかり度の過ぎた、歪なものに見えるかもしれないけれど、それだって彼等の形なのだから。
彼等はきっと、自らが取り得る選択の広さを知って、それでも他でもない彼に仕えることを選ぶ筈だから。
私がダークさんの傍に在りたいと、彼と世界を共有したいと望んだように、そうして彼等の形はより自由なものに変わっていく筈だから。

「キミは多くの人に愛されているから、キミを案じるが故に厳しいことを言われてしまうこともあるだろう。
でもキミはその言いなりになる必要なんてないんだ。キミがカレに教えようとした自由は、言葉の力は、そうした、一方的に相手を屈服させるものでは決してなかった筈だ」

そうだ、その通りだ。言葉はそうした一方的なものでは決してなかった。感情を徒にぶつけるために文字を操っているのでは決してなかった。
そんな当然のことを、私は恐れるがあまり、忘れていた。あの旅での経験は私を少しばかり臆病にしていたらしい。
けれどもう、大丈夫だと思えた。その力をくれた彼に「ありがとうございます」と頭を下げれば、彼は困ったように笑って肩を竦めた。

「ボクは何もしていないよ。全てはキミの力だ。でもキミがそれを思い出すきっかけとなれたのなら、ボクはキミとこうして観覧車に乗れたことを、光栄に思うよ」

さあ、次はキミがボクの話を聞く番だ、と彼は至極楽しそうに口火を切り、難しい数式や物理の用語を無数に操り、とんでもない量の言葉をとんでもない早口で紡ぎ続けた。
一体、観覧車を何周したのか分からないくらい、私と彼との間にはあまりにも多くの言葉が飛び交った。
彼の操る言葉の世界は私には理解の及ばないところにあったけれど、それでも彼がとても楽しそうに言葉を重ねるから、私は訳が解らないなりに相槌を打って、続きを促した。
世界が交わらなくとも温かい思いになれることがあるのだと、私はまた一つ、新しいことを彼に教わった。

果たして、私は彼にどんな回答を求めていたのだろう。
文字を知って幸せだと笑って欲しかったのか、自由を求めるのは悪いことではないと諭して欲しかったのか、あるいはただ私の懺悔を聞いてくれるだけで良かったのか。
馬鹿げている。私に必要なのは肯定されることでも許しを与えられることでもなかったのに。
けれど今日、この日はきっと、私にとってかけがえのない時間だった。彼のおかげで私は大事なことを思い出せた。だからきっと大丈夫だ。

「自由とは?」と私に問うた彼の言葉が脳内で反響する。今なら、彼の目を見て私なりの答えを紡ぐことができるかもしれない。


2012.12.9
2016.3.17(修正)
(苦しみは意味を見つけた瞬間に苦しみであることをやめる。)

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